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450,000,000という大きな数字

前回はじめてnoteを書かせていただき、約300人ぐらいの方に読んでいただけました。サポートもいただいたり、本当にありがとうございます!

ちなみに前回反響が良かったnoteは下記から。(…え?そこ自分で言う?)読まれてない方はお時間あるときにご一読いただき、読んでいただいた方は是非サポートまでいただけると嬉しさ満点です。(ちなみに12月9日が誕生日でしたよ!わたし!!)

さすがに今回のnoteは前回のようにはいかないとは思いますが、今回もぜひ最後まで読んでみてください。スキやコメント、サポート、アドバイス等引き続きお待ちしております。

そんなこんなで今回のタイトルにある450,000,000(4億5,000万)って、何の数字かわかりますか?

Play Stationの販売台数(ギネス記録 *2019.12.03時点)だったり、巨人 丸の2020シーズンの年俸だったり、70歳手前までのまばたきの回数だったりいろいろ想像してくれていると思いますが…、


実は『バスケの競技人口』なんです!


次いでサッカーの2億5,000万人となっているので、かなりの差がありますね。

前回のnoteでもちらっと書きましたが、バスケを中学入学と共にはじめました。今回は自分がはじめて本気で取り組めた?取り組んだ?ことで今の自分の礎になっていると言っても過言ではないバスケに関するnoteです。


バスケとの出会いどんなバスケ生活を過ごし、どう影響したか等、こちらの内容でお届けさせていただきます。バスケやってた人やそうでない人も読了後、何かしらの糧となればと思います。



1. バスケとの出会い?出逢い?


松田は小学生の時、4年生が終わり5年生になるタイミングで転校をしたんですが、それまでは確実に野球好き少年でした。

転向後に仲良くなったメンバーがバスケ(ミニバス)をしていた影響で、休み時間や放課後だけでなく休日も遊びでプレーするようになり知らぬ間にのめり込んでました。

友人たちのおかげでバスケに出会い、今日までずっとプレーすることになりますが、転校しなければ絶対バスケをしていなかったでしょう。(実際、転校しなかった場合に通っていたであろう武庫東中学校では自分らの代の男子バスケ部はいなかった…ので小5に転校したことはホントウに奇跡の出来事だったと思う!)

小6の時、ミニバスをやっていた仲良いメンバーから『全国大会に出る!』というのを聞いたときは凄いと思いながら当時は「ふぅ~ん」ぐらいの感じで、後々凄いことだったんだと気づかされました。

そんな周りの環境がありながら、中学校ではミニバスで全国レベルを経験した猛者どもと一緒にバスケをする道を選んだ自分は何を考えていたのか今考えたら凄い決断をしたと褒めてやりたいです…。



2. バスケ全盛期


中学入学したすぐにバスケ部に入ることを決め、ここから地獄の3年間が始まります。

1年生の時はミニバス組の中で特にエース級は初めから顧問の先生やコーチに期待されていたので上級生との練習に参加しており、それを素人の松田はコートの端でドリブルや筋トレ、声出しをしながら観てました。

端っこメンバーもひとり、またひとりと上級生メンバーとの練習に呼ばれていき、居残り組みたいになって、基礎練習ばかりずっとやっていましたが、試合に出たい欲から湧いてくる練習を頑張る!的な気持ちが猛烈にあったので何とか辛い時期を乗り切り、自分たちの代では何とかスターティングメンバ―になることができました。

当時の練習量(授業のある平日は21時過ぎまであったり、休日は朝昼の練習に加え、合宿ではそれに夜練があったり)は今までのバスケ人生(恐らくほとんどの人を含めても…)でズバ抜けており、正直高校時代と大学時代(現在も)は中学の時のたくわえだけでやってきたと言っても過言ではないし、今のこのご時世、一緒の練習をやると確実に問題になると思ってます。

(当時でさえ、後輩が練習に付いていけないことや我々からのいじりで辞めていくことはざらで、8〜9人で練習をして、全国大会にでたので恐らく最少人数での全国出場のはず!)



なんでそんなに練習をしていたのか?



