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連載「須田一政への旅」最終回

須田さんが多弁になる時、そこには決まって「写真」以外の「もう一つの世界観」が提示されていた

つげ義春への旅

 「風姿花伝」以前の須田さんの写真については、「天城峠」以後カメラ毎日に発表された70年代前半の「奥羽蝉しぐれ」(73年2月号)、切り抜き(73年3月号)、面影(74年7月号)などを熱心に見ていたが、実際はそこに収まりきれない数の写真を撮っていたようだ。2000年に刊行された「紅い花」(ワイズ出版)にはその頃の写真がぎっしり詰まっている。東北、関東、静岡、岐阜など、「風姿花伝」と重なる旅先も多いが、日本カメラ月例コンテストで年度賞1位に輝いた63年当時の「基地」や「恐山」などの重苦しいトーンとコントラストの写真とはすでに大きく異なっていることが見て取れる。70年代初め、須田さんはどんな旅をしていたのだろう。

 かつて須田さんもメンバーだった写真クラブ「ぞんねぐるっぺ」で旅に同行をされた写真家の吉岡茂さんに少しお話をうかがった。当時は、夜東京を車で出て朝方大阪や富山などに到着し、駅前でトイレ、洗面、朝食を済ませ撮影をスタートさせたらしい。また石元泰博の写真、梶井基次郎の小説、そしてつげ義春の漫画が好みだったという。そういえば写真集「紅い花」の表紙は、つげ義春のそれに登場する「キクチサヨコ」を連想させる少女の写真。須田さんはこの頃、相当つげ義春の世界に傾倒していたのではないか。「紅い花」は67年10月号の漫画雑誌「ガロ」が初出。「長八の宿」が68年1月号、そして「ねじ式」が6月号。時代が見事に重なる。

写真集「紅い花」(ウイズ出版)の表紙。秩父で撮られた少女は、まさにつげ義春の漫画から抜け出た「キクチサヨコ」。きっと「シンデンのマサジ」という少年も須田さんはどこかで撮ったはず。

 騒然とした70年安保が一方であり、また「コンポラ写真」という大きな動きもあったが、須田さんがそういった時期につげ義春が歩いただろう地方の町や温泉地などに足繁く通っていたのは、時代や社会を突き抜ける人間の日常とモノや風景の存在、不確かな時間といったものを確かめるねらいがあったかもしれない。そしてそこからシュールで不条理な世界を自分側に呼び込み、さらなる妄想を膨らませ、写真イメージの自立を計ろうとしていたのではないか。
 「須田さんは、なんといっても撮った写真に対する思い入れを言葉で表現するのは素晴らしかった」と吉岡茂さんはいう。無口に見える須田さんが、時として学生や私の前で多弁になる時、そこには決まって「写真」以外の「もう一つの世界観」が提示されていた。「つげ義春」だったり、ヒチコックの映画」だったり、「ウロボロス神話」だったり、「浅草ロック座の蝋人形女性に生えている一本の毛」だったりというように、右往左往させる話。一心に耳を傾ける私たちに最後に決まっていうことは「妄想ですよ、妄想!」。つげ義春79年の作品「必殺スルメ固め」に出てくる男のような艶っぽい顔を今、はっきり思い出せる。

少し時代は後になるが、旅先の青森・弘前で撮られた須田さん(1981年頃)。珍しくゼミ生とともに土地の人たちと和んでいる。ちょっと酔っていたのかもしれない。

                      
                                                                                          日本カメラ2020年12月号




古くから様々な読者に支持されてきた「アサヒカメラ」も2020年休刊となり、カメラ(機材)はともかくとして、写真にまつわる話を書ける媒体が少なくなっています。写真は面白いですし、いいものです。撮る側として、あるいは見る側にもまわり、写真を考えていきたいと思っています。