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どこにでもあるような家族の風景 --白井茜さんの映像から --

家庭を写す、家族を写す

 昨年10月、「全日本写真展2022」(朝日新聞社)の表彰式が行われ、私も審査員の一人として参加した。会場にはTBSのニュースワイドショーの取材カメラも入っていた。昨秋にSNSで「バズっている」のが、このコンテストの金賞作品「ランウェイ」という作品らしく、その作者である福島のアマチュアカメラマン・渡辺進さんを取材するものだった。
 この「ランウェイ」は正月に親族が集まり、その食事後のひとときに写された写真。テーブルに載せられた1歳の女の子がちょっとおどけてポーズをとっている。まわりの親族たちが笑顔で拍手をしている情景。偶然女の子が歩き始めたということで、正月のめでたさと重なる佳き日。まさに「ランウェイ」。なんとも微笑ましいし、このコロナ禍を考えるとこうした笑顔の集まる場と時間がいかに大切なものかがよく伝わる。「家庭写真、家族写真の復権!」などと、審査員の私もつい興奮してしまった。後日テレビでも案外時間をかけて取り上げられていた。

「全日本写真展2020」入賞作品集より 金賞・渡辺進「ランウェイ」

 写真愛好家のみなさんがこうして家族を写すということは少なくない。様々な設定なり機会を持ち撮ってきている。コロナ禍においては、急激な生活の変化の中で、マスクをつけながら恐る恐る日常を記録しようとする作品も目立った。それらは時代の中でカメラを持っていることの自然の「表し」でもあるだろう。職業カメラマンという立場においても、例えば戦前戦後の自分の家族を記録し続けた朝日新聞社のカメラマンだった影山光洋の写真、さらに時代を経て深瀬昌久の「家族」など、写真家が レンズを向ける先の家族の営みは、そこに写される人々の愛しい存在そのものが大きなテーマとなりうるものだ。

 しかし、時として現実の様々な問題や事情が、自分の家庭、家族にカメラを向けることに戸惑いや後ろめたさなど支障を与える場合も出てくる。決していつでも容易に撮れる「対象」ではないということもいえる。「プライパシー」ということをどこにどのように、どこまで意識していくのかということと、レンズの先は今写していた家族から逆ターンするようにいつしか自分の側に向けられることになることへの覚悟の持ち方が問われていくからだ。 影山の写真に戻れば、戦後に末っ子を失いそれをも記録として刻んでいる。


重森弘淹・写真芸術論 より
 


「写真」ならば、まだいくらかいい。家族の様子をどこまで「表す」のかはシャッターを押すそれぞれのタイミングや状況により調節できるだろうし、自分側に向けられたレンズだとしてもとりあえず考える局面は生まれる。しかし、映像となるとどうだろう。時間と空間をスライスする写真とは違い、「それ」を映している時間、さらにその映した時間を (撮影者あるいは鑑賞者が)見続ける時間が関わってくる。  それらが、それこそ「ランウェイ」のように明るく楽しく特別であればそのまま思い出の一つとして記憶されていく。40数年前に出現した各社の「ファミリービデオカメラ」はそれをうたったものだ。それらで撮られた映像 (動画 )は家庭の中においては常に「楽しさ」とともにあった。「ファミリー」の「楽しさ」が感じられなければいけなかったとも言える。私もそんな家庭ビデオ作品をいくつか作りビデオアートのコンペで入賞した経験がある。今考えると、晴れの日のような特別な出来事を「日常化」していくことで、平穏な暮らしの象徴が表現されていくかもしれないという期待感があったような気もする。今考えるとずいぶん古い。
 本来そのようにして撮られた日常的な映像の描くところの、どこかの家庭や家族の姿を私たちが第三者として見るという経験には、こちらはあまり掴みどころのない他者の「時間」にいかに付き合い、いかに見続けるかというちょっとした覚悟が必要だった。自分とは関係のない「時間」をどう引き受けるのか。そこから全てが始まることになっていたはず。だとすると今の「 YouTube」や「TikTok」」はどういうことなのか?   そこで混乱してしまう。

 随分こんがらかった前書きになった。(原稿ではないからまぁいいか) YouTubeの考察などよりも本題に入らなければならない。


「とどまって、見ている」という経験

 昨年11月、銀座の「ガーディアン・ガーデン」で行われた「第24回写真1_WALL
展」のグランプリ受賞者白井茜さん(京都芸術大学卒)の受賞個展を見る機会があった。タイトルは「とどまって、聞いている」。47分16秒の映像作品が2台のプロジェクターから同時に映し出され、他の壁面とフロアーの何箇所かに「写真」が何枚か展示されている展示空間。

