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本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 2 87 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の甲斐侵攻 2 信忠、諏訪進出 

信忠の侵攻速度があまりにも速すぎた。

 勝頼の予想を、はるかに超えるものであった。
 
  武田四郎勝頼、高遠の城にて、一先(ま)づ相拘(かか)へらるゝと
  存知られ侯ところ、
  思ひの外、早速、相果て、
  既に、三位中将信忠、新府へ御取り懸け候由、取々申すにつきて、

武田氏は、瓦解した。

 勝頼の指揮に従う者など、誰もいない。
 
  新府在地の上下一門・家老の衆、軍の行(てだて)は、一切これなく、
  面々の足弱(女)・子供、引越し侯に取り紛れ、撥忘致し、
  取る物も取り敢へず、

 
参ずる軍勢も無し。
 
  四郎勝頼、幡(旗)本に人数一勢もこれなし。

  武田信豊は、小諸へ逃れた。
 信豊は、信繁(信玄の弟)の子。
 勝頼の従弟である。

  爰より、典厩、引き別れ、信州さく(佐久)の郡小諸に楯籠り、
  一先づ、相拘(かか)ふべき覚悟にて、下曽根(浄喜)を憑(たの)み、
  小諸へのがれ侯。

勝頼は、孤軍となった。

 織田軍の攻撃に対して、たった一人になってしまった。

  四郎勝頼、攻め、一仁(にん)に罷りなる。
                          (『信長公記』)

          ⇒ 次回へつづく 


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