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本能寺の変 1582 上総介信長 9 227 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 9 斯波義銀の裏切り 

信長は、今川との和睦を模索した。

 この頃だろう。
 信長は、尾張の斯波氏と三河の吉良氏を対面させた。
 表面上は、両国守護の講和である。
 しかし、真の狙いは、今川との和睦。
 信長は、義元の攻勢に、押され気味であった。
 これ以上の尾張侵攻を、何としても、阻止せねばならなかった。

武衛様と吉良殿と御参会の事。

 信長は、斯波義銀を利用した。

  一、四月上旬、三川国吉良(義昭)殿と武衛(斯波義銀)様、
    御無事(講和)御参会の扱ひ、
    駿河(=今川氏)より、吉良殿を取り持ち、相調へ侯て、
    武衛様御伴に、上総介殿御出陣。

 参会の場所は、三河上野原(愛知県豊田市上野町)。
 
    三州の内、上野原に於いて、互に人数(=軍兵)立て備へ、
    其の間、一町五段には過ぐべからず。
 
    申すに及ばず、一方には武衛様、一方には吉良殿、
    床木に腰をかけ、御位のあらそひ(序列)と相聞こえ、
    十足計り宛(づつ)双方より、真中へ運び出だされ、
    別の御品(成り行き)も御座なく、又、御本座に御直り侯なり。
 
    さて、それより御人数(=軍兵)御引取り侯なり。

信長は、大義名分を重んじた。

 守護斯波氏の権威を尊崇する姿勢をみせた。
 清洲織田氏の最期を見よ。
 【参照】192・207
 下剋上。
 斯波氏を、その「隠れ蓑」としている。
 
  一、武衛様、国主と崇め申され、清洲の城を渡し進(まいら)せられ、
    信長は、北屋蔵へ御隠居侯ひしなり。
                          (『信長公記』)

やがて、これが裏目に出る。

 今川義元は、この裏を掻く。
 斯波義銀を抱き込んだ。

          ⇒ 次回へつづく


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