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本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 5 236~239 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の甲斐侵攻 5 潮目の変化 

*236~239は、バックナンバーです。

236 信長は、伊那谷を北上した。       「武家事紀」

   信長は、松井友閑へ戦勝を伝えた(①~⑪)。    「武家事紀」
   ①穴山梅雪は、内通していた。          「武家事紀」
   ②勝頼の首。                  「武家事紀」
   ③典厩信豊の首。                「武家事紀」
   ④仁科信盛の首。                「武家事紀」
   ⑤歴々の者ども。                「武家事紀」
   ⑥土岐頼芸他。                 「武家事紀」  

237 ⑦我ながら驚き入る計りに候。      「武家事紀」

   信長は、己の勢威を再認識した。

   光秀も、驚いた。

   ここで、潮目が変わった。

   光秀の心の内には、大きな不安が湧き上がった。
   信長は、大いに満足していた。 

238 ⑧信長は、北条氏との友好関係を保持した。「武家事紀」

   信長は、視点を、東国から西国へ切り替えた。
   ⑨信長は、信忠を現地に残した。         「武家事紀」 

239 ⑩信長の、老臣に対する姿勢である。   「武家事紀」

   信長は、光秀を老人扱いしていない。
   ⑪信長は、友閑に、世に喧伝するよう命じた。   「武家事紀」 

 

          ⇒ 次回へつづく

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