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本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 4 173 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

斎藤道三の下剋上 4 大うつけ 

信長は、藤原氏を称した。

 以下は、信長が尾張熱田八ヶ村に宛てた制札。
 信長の初見文書とされる。
 この中に、「藤原信長」、とある。
 信長の織田氏は、元々「藤原」の姓だった。
 
      制札            熱田八ヶ村中
 
  一、当社御造営のために、宮中に人別を収めらるべし、
    然る上は、国次(なみ)棟別幷(ならび)に、他所・他国の諸勧進を
    停止せしむるの事、
 
  一、悪党現形(げんぎょう=悪事)に於いては、
    届けに及ばず成敗すべきの事、
 
  一、宮中、先例に任せ、他国・当国敵味方幷(ならび)に奉公人、
    足弱、同預ヶ物等、改めべからざるの事、

    付けたり、宮中へ出入りの者え、路地に於いて、非儀(=無理)を
    申し懸くるの事、
 
  一、宮中え使事は、三日以前□□幷に其の村へ相届け、糾明を遂げ、
    其の上難渋に就いては、譴責使を入るべきの事、
 
  一、俵物(=米俵)留の事、前々の判形の旨に任せ、宮中え相違なく
    往反の事、
 
    右条々、違犯の輩(ともがら)に於いては、速やかに厳科に処す
    ものなり、
    仍って、執達件の如し、
  
      天文十八年十一月 日         藤原信長(花押)
                      (「織田信長文書の研究」)

信長は、後に、藤原氏から平氏に改姓する。

 元亀二年(1571)、信長が、白山別宮に寄進した鰐口の銘文に
 「平信長」、とある。
 
 これについては、後述する。 
 

          ⇒ 次回へつづく

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