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本能寺の変 1582 光秀の苦悩 4 28 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の苦悩 4 粛清の怖れ 

信長は、信盛を切り捨てた。

 「手柄を上げる」か、「討死」するか。
 これすなわち、「不要」、と同意。
 
  一、此の上は、いづかた(何方)の敵をたいらげ、
    会稽(かいけい)を雪(そそ)ぎ、一度帰参致し、
    又は、討死する物かの事。

信盛は、不意を衝かれた。

 恐ろしい時代なのである。
 「一寸先は闇」
 全く、予期せぬことであった。

そして、追放。

 信盛は、高野山で謹慎する他なかった。 

  一、父子かしらをこそげ、高野の栖(すまい)を遂げ、
    連々以て(それをずっと続ければ)、
    赦免、然るべきやの事。

                          (『信長公記』)

信盛は、全てを失った。

 地位も、名誉も、所領も、家臣も、財産も。

フロイスの証言である。

 この頃、フロイスは九州にいる。
 畿内方面には、盟友オルガンティーノがいた。
 
  佐久間(信盛)殿は、信長の総司令官であり、彼が政庁において有する
  もっとも高位で、富み、かつ強力な殿であった。
 
  ところで彼はその性格から戦いにおいてあまり活躍せぬばかりか、
  むしろいくぶん怠慢でもあったので、
 
  信長は彼が身分の高いことやその親族が有力であることを考慮せず、
  また彼が将来いつかは必要とする人物であることを考えることなく、
  彼をその息子(正勝)とともに追放してしまい、

   信盛は流謫(るたく)中に死去するに至った。
                           (『日本史』)

この事件は、光秀に大きな影響を与えた。

 「彼が将来いつかは必要とする人物であることを考えることなく」
 意味深い一言である。

 この事件が、有ったから、・・・・・。
 否、無かったら、・・・・・。

 
 「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。
 この一点に焦点を絞りました。
    『光秀記』
 「史料」を読めば、「真実」が見えて来る。
 だから、歴史は面白い。

 ご期待ください。


          ⇒ 次回へつづく 

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