ガーディアン・ガーデン展示風景

 中心となる正面左のモニターには「白井家」、右のモニターには「多胡家」。それらは白井さんが2020年の夏以来撮り続けている2つの家族の映像。多胡家というのは白井さんの恩師のお母さんのお宅と。白井家は祖母のお宅ということになる。細かな経緯は詳しく分からないが、「家族とは何か」という問いから始まった作業のようだ。それは特別にめずらしい「行い」ということでもない。写真学校や写真学科の学生の夏期課題にも家族を写す課題や「写真日記」などもあったと思う。しかし、白井さんは「写真」でなく「動画」だったことで、直接的に「時間」に関わっていく。家族の時間、あるいは家族とともにそこにいる時間そのものを映し出していくことになる。

 映像は定点観察のようにそれぞれの食卓や居間が映し出され、そこに家族がいることもあれば、奥から「声」やなにがしかの「音」が聞こえたりする。ハナレグミが歌うところの「どこにでもあるような家族の風景」のよう。白井家には多分作者である茜さんも登場しているはず。しかし家族は撮られていることにそれほど関心を持っていない。同じように多胡家も茶の間や玄関、台所などがそのままフレームとして提示され、そこに恩師とお母さんが会話をしたり、動いたりしている。もちろんカメラを意識していない。これもまた「どこにでもあるような家族の風景」。しかし、この2つの映像は巧みに編集されていて、一方の音が途切れるともう一方が呼応しかすかな音などを立てながら映像が進行していく。そのことで見るほうは2つの家族がつながっているかのように感じてしまう。モニター画面をとどまって見ていることでの妙な錯覚かもしれない。そして暮らしの中のかすかな音と確かな音、人の消息を画面から聞き分けている。

 それら、見続けていること、さらに声や音を聴きつづけようとしていることで、こちらにも覚悟のようなものが段々生まれてくる。これは難解な映像作品を前にして、もう少し見なければいけないかなという経験とは全く違うもの。そしてさらに映し出されている2つの家族がそれほど遠い存在には思えなくなってくる。

左が「白井家」、右が「多胡家」

 そうした思いは、特に「多胡家」の時間が進むに連れ余計に感じられてくる。元気に自宅にいたお母さんが施設に入所する。カメラは据え置きから、家族の動きや声とともに車内での撮影や施設での手持ちに変わる。しかしそれは違和感もなく、それまでの見続けていた視線とほぼ変わらない。実際にはここで細かな編集が行われているのだが、映像としての私の知覚は家内から家族とともに自然に移行、移動している。「とどまって、見ている」のだ。家族の視点、作者である白井さんの視点、見ている私の視点が綺麗に重なってくる。「映像」の特質ではあろうが、鑑賞者である私が自然に没入していくことによるものであることは間違いなく、そこにある「覚悟」が繋いでいるということなのだと思えてきた。

 その「覚悟」を一体作者はどのように引き受けているのか気になった。会場に置かれたフライヤーとコピーをいただき何度か読ませていただく。

 『撮影を進めていくうち、安易に答えなど出せないということが分かった。日常の中に小さな喜びを見つける、彼女たちの豊かな視点に驚かされる。一方で、日々変化していく身体の様子や、互いを家庭に縛りつける一面が、生々しく映し出されていた。そこには思い描いてきた生優しい家族像はなく、私はただカメラの前で立ち尽くすことしかできなかった。』(白井茜・ガーディアン・ガーデン制作のリーフレットより)

 『家族について話していると、傷跡が見えてくることがある。その多くは、笑い話や沈黙の中に埋もれてしまう。そこには、私にはまだわからない痛みが多くある。しかし、彼らが実感を持っていることはよく分かるのだ。
 家族には互いに負い、負わせた傷がある。そしてその傷跡が、私たちを否応なく繋ぎ止めているのだと思う。』 (会場内配布コピーより)


リーフレットより

 コピーの最後の2行に表現者としての強い意志を感じる。また共感も覚える。多分、この展示会場に足を踏み入れ、長い映像作品だと思い、初めから見続けることを拒否してしまった人にはわからないだろう「感情」も備わっているように思える。それはもちろん私たちの家族に対する私の感情に他ならない。「どこにでもあるような家族の風景」。この映像作品(展示空間)がとても豊かなものであったことは、言うまでもなく映像(に関わる)、見続けることの覚悟が互いに生まれるからだろう。2022年に拝見した極上の作品の一つであった。

 白井茜さんはこの映像作品をこれからどのように「保って」あるいは「続けて」いくのだろうか。撮り始めた時の難しさとはまた少し違うものを抱えていくのは必須だ。この展示もグラプリを受賞してからの続き。エンドレスに続く映像こそが私たち人間の映像だともいえる。

                              2023年1月4日

白井茜さんは滋賀県生まれ。2021年京都芸術大学 写真・映像コース卒業。
2021年卒業制作学長賞。2021年第24回写真「1_WALL」展グランプリ







古くから様々な読者に支持されてきた「アサヒカメラ」も2020年休刊となり、カメラ(機材)はともかくとして、写真にまつわる話を書ける媒体が少なくなっています。写真は面白いですし、いいものです。撮る側として、あるいは見る側にもまわり、写真を考えていきたいと思っています。