本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 4 170 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
斎藤道三の下剋上 4 大うつけ
信秀は、清洲織田氏との和睦に失敗した。
交渉役は、平手政秀。
しかし、これは不調。
平手中務丞、
清洲のおとな衆、坂井大膳・坂井甚助・河尻与一とてこれあり。
此の衆へ、無事(和睦)の異見数通侯へども、
平手扱ひ、相調はず。
(『信長公記』)
信秀は、道三と和睦した。
天文十八年(1549)
ここでもまた、平手政秀が活躍する。
信秀は、二面作戦を取り止めた。
東方の脅威。
今川義元の侵略に備えた。
信長は、道三の娘を妻に迎えた。
同年、春。
婚儀、成立。
時に、信長十六歳。
娘の方は、十五歳という。
「政略結婚」
斯くして、尾・濃の間に平和が訪れた。
さて、平手中務才覚にて、
織田三郎信長を斎藤山城道三の聟(むこ)に取り結び、
道三が息女を尾州へ呼び取り侯ひき。
然る間、何方も静謐(せいひつ)なり。
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく