本能寺の変 1582 光秀という男 5 115 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀という男 5 1400年代
土岐政房もまた、妙純の傀儡にすぎない。
父成頼の夢は、脆くも崩れた。
しかし、勝者であるはずの政房もまた、父と同じ傀儡の道を歩む。
斎藤氏は、再び勢いを取り戻した。
妙純は、ここで、ようやく、養父妙椿と同様の権力を手に入れることが
できた。
しかし、好事は長続きせず。
妙純が近江で戦死した。
同年(明応五年1496)暮れ。
妙純は、近江の陣中にて討死した。
夜間、土一揆が襲撃。
斎藤氏は、壊滅的被害を蒙った。
戦死者、千余という。
斎藤氏の勢力は、大きく減衰した。
この戦いで、多くの一族が戦死した。
斎藤氏は、危機的状況に陥った。
⇒ 次回へつづく
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