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本能寺の変 1582 上総介信長 2 193 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 2 富田聖徳寺 

信長は、立派な戦国武将に成長していた。

 繰り返す。
 信長は、この時、二十歳になったばかり。
 時代環境が、一人の人間を、斯くも、逞しく、育て上げるのである。
 戦国時代は、過酷だった。
 そのことが、信長のような人物をつくったと言える。

光秀も、これに同じ。

 尾張と美濃。
 なるほど、生国に、違いはある。
 しかし、ともに同時代を生きた。
 生年は、信長より10年ほど早いように思う。
 すなわち、戦国時代の風潮が、より色濃かった時期。
 しかも、美濃。
 過酷さにおいては、尾張以上だっただろう。 
 光秀は、その様な美濃の、争乱と下剋上の中で、生れ、育った。
 戦国時代の過酷な生活環境が、光秀という男をつくったと言えるのでは
 ないか。


          ⇒ 次回へつづく


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