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レールの上を歩くはずだった僕の人生が変わった時の話

「僕の人生これで安泰。」

大学2年の2007年8月。僕は憧れだったアイスホッケーの名門実業団チーム、SEIBUプリンスラビッツ(以下西武)から入団オファーをもらった。僕の地元東京東伏見に本拠地を置くそのチームに、未だかつて地元出身の選手が入団したことはない。それどころか、北海道出身者が9割以上を占める実業団のチームに、東京出身の選手が入団すること自体が珍しかった。

僕は小学校の卒業作文をきっかけに、アイスホッケー選手になるためには何をしなくてはいけないのかを本気で考え、実行に移してきた。まさに、西武からのオファーは僕の願った通りの結果で、小学生ながらに自分が立てた戦略を誇らしくさえ思った。

その後の大学生活は、まさに有頂天だった。今までの「無名選手」としての扱いから一変し、周りの選手には「西武に内定している選手」としてちやほやされはじめ、ジュニアの日本代表経験もない僕がいきなり大学生でA代表に招集されたこともあった。西武からはプロと同様に自分の名前が刺繍された防具やウエア、プロの証とも言える名前が印字されたスティックが支給され、それが使いたい放題。学生ながら当時スティックを年間40本くらい消費した。もちろんこれは、今までの自分自身の努力の結果であったことは自負しているが。
※当時のスティックは今のような丈夫なカーボン素材ではなく木だったので、すぐに折れた。ちなみに今では年間2ダースほど使う。

高額なGK用の防具を買うために掛け持ちしていたアルバイトも辞め、この時から僕の目標は「西武で1年目から活躍できる実力を付けること」と、「無事に大学を卒業すること」になった。

就活とは無縁の学生時代

大学3年の後半くらいになると、周りの学生は就活を始めたが、自分の進路は安泰だと思い込んでいる当時の僕には、それが他人事のように感じられた。それでも西武の母体だったプリンスホテル入社までのスケジュールは他の就活生と同じだったため、マイナビ(リクナビだったかな)には一応登録していたが、ほとんど使った覚えがない。(というか使い方すら覚える気がなかった)今となればこの時に、社会勉強としていろんな会社を"視察"に行けばよかったと後悔している。

入社試験では、同じく西武に内定していた上野拓紀(現ひがし北海道クレインズ)と、今城和智(元東北フリーブレイズ)と五十音順が近かったため常に同じグループで行動したこともあり、他の候補者たちとはあまり話をした覚えがない。これについても今となれば、もっとたくさんの人と話をしていればよかったと後悔している。そんな形式的な入社試験にパスし、大学4年の10月にプリンスホテルから内定が出た。

実際にチームに合流するのは大学卒業後の4月。それまでは学生最後のインカレが1月に控えていた以外は特にやることはなかったので、卒業旅行でどこに行くかを呑気に考えていた。4月になればアイスホッケーの実業団選手として"レールの上"を進む人生が待っている。今のうちに楽しいことをやっておこうという、なんとも浅はかな考えである。

青天の霹靂

大学4年の2009年12月19日、その日は突然訪れた。西武の試合会場に、当時の西武アイスホッケー部の部長から話があるとの連絡を受け、内定者3人が集められた。
「入団準備のための話があるのだろう。」僕はそんな少しワクワクしたような気持ちで、第一ピリオド終了のブザーとともに会議室に入った。数分後に絶望の淵に追いやられることも知らず……。

「今季限りで西武は廃部になります。」

一瞬その場で何が起こったのか理解できなかった。頭が真っ白になるという言葉があるが、僕は実際に本当に真っ白になる経験をその時した。言葉が出ない。さっきまで試合観戦していたチームが、消滅しようとしているなんて、どう考えても信じられない。気がついたら15分のインターミッション(第一ピリオドと第二ピリオドの間の製氷休憩)が終わっていて、次のインターミッションでまた会議室に集まることになったが、その後の試合内容なんて1ミリも興味がなかった。

その2日後くらいに、西武廃部のニュースは地上波でも大きく報道された。当時のニュースステーション(報道ステーション)で速報として扱われた時は、こんな形で西武が注目されることに腹立たしさを覚えた。「西武に内定している選手」としてちやほやされていた僕は、一転して「西武に裏切られた選手」になり、かわいそうな人として扱われるようになった。

あの会議室での出来事から2週間くらいは、朝目覚める時、「全て夢だったらいいのに」と本気で思ったが、全てが現実だった。憧れだった地元の名門チームに"生え抜き"として入団する未来像は、跡形もなく崩れ去った。

入社内定していたプリンスホテルからは、そのまま会社に残って働くことができると伝えられていたが、正直アイスホッケー部が無い会社には興味はなかった。僕が考えていた"レール"は、そんなに早く会社で働くものではなく、35歳くらいまで現役を続けその後サラリーマンとして働くというものだったからだ。しかし、ろくに就活もしていなかった僕に他にやりたいことなどあるはずもなく、仕方なくプリンスホテルでサラリーマンとしての人生がスタートする可能性は十分にあった。

引退を覚悟

1月の大学最後のインカレは準々決勝で敗れ、僕の法政大学での4年間はあっさりと終わった。最後の試合後、負けた悔しさや4年間の思い出に浸り涙したが、今思えば「これからの不安」があの時の涙の8割を占めていた気がする。

2月。ユニバーシアード日本代表に選ばれていた僕は、今度こそ"最後"の試合をしに開催地の中国ハルビンを訪れた。大会最後の5位決定戦vsチェコ。
「この試合が終われば僕は引退してサラリーマンとしての人生がスタートする。そうなっても後悔がないように、この試合は思い切り楽しもう。」
本気でそんなことを考えていたのを覚えている。結果は5−1で勝利。僕は全てを出し尽くした充実感とともに、まだまだプレーを続けたいというなんとも歯切れが悪い気持ちを抱いたまま帰国した。

4月。西武はチームの譲渡先を探し続けるために、7月末までは「西武」として活動していた。その月の世界選手権Division1、僕はユニバーシアードでの活躍が評価され、最初で最後の「SEIBUプリンスラビッツ所属の井上光明」として日本代表に選出された。今後のチームも決まらず、競技を続けるかもわからない状況の中での選出に少し戸惑いを覚えたが、今思えば本当にありがたい経験だった。(試合出場は無し)

7月。今や周知の通り譲渡先は決まらず、7月末の全体ミーティングをもって、正式に社長からチームの解散が告げられた。内定者3名(他の社員選手も)については、2年間の休職期間が与えらえ、その2年間のうちは会社に籍を残しながら他チーム(海外含め)でアイスホッケーを続けることが認められた。(給料は出ない)
まだ会社で働きたくなかった僕は、とりあえず休職の手続きを済ませ、届くかもわからない他チームからのオファーを待つことにした。

内定者の2人が他チームからのオファーをもらい移籍を決めていく一方で、GKという限られた人数しか所属できないポジションの僕には、なかなかオファーは届かなかった。知人を通じて知った国内チーム関係者に直接電話をかけ、「無給でもいいから獲ってください。」と懇願したが、そんなに簡単なことではなかった。

8月。アイスホッケーを続けることを諦めかけながらも、誰もいなくなった西武のトレーニングジムに一人通い続けた。いつも誰かがトレーニングをしていて、まだ新人だった僕が遠慮気味で使っていたそのジムも、いつしか僕だけが自由に使える空間になっていた。開幕前の夏の時期は、どのチームも心肺機能を上げるトレーニングをするが、僕は一人でパワーマックス(短時間を全速力で漕ぐエアロバイクのようなもの)をやった。全身が酸欠状態になるこのトレーニングは、トレーニング後に嘔吐することがよくあるが、その時の僕は一人で追い込んで一人で吐いた。その時のなんとも虚しい感情は、これからも絶対に忘れることはないだろう。

突如訪れた転機

「中国のチームなら入れる可能性がある。」

西武の関係者にそう伝えられたのは8月もそろそろ終わろうとしているまだ暑い頃だった。僕は、「ただし、中国人のみのチームで、待遇と環境は劣悪な可能性がある。」という言葉にも動じず、その場で二つ返事で入団意向を伝えた。奇しくも、その本拠地は"最後"の試合をした中国のハルビンだった。

その後は怒涛の1週間だった。ビザを取りに行くのもギリギリで、酷暑の中、中国領事館が閉まるギリギリに汗だくになりながら走って向かった。知り合いの人に中国語も急遽習ったが、まず習ったのが「自分の名前の発音」で、これから待ち受ける異国の地での生活を想像すると、底知れぬ不安を覚えた。出国前日は、祖母の家に挨拶に行ったが、「もう会えないかも」と言う祖母の言葉に震え上がったことを覚えている。(祖母は晩年、別れ際にいつもこう言っていた)

心配性な僕は何を持って行けばいいのかを悩みながら荷造りをし、結局一睡もできぬまま家族と成田空港へ向かった。チームが用意してくれた中国東方?航空のターミナルがわからず、出国ギリギリに到着した。「何かあったら困る」という思いから、日本から荷物を大量に持って行こうとしたせいで、オーバーチャージが数万円かかった。

家族と別れ、飛行機の座席に着き、今まさに離陸しようとする飛行機の窓から成田空港の景色を見ていると、ふと
「自分の選択は本当にこれでよかったのだろうか。」
と、急に不安に押しつぶされそうな感情が湧いてきた。気がついてみれば、中国行きを決めてからというもの、ボーッと考え事をする時間すら無かった。この時はじめて、自分が選択した道が本当に正しい道だったのかを考える時間になった。

ーー中国人選手たちにはちゃんと受け入れてもらえるだろうか。空港には誰か迎えの人はいるのか。挨拶はなんて言えばいいんだ。住むところは一体どんな部屋なんだ。練習はいつからなんだ。次はいつどんな形で帰国するのか……。
考えれば考えるほど不安になり、機内で読もうとして買った中国旅行用の本なんて一切読む気にならなかった。そのうちにコッペパンみたいな機内食が運ばれてきたが、食欲も湧かずに一口食べてやめた。キャビンアテンダントに中国語で飲み物を聞かれた(多分)が、英語で水をくださいと伝えた。その水を飲んだ瞬間、自分の中で何か腹を括ったような感覚があった。

「もう後戻りはできない。」

この飛行機はすでに中国に向かって飛び立っている。戻ることは出来ない。これは自分で選択した人生だ。次にこの飛行機の扉が開いた瞬間が、僕の新しい挑戦が始まる時ーー。

正直、緊張と不安が僕の心を覆い尽くしていたが、自分に言い聞かせるかのように、そんな言葉が浮かんできた。今思えばただの強がりだが、そうでも考えないと不安で押しつぶされそうになっていたのかもしれない。

ハルビン空港に着陸した。ハルビンは中国北部の田舎町で小さな空港だった。荷物を無事に見つけると、それを持っていよいよ出口ゲートを出る…。

「井上光明」

達筆の漢字でそれだけが書かれたボードを持ったおじさんが見えた。防具を持っていたのでおじさんも僕をすぐに見つけてくれた。「ニーハオ。」辿々しい中国語で挨拶と握手を交わしたが、それ以上何も会話はない。

おじさんが車まで案内してくれると、そこにあった車はトヨタのクラウンだった。僕は日本車に乗っていることに勝手に親近感を持ち、「Nice Car!」とおじさんに親指を立てたが、仏頂面で完全に無視された。

クラウンに、西武からもらった自分の名前入りスティックを積み込んだ。

「こんなハズじゃなかったのに!」

心の中でそう叫びたくなった気持ちをグッと押し殺し、僕はクラウンに乗り込んだ。

その道の先に、レールはない。

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追記
この続きを書きました。


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