本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 3 54~56 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀と細川藤孝 3 「天下布武」
*54~56は、バックナンバーです。
54 永禄十年(1567)、夏。
斎藤氏は、内側から崩れた。 『信長公記』
信長は、この時を待っていた。 『信長公記』
信長は、稲葉山を包囲した。 『信長公記』
55 斎藤龍興は、伊勢長島へ逃げた。 『信長公記』
信長は、稲葉山城を無傷で手に入れた。
信長は、美濃を平定した。 『信長公記』
信長は、井口の名を岐阜と改めた。 『信長公記』
斯くして、阻害要因は無くなった。
56 「天下布武」
信長は、己の決意をこの朱印に込めた。 「坂井遺芳」
信長は、正親町天皇より綸旨を与えられた。 「信長文書の研究」
同じ頃、足利義昭は越前一乗谷にいた。 「朝倉始末記」
⇒ 次回へつづく
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