これは社会人になって気づきましたが、自分たちの代になった時に目標設定で『全国大会出場』を掲げたので、コーチがそれに見合った容赦ない練習を組んでくれただけです。

目標に対し、現状のチーム・競合チームの把握、課題抽出や他には負けない強い点、課題解決というマーケティング的に考えるとすごく当たり前のことを実践しており、その一環でマルコメ(坊主:課題解決?え?これなんで??)にもしました。


そんな中学時代で思い出の試合は、やっぱり全国ベスト8をかけた試合で負けた引退試合です。

この写真は全国大会の開会式の写真です。

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コーチがはじめて泣いてほめてくれたのもそうですし、対戦相手に以前日本代表にも入ってた橋本 竜馬と試合をできたこともあります。その試合で彼からオフェンスチャージング(松田がディフェンスで彼がオフェンスでドライブで突っ込んできて、ファールになること)をもらったのですが、彼が骨折をするハプニング。

彼がチームの中心であることはわかっていたし、年下だし、ベンチで泣いているのを見て凄く申し訳なくなったのを今でも鮮明に覚えてます。

この記事によると、怪我はかなり長引いてしまっていたようです。。

お互い30歳を超えたこんなタイミングだからこそ、ぜひ一度あの時の話やらこれからのことなど聞いてみたい!話してみたい!!と思います。(関係者やお知り合いの方でそういった場のセッティングができれば、お願い致します。)



3. バスケ衰退期


高校時代は中学時代とうって変わり、先生やコーチが追い込むより、自分で自分を追い込むタイプの練習でした。中学時代に練習がしんどすぎて、手抜きをすることを覚えていたので、高校の練習ではしんどい練習はほぼなく、毎日楽しみながら練習をできていたんじゃないかと思います。(ここが大きな問題点で自分を甘やかしすぎた!)

1年生の時、長崎でインターハイが行われて、中学時代の少数とは違い全部員で70名ぐらいいる中12人のメンバーに入れてもらったのは先輩たち含め本当に感謝しかありませんでした。

2年生の時、1つ上の先輩たちのチームではなかなか県内の上位には行けず、阪神地区でも勝てず、ポジションもみんな被りまくりだったけど、ちょくちょく試合に出させてもらっていたのでいい経験になりました。これも先輩たちに感謝です。

3年生の時、上手くて・力のある後輩がたくさん入ってきてある程度チームになり、兵庫県の大会では2位との壁がかなり高く、安定して3位だったけれど今振り返ると後輩にとっては、自分たちに繋がるいい1年だったんじゃないかと思います。

そんな中、同級生のメンバーには本当に迷惑をかけました。わがままで気分屋でキャプテンらしいことをせず、夏の大会前にキャプテンを外されたりでチームに対して全く貢献できず、仲間から支えてもらうことばかりで感謝しかありません。


本当にみんなありがとう。



4. おわりに


そんな高校時代を過ごし、大学では本気でバスケする熱は冷めてしまっており、サークルに入り、現在はさらにゆる~くバスケをしています。

中学1年からはじめたバスケが、まさか20年近くしていることになっているとは思わなかったし、後悔したことが多い分、学べたこともやはり多いです。(振り返るといい思い出以上に、後悔の方が多い気がしている。)

・目標をたてる/決めたことは諦めない

→高校・大学時代は目標を決めるということが出来ていなかった時期だと思う。中学時代はいい意味でも悪い意味でも目標が決まっており、それに慣れてしまっていたため自分自身で目標を決めるということができなくなっていた。
 社会人になり、仕事しながら相変わらず目標がなかった時に出会ったのが国家資格取得である。正直ある程度の資格は自分が諦めなければ、必ず取れると思っている。法律を勉強したことがなかったので行政書士はネットで有益な情報を仕入れ、過去問をなんども繰り返し勉強したが、宅建士においては行政書士の時の知識もあり会社の行き帰りに携帯で勉強して、ラッキーなことに一発合格だった。
 『目標を決めると行動が変わる』と社会人になってようやく実感することが出来た瞬間だ。

現在バスケをしているのは1年に数回程度で、月1回ぐらいまで回数を増やしたいのでバスケしている人は是非お声掛け下さい。

あまり動けないですが、目標をたて、諦めず頑張ります!


今後ともお付き合い宜しくお願い致します。

Thank you for reading my note!!


松田ミツノブ

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