思い出す冬

人は忘れる生き物だ、とはよく言われたものだ。今日があるように、空があるように疑うことも無しに忘れていく。それでも忘れられないことというのがある。もちろん僕にも。

僕が15歳の時から愛読している村上春樹の『ノルウェイの森』という小説にこのような一節がある。

『駅の外に出ると、彼女はどこに行くとも言わずにさっさと歩きはじめた。僕は仕方なくそのあとを追うように歩いた。直子と僕のあいだには常に一メートルほどの距離があいていた。もちろんその距離を詰めようと思えば詰めることもできたのだが、なんとなく気おくれがしてそれができなかった。僕は直子の一メートルほどうしろを、彼女の背中とまっすぐな黒い髪を見ながら歩いた。彼女は茶色の大きな髪どめをつけていて、横を向くと小さな白い耳が見えた』


20歳だった僕は2月のある日に大阪にいた。当時付き合っていた彼女と学生プランで格安旅行を敢行していたが、些細な喧嘩から数日経ちその後いきなり東京駅で合流しそれが完全な解決をしていなかったのだと今は思う。人間関係というのは地続きなもので、明確に点として浮かぶ明確な喧嘩の理由なんて無いが、その時はきちんと二人の歯車が噛み合っていないことはわかっていた。

梅田の地下街を二人で歩いていた。彼女は何も言わず、歩き出して僕は彼女の後ろを歩いていた。彼女は立ち止まり、抹茶ティラミスの店に入った。定番っぽい抹茶ティラミスを二つ頼んだあと彼女は口を開いた。

「貴方が私のことをとても深く愛してくれていることはわかっている。でも、私には貴方以外の選択肢もあるし、貴方にも同じことが言えるということは覚えておいて欲しいの」

いまだにはっきり覚えている言葉だ。その後少しの間大阪を観光し、コナモンミュージアムやあべのハルカスの展望台を巡った後に西中島南方にあるホテルにチェックインした。僕たちは浴槽にお湯を溜めて、いつもそうするように二人で入った。少しの談笑の後に彼女は暗い顔をしたので、僕は彼女が口を開くまで待つことにした。長い沈黙の後、彼女は口を開いた。

「やっぱり私は貴方とは付き合えないし、できることなら別れたい。本当は大阪に来る前か帰ってから言おうと思っていたんだけど、他に好きな人がいるの」

僕はすんなり受け入れ、このような状況になってしまった以上は遅かれ早かれこの言葉は聞くことになっていたんだろうなと冷静に考えていた。その晩に彼女がしてくれた前戯がとても愛に溢れていたように感じて、無粋にも僕はいつもと違うね、と言った。

「深く愛していることに変わりはないし、感謝や愛情というのを上手く言葉伝えられる自信がなかったから。それに私貴方とするのは嫌いじゃなかったのよ」

僕は彼女の滲んだ茶色の瞳と真っ直ぐとした黒い髪を見つめることしかできなかった。その時捉えた光景を僕は冬になると時折思い出してしまう。

#小説 #過去 #ノスタルジー   #note始めました

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?