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「関心領域」【映画感想文】

※内容に深く触れた感想文です。

「関心領域」、観ました。
戦争映画として、真摯な訴えのこもった作品でした。

同時に、観ているうちに加害者側の視点で物語を追わざるを得なくなり、「塀の外」に安穏といる居心地の悪さを観客に息苦しく抱かせていくという、実験的な手法で編まれた映画だと思いました。

映像に映し出されるのは、一見、家族の平和な日常です。
けれど耳は銃声や怒号を常に拾い、映像にも会話や背景の端々に違和感を漂わせるので、心拍は勝手に緊張していきます。

だってこの家はアウシュビッツ強制収容所の隣にあるから。
あの塀の向こうには、おぞましい光景があると、「私たち」は知っているから。

「違和感」と「音」の巧みな演出により、観客は、常識として知っている収容所の悲惨をおのずと脳内に再生していきます。勝手に思い起こす塀の中の悲惨に、かき乱され続けるのです。おそろしい、怖い、やめてくれ、と。その想像力と恐怖をリアルに膨らませるのが、この映画の目的では、と思いました。戦争は常に、日常の傍にあるのだと知らしめるための、冴えたやり方では、と。

そういう意味で、この映画は、観客=自分たちがアウシュビッツの悲惨な歴史を知っているという「信頼」をもとに作られているように感じました。だれもがあの場所の悲惨を知っているから、映画内での示唆がきちんと作用すれば、「平穏」から「不穏」を必ず感じるはずだと。

そうでなければ、退屈な家族の日々を映したフィルムを観ているに過ぎなくなります。あるいは、ほんとうにそう感じる人もいるでしょう。

けれど、あとから「そうではない」ことを知れば、必ず、美しい風景はグロテスクなものに変貌します。そんな手業の込められた作品でした。

また、この映画では、固定カメラからの撮影のため、ドイツ人一家から距離を取った映像で描かれています。その距離感は、観客に自分もその場にいるかのような没入感をもたらし、より居心地の悪さを高めます。

そこにいた(=いる)のに、何もしなかった(=しない)のか、と。
今の世界のあらゆる戦争の外にいると実質的には思ってしまっている自分にそれでいいのかと、問われているかのようでした。

あのリンゴを埋める少女を異質なもののように描いていたのは、当時では数少ないイレギュラーな存在であったから。けれど、確かな善意が存在していたのは事実だった。

善意とは行動、発言であり、ただの中立をそうとは呼ばない。中立は、よく言われるように、現状の肯定、つまり加害者への加担と同じ意味になる。

それで良いのか。
ただ、観ているだけ=中立で、良いのか?

戦争のある世の中に慣れ始めた人々へ、改めて警鐘を鳴らされているようでした。あの、耳についてやまない、空恐ろしいエンドロールの音楽が、その感覚をさらに念押しし、今もまだ、観た緊張感が抜けないでいます。

パンフのこの吸い込まれるような赤と、黒。洗練されつくしている。

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