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本能寺の変 1582 光秀という男 1 94 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀という男 1 『日本史』 

光秀は、信長に従順だった。

 目覚ましい立身出世の裏には、涙ぐましい努力があった
 新参者となれば、なおさらである。
 信長の信頼を得るために、苦労していた様子が見えてくる。

  彼は誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、

  その親愛の情を得るためには、
  彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、

光秀は、信長の気性をよく知っていた。

 これもまた、戦場。
 佐久間信盛とは、大違いであった。

  彼の嗜好や希望に関しては、
  いささかもこれに逆らうことがないよう心掛け、

  彼の働きぶりに同情する信長の前や、
  一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、
  自らはそうではないと装う必要がある場合などは
  涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。
                           (『日本史』)


          ⇒ 次回へつづく 

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