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本能寺の変 1582 光秀の年齢 2 139 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の年齢 2 柴田勝家と滝川一益 

信長は、老臣たちの「知」を重んじた。

 彼らの、知識・教養・経験等を重視した。

信長は、老臣たちの体力を気遣った。

 しかし、彼らには、体力に難があった。
 「路次険難、老足叶うべからざる儀に候」
 
残念なことである。

 以下は、信長が、天正十年(1582)三月十七日、松井友閑に送った書状
 である(一部抜粋)。

  此の如く、卅日・四十日際に一偏に属するの事、
  我ながら驚き入る計りに候、
 
  相州氏政(北条)、駿河へ在陣にて、一廉(ひとかど)馳走候、
  東八箇(ヶ)国の儀は勿論、い儀なく隙を明け候、
  然らば、甲斐・信濃の事、城介(信忠)を残し置き申し付くべき候、

  信長は、不日、帰国すべく候、
  爰許(ここもと)見廻り無用に候、
  年寄ども呼び寄すべきと存じ候へども、
  路次険難、老足叶うべからざる儀に候間、
  罷り越すべからず候、

          (「松井友閑宛黒印状写」「織田信長文書の研究」)

 なお、これについては、後述する。


          ⇒ 次回へつづく



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