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ラザニアとコッコデショ

 長崎の「長い岬」の先端、もとの県庁があった近くに、イタリア料理屋さんがある。前に行ったのはもう何年前だったか忘れたくらいだったが、ある日のお昼「いま行くべきはそこしかない!」と入った。ラザニアのランチセットを頼む。濃いめの味の茶色いものを想像していたら、トマトスープみたいなのがやってきた。ふわん、とろん、としていて、優しい味で、ゆで卵の刻んだのも見える。その時は心身ともに疲れていたのだが、一口食べるごとに、ありありと体にしみわたっていくのがわかった。
 イタリア人といえば、私に思い浮かぶのはイエズス会巡察使ヴァリニャーノだ。長崎と茂木の寄進を受けたり、天正遣欧少年使節を計画した人。「もしこのお店があったら、ヴァリニャーノも来ただろうな」と思いながら食べる。「いや、しょっちゅう来てるかもしれない」とも思う。とうの昔に死んだ人が、生前ゆかりのあった場所になんらかの形で存在するというのは、ほとんどの世界の基本設定だ。とすれば「岬の教会」に滞在したヴァリニャーノはすぐ近くにいるのだから、この店にも来るだろう。あるいは、私が彼のことを思いながらラザニアを食べていると、私の中で思い浮かべられているヴァリニャーノが、私を通してラザニアを食べている、ということもありえる。匂いくらいは嗅げてるんじゃないか。トマトソースのいい匂い。
 ふるさとに帰れるかどうかもわからないほど遠い国にやってきて、難しい仕事をし続ける、というのは、どういう感覚だったのだろう。行った先で、子どものころに食べていたようなものが目の前に現れたら、どんな気持ちになるんだろう。自分が長崎の「歴史」に興味があるのかどうかはいまだにわからないが、そういうことが無数に集まったのが歴史なのだとすれば、すでに毎日そういうことばかり考えている。
 ラザニアを夢中で食べ終わり、エスプレッソを待ちながら上を見上げると、神輿に担がれた聖人の写真があった。店の名前となっているアマルフィの小さなレリーフと一緒に飾ってあるので、きっとそこのお祭りなのだろう。赤い衣装を着た男たちが、金の台座に乗ったブロンズ色の像を担いで、うおーっ!と走り出そうとしている。コッコデショの「トバセ」の瞬間にそっくりだ。
 

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