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本能寺の変 1582 光秀の苦悩 6 90 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の苦悩 6 守るべき者 

光秀は、明智の将来に不安を抱いていた。

 一、己の年齢。
 一、己の体力。
 一、嫡男光慶は、まだ13歳だった。

 【参照】光秀の苦悩 1 嫡男光慶 14~15

光秀は、志向の違いに悩んでいた。

 ここまでは、よかった。
 問題は、この先こと。
 すなわち、「天下布武」が成った後。
 =日本統一を成し遂げた後のこと。
 光秀は、平穏・安寧を望んでいた。

  国々は、猶、長閑(のどか)なる時、    光慶
                          (「続群書類従」)
 
【参照】光秀の苦悩 1 嫡男光慶 14~15

 だが、しかし、・・・・・。
 戦いは、終わらず。

 一、信長には、「さらなる夢」があった。

 【参照】光秀の苦悩 2 志向の相違 16~17 

光秀は、信長との意思の疎通に問題が生じていた。

 一、光秀は、妹妻木氏を亡くした。
 一、光秀は、信長とのパイプ役を失った。

 【参照】光秀の苦悩 2 志向の相違 17

光秀は、信長の猜疑心を怖れていた。

 光秀は、強力な武力を有していた。
 五ヶ国の軍勢を動員することが出来た。

 一、光秀は、「持てる者」に成り上がった。
 一、領地は、丹波一国、近江志賀一郡。
   さらに、山城に強い影響力があった。
 一、丹後の細川藤孝・大和の筒井順慶を与力にしていた。

 否、そればかりではない。
 土佐の長宗我部元親と、きわめて親しい関係にあった。
 元親は、四国統一を目前に、野望に燃えていた。 

 信長は、戦国武将。
 猜疑心が強い。

 一、信長は、弟信勝を殺害した。

 似たような例は、他にも、山ほどある。 
 それ故、ここまで、生き延びた。
  〃 、これ程までのことを成し遂げた。 

 【参照】光秀の苦悩 3 信長の猜疑心 18~19

信長は、光秀を警戒していた。

 光秀のみならず。
 大領を与えた家臣。
 その、全てに対して。
 秀吉、然り。
 柴田勝家、然り。
 丹羽長秀も、また然り。
 これが、当時の風潮。
 当然のことだった。 

光秀には、粛清の怖れがあった。

 光秀とて、同じ戦国武将。
 そのことは、知っている。
 これまた、当然のこと。
 それ故、ここまで、生き延びた。
  〃 、これ程までに立身出世した。

 一、光秀は、洞察力に優れていた。
 一、光秀は、信長の心の内がよくわかった。
 一、走狗煮らる。
 一、光秀は、用済みになるのを怖れた。

 信長は、命に逆らう者を容赦しない。
 
 一、信長は、闘争心が強い。
 一、信長は、誇り高い男だった。 
 一、信長は、我慢強い。
 一、執念深い。 
 
 一、佐久間信盛の粛清。
 一、信長は、不意を衝いた。 
 一、信長は、恐ろしい男であった。
 一、信長は、将来を考えた。
 一、信長は、合理的思考の持ち主だった。
 一、信長は、最後まで、信盛を赦さなかった。 

 一、光秀は、信盛の死に様を知った。
 一、光秀の苦悩は、次第に大きくなっていった。

 【参照】光秀の苦悩 4 粛清の怖れ 20~31 

光秀には、守らねばならぬ者たちがいた。

 一、信長は、苛烈だった。
 一、信長は、女房衆を誅殺した。
 一、細川忠興は、光秀の娘婿である。
 一、光秀は、風流の人だった。
 一、光秀は、節度の人。
 一、光秀は、文武両道の人
 一、信長は、天下統一から、さらなる夢へ。
 一、光秀には、守らねばならぬ者たちがいた。
 一、明智は、絶頂期にあった。
 一、二人の距離は、少しづつ、離れていった。

【参照】光秀の苦悩 5 分かれ道 32~36       

 なお、これらについては、後述する。

          ⇒ 次回へつづく 


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