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本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 4 172 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

斎藤道三の下剋上 4 大うつけ 

信秀は、末盛城へ移った。

 天文十八年(1549)秋。
 おそらく、この頃だろう。
 信秀は、新たに末盛城を築き、そこへ移った(愛知県名古屋市千種区城山町
 2丁目)。
 
  一、去る程に、備後殿、古渡の城破却され、
    末盛と云う所へ山城をこしらへ、御居城なり。
                          (『信長公記』)

信秀は、今川義元を警戒していた。

 新城は、古渡城の東方一里半(6km)の位置にある。
 義元の西方進出に備えた。

信秀が病床についた。

 勢力、減衰。
 その上、病。
 「弱り目に、祟り目」
 そして、信長はまだ若い。

信長が政務の一部を代行した。

 この頃からである。
 信長の前途には、大きな波乱が待ち受けていた。 
 
 

          ⇒ 次回へつづく

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