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本能寺の変 1582 光秀の年齢 2 136 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の年齢 2 柴田勝家と滝川一益 

光秀の遠征戦。

 以下、主な遠征を簡略に示す。
  
  天正三年(1575)八月~九月  越前一揆殲滅戦。
  天正三年(1575)九月     丹波・丹後攻略作戦、始まる。        
  天正四年(1576)四月~五月  石山本願寺を攻める。
  天正五年(1577)二月~三月  紀伊雑賀攻め。
    〃   〃  八月     松永久秀、謀叛。   
    〃   〃  九月~十月  信貴山城を攻める。
  天正六年(1578)五月~六月  秀吉支援のため播磨へ出兵。     
    〃   〃  十月     荒木村重、謀叛。
  天正七年(1579)十月     丹波・丹後攻略、成る。
    〃   〃  十一月    有岡城、開城。

光秀の甲斐遠征

天正十年(1582)、三月~四月。

   ルートは、次の通りである。

    近江→美濃→信濃→甲斐→駿河→遠江→三河→尾張→美濃→近江

   安土を起点として、総延長は、平面で、ザックリと計算して、
   約700㎞。
   これでも、相当、長い距離である。
   
   しかし、実際は、そのほとんどが、険難な山中の道。
   山あり、谷あり、峠あり、曲がりくねった道。
   アップダウンの激しい道だったであろう。
   越すに越されぬ大河も、幾本もあった。
   天候の問題もある。
   厳しい行軍だったものと思う。

   これを立体的かつ詳細に計算すれば、1000㎞近くになる
   のではなかろうか。

   昔の人は、健脚だった。
   しかし、若者ならばいざ知らず、果たして、老人に、可能なの
   だろうか。
   難しいと思う。
   如何だろうか。
   わからない部分である。


          ⇒ 次回へつづく


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