本能寺の変 1582 上総介信長 8 225~226 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
上総介信長 8 兄、信広の謀叛
*225~226は、バックナンバーです。
225 三郎五郎殿、御謀叛の事。 『信長公記』
信広は、斎藤義龍と通じていた。 『信長公記』
義龍が尾張へ向かった。 『信長公記』
226 信長は、用心深い。 『信長公記』
信長、出陣。 『信長公記』
信広は、清洲へ向かった。 『信長公記』
信広の謀叛は、失敗に終わった。 『信長公記』
義龍は、軍勢を引いた。 『信長公記』
信長は、帰陣した。 『信長公記』
信長は、孤立していた。 『信長公記』
信長の家臣は、七、八百。 『信長公記』
⇒ 次回へつづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?