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コロナが連れてきた春休み

コロナが長い春休みを持ってきてくれた。
社会人になると手に入りにくい長期休みだ。
しかも長期ずっと休みではなく、無理ない程度にお仕事があり、おかげさまで私はお給料もきちんと振り込まれてくる。
考える時間ばかりが増えて行動に移せない性分が祟ってか、「何かしたいけれど何をすれば良いかわからない」という状態から抜け出せずに、この春休みを無為に過ごしてしまっている。

けれど、今こうやってお休みしながらお仕事をしていて思うのは、そんなに行き急がなくても良かったのではないか、ということ。
言葉にするには難しいけれど、なんというか、「楽しい」と思える余裕もなく、ただただ仕事に追われていた気がするし、そうでなければ「社会不適合者」としての烙印を押されてしまう気がしていて、その烙印から逃げるように仕事をしていた気がする。

やりたいこともない、ただなんとなく身の回りの人を幸せにできるくらいのお仕事があれば良いと思う、そんな余裕もなく。

誰かが言っていた、
「世の中が成長しているのだから同じだけ自分も成長しなければ、遅れていることになる」
だから私も世の中に遅れないように成長しなければ、今日も明日もやらなければいけないことで埋めて成長しなければ。
そうやって自分を焦らせて成長したつもりになっていただけかもしれない。

アラサーになってくると、成功している人は成功してそうでない人はそうでないとはっきりと差がついてくる。
私は「そうではない人」側に回りたくなくて「成功している人」側にいたがったけれど、もしかしたら「そうではない人」側のほうが私にはむいているのかもしれない。
なんて、この春休みにぼんやりと思っていた。

置いていかれるのは寂しいし、怖い。
それだけではなく、働かなければ衣食住が脅かされる。
いつか仕事をするだけの体力がなくなった時でも、私は生きないといけない。資本主義の中で。

資本主義ではお金の価値は基本的には上がるはず。
そうやって上がる価値に合わせるために毎日あくせく働く。
なんのために?
きっと私が今日働いた以上にどこかで価値はもっとすごいスピードで上がっていっているというのに。
その価値の一番高いところを知れる人は果たして幸せなんだろうか。
その高いところを知るために、私は毎日身を粉にして働いているんだろうか。

私が働いているのは、身近な人を幸せにしたいからなのに、働いて、疲れて帰ってきて、寝て、起きたらまた働いて。
どこで私の身近な人を幸せにできているんだろう。

そういえば、幸せってなんだっけ。
私が仕事をしている理由ってなんだっけ。
毎日お客さんにぺこぺこ頭を下げるために仕事してるんだっけ。

朝起きて、隣にいる好きな人に「おはよう」って言って。
朝ごはんを一緒に食べて、食後にコーヒーを飲んで。
「いってらっしゃい」って送る。
次会うのは「おかえりなさい」
今日1日あったことを話して「おやすみなさい」
そんな毎日に憧れていたのに。

「おはよう」
「いってきます」
「ただいま」
おやすみは言う間もなく疲れて先に寝てしまう。
そんな毎日、どこが幸せなんだろうって。

だから私はいつか
「おはよう」
「いってらっしゃい」
「おかえり」
「おやすみ」
って言えるような、そんな仕事がしたい。

責任感はなくても良い。
ほどほどに楽しくて、ほどほどにお給料ももらえる。
そんな仕事で良いと思い始めた。

そんなに上を目指して行き急がなくて良い。

そんな春休みを、奇しくもコロナが連れてきてくれました。



Love mitsuha__

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