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本能寺の変 1582 上総介信長 4 202 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 4 道三の援軍 

村木砦の合戦。

 天文二十三年、一月二十四日。
 
信長は、村木砦を攻めた。
 
  一、正月廿四日、払暁に出でさせられ、
    駿河衆楯籠り侯村木の城へ取り懸け、攻めさせられ、
    北は、節所、手あきなり。
    東は、大手。
    西は、搦手(からめて)なり。

信長の親衛隊が活躍した。

 子飼いの若者たち。
 激しい戦だった。
 
  南は、大堀、
  霞むばかり(霞むほどひろく)、かめ腹(甕のような形状)にほり上げ、
  丈夫に構へ侯。

  上総介信長、南のかた、攻めにくき所を御請取り侯て、
  御人数付けられ、
  若武者ども、我劣らじと、のぼり、
  撞(つ)き落とされては、又、はひあがり、
  手負・死人、其の数を知らず。

信長は、鉄炮を用いた。

 自身も、鉄炮を手に取っている。

  信長、堀端に御座侯て、鉄炮にて、狭間三ツ御請取りの由仰せられ、
  鉄炮、取りかへ取りかへ、放させられ、
  上総介殿御下知なさるゝ間、我も々々と攻め上り、
  塀へ取り付き、つき崩しつき崩し、

 織田軍は、三方向から攻め立てた。
 総攻撃である。
 
  西、搦手の口は、織田孫三郎殿攻め口、是れ又、攻めよるなり。
  外丸一番に、六鹿と云ふ者、乗り入るなり。
  東、大手の方は水野金吾攻め口なり。
                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく




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