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本能寺の変 1582 光秀の年齢 5 149 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の年齢 5 結論 

「当代記」には、六十七歳とある。

 すなわち、永正十三年(1516)の生れと言っている。
 しかも、二ヶ所にその記述がある。
 場面は、ともに、山崎の合戦直後。

 一ヶ所目。  

  抑(そもそ)も、明知日向守光秀は、一僕(召使)の者、
  朝夕の飲食さへ乏しかりし身を、

  信長、取り立て給ひ、
  坂本の主として、其の上、丹波国一円、下され、
  懸かる不思議、存立の事、是非に及ばざる次第なり、

  忽(たちま)ち、天責(天罰)を蒙り、
  同(六月)十三日に相果て、跡かたなく成る、
  時に、明知、齢(よわい)、六十七、

 二ヶ所目。

  同六月十三日、合戦、
  明知、則ち、敗北、
  坂本の城に、引き入るべきの旨、存じ歟(か)、
  山科に於いて、逃げ来たり、
  百姓等に打ち殺さるゝ、
  齢(よわい)、六十七、

 しかし、何を根拠としたのだろうか。
 それが、わからない。
 これを裏付けるに足る、信頼できる有力な史料がないのである。

 これでは、あまりにも、高齢に過ぎる。
 そう、思うのだが・・・・・。
 如何、だろうか。

 新たな史料の発見に期待する。 

          ⇒ 次回へつづく




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