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本能寺の変 1582 光秀という男 5 116 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀という男 5 1400年代 

同じ頃、京都。

 将軍は、第十代足利義材。
 父は、第八代将軍足利義政の弟、義視である。

細川政元が将軍足利義材を追放した(明応の政変)。

 明応二年(1493)。
 細川政元は、クーデターを決行した。
 将軍義材を廃し、新将軍に足利義澄を据えた。
 すなわち、将軍の首を挿(す)げ替えた。

 政元は、細川嫡流家(京兆家)の当主。
 応仁の乱で、東軍を率いた細川勝元の子。
 幕府の管領。
 摂津・丹波・土佐・讃岐、四ヶ国の守護。

 義澄は、義政の別弟、堀越公方足利政知の子である。 

将軍の権威は、失墜した。

 幕府の衰退は、誰の目から見ても明らかだった。
 将軍は、実権を失った。
 ここからである。
 将軍の傀儡化が進行する。

細川政元の専制政治が始まった。

 政元は、政敵を排除し、幕府の実権を掌握した。
 以後、細川京兆家が幕政を牛耳る。

 義材は、越中へ逃れ、亡命政権を樹立した。 
 流れ公方となり果てるも、再起の時を窺う。

細川政元は、叡山を焼討した。

 明応八年(1499)。
 比叡山が義材に味方した。

 政元は、これを察知、即座に、軍勢を派した。
 叡山は、焼け落ちた。

 信長の叡山焼討は、元亀二年(1571)のこと。
 これに遡ること、72年前の事件。

政元は、細川京兆家の全盛時代を築き上げた。


          ⇒ 次回へつづく




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