私の家族のカタチから実感した「国境」の壁

-自分にしか書けないこと

noteで自分の考えを整理して書くのがすごく楽しくて、早速2回目書いちゃいました笑笑
(時間は有限ですが、今は比較的手空いてるから今のうちにたくさん発信したい!)

そこで、「自分にしか書けないこと」を書いてみたいって思い、即座に思い浮かぶのが家族のことなので、今回の記事では家族のことを書かせていただきます!(:

-家族のカタチ

私の家族は特殊です。と言ってもどの家族も特殊だと思います。家族が特殊なのが普通の家族で、その中で「普通のカタチ」が違うだけなんじゃないかな、って思うこの頃です。

じゃあ我が家の普通のカタチを言いますと、まずは私の両親。
父曰く、父はプロのバスケットボール選手を目指して身長が足りず挫折し、今はサラリーマンとして働いている。なぜか大学は中国の大学に進み、おかげで中国語と英語が比較的ペラペラ。私の家では身長が足りなくて選手になれなかったパパのことをからかったりして笑い話になっていますが、冷静に考えるとスポーツ選手を目指していた人が3ヶ国語ペラペラにしゃべれるようになったわけで、すごいことかもしれない。
父は子どもの頃スポーツばっかで勉強を全然してこなくて、今では勉強を子どもに教えるなてことは全くできないのに、なんで、って不思議ですけど…

そして私の母は、フィリピンのパンガシナン州という、首都のマニラより少しという場所出身です。今ではだいぶマシになりましたが、当時は貧困が深刻な問題だったそうです。母自身、過酷な環境で育ちました。10人兄弟の家庭に生まれました。当時避妊知識の存在なんて知りもしないような環境でした。母の父は母が幼い頃に亡くなり、母は家庭を手伝うために小さい頃から仕事を強いられ、まともに学校に行っていませんでした。
それでも頑張ってできる範囲で勉強し、大人になると姉の住んでいる香港に飛び出しそこで初めてちゃんと給料がもらえる仕事をしたと言います。

香港で両親は出会い、結婚し、子どもを生みました。

そんな両親から最初に生まれたのが、一つ上の兄です。この兄もなかなか特殊で…
私と兄は真逆だ。私は人と喋るのが大好きなのに対し、兄は全くのコミュ障です。「同学年の奴らは幼稚で気が合わない」と言って友達は一切いない。と思う。
そして両親からは、私は努力家と言われているのに対し、兄は天才肌というやつです。兄は半年間しか勉強しないで高校は偏差値70越えのところに特特待生として合格したやつです。普段からの本を通したさりげない学びが実を結んだのかな。
一方で私はといえば理科だの数学だの勉強らしき勉強はせず、課外活動とかばかりです。期末前には猛勉強するので、テストの点数や成績はなんとかトップをキープできていますが。

これが私の家族のカタチ。

-国籍が違う二人の間に生まれただけなんだけど… 

家族に関してはいろいろ考えることが多くありますが、この記事で書きたいのは、私の家族を通して感じた、「国籍の違いの重さ」です。
以上から分かるように、私の両親は出身国が違う。なので私はいわゆる「ハーフ」と呼ばれるやつです。

私はハーフとして生まれ、家族内では英語で話し、父はたまに日本語で会社の同僚と話したり、母は親戚とタガログ語でしゃべる、という環境が当然の中で、違和感なく育ちました。
しかし、日本に来て初めてその環境が普通じゃないことを知った。

私は実は帰国子女であり、生まれてから10年間は海外に住んでいて、インターナショナルスクールに通っていました。インターではいろんな国から来た人がいて、授業は英語で行うので、今では英語も母国語の一つとなっています。

そんな中、小4の時に初めて日本に来ました。海外に住んでいた時は家賃や教育費は全て会社負担だったのですが、日本では自分たちで負担することになるんです。その中でインターは私立なので学費は高く、そんな払えないということで、私はいきなり日本の公立の小学校に通わされました。(人付き合いが苦手な兄は小学校卒業までインターに通っていました。)

衝撃を受けました。
ハーフの私は「変な・特殊な人」として扱われたからです。ハーフは珍しい、他とは違う、ってことを初めて実感した時でした。
日本人は「ハーフは可愛い・美人・かっこいい」というイメージがあるんですかね。私を見て「ハーフの失敗版」と言われたことがあります。
他にも、フィリピンのハーフということで「おい、バナナ」って言われたり。肌が日本人より濃いので「黒人」と言われたり。
英語の授業で発音いい英語をしゃべると「威張ってる」と裏で悪口も言われた。
みんなから名字で呼ばれている男子友達のことを、名字で呼ばれていることを知らずに下の名前で呼んだら、周りから変な目で見られた、と10歳ながらカルチャーショックを受けたことも鮮明に覚えています。

当時はハーフだった自分のことが大嫌いでした。家族で外出する時は英語で喋るので、「お願いできるだけ小さい声で喋って!」って言ったり、距離を置いて歩いたりしていました。「なんなんだお前は!」って親から怒られたこともありました。
やっとの思いで学校でハーフのことでからかわれたりしていることを打ち明けて以来は、そのことで怒られることはなくなったが。

学校外でも、外で家族で英語を話していると、電車やバスなどで周りがジロジロ見てきていました。それが嫌で嫌で家族で外出する時は喋らないように、特に母とは喋らないようにしていました。
しかし今思い返せば、外で英語を喋っていても不思議がる人、少なくなったような気がします。
外でイヤホンしてる人が増えてるからかもしれないけど。

-日本語を話せなかった私から中学受験することになった私

10歳の時に急に日本の公立の学校に通わされましたが、それはそれは、もう大変でした笑
日本語はほぼ喋れません。習字の時に「火山」を書くお題がありましたが、その時に同級生の女の子に「これ読める?」と聞かれたことがあります。私が「…ひやま?」と答えたら「ひやまだって!!」って爆笑されたのを覚えています。その中で一人だけ「仕方ないだろ」とかばってくれた男の子がいたことも覚えていますが。

そんなこんなで、小学5年生になって日本語が話せるようになってスラングのような言葉も分かるようになりました。今では英語より日本語が好きです。ひらがな、カタカナ、漢字と3つも言葉の媒体があって色々自分の思うように表現できるのって、英語ではなかなか難しいですよ!逆に英語の言葉にあって日本語にはないものもあって表現に困る時もあるけど。

今思い返せば、当時は辛いことが多かったけど、私は本当に恵まれています。私が通っていた公立の小学校には「日本語学級」という、私のような日本語が上手でない子のための特別プログラムもあったんです。そこの先生は英語も日本語もペラペラで最初の頃はその日本語学級が唯一の校内で休める場所でした。もちろん日本語学級は「特別」で、日本語学級に通う時の同級生から向けられる目は嫌で嫌で仕方ありませんでしたが。

そして小学6年生の時、2年前は日本の言葉も話せなかった私は中学受験をすることを決めます。友達が某小学受験スパルタ塾に通っていて、私も通ってみたい!という好奇心が始まりでした。
その中で、親のリサーチにより、IB校で、3割方が私と同じ帰国子女である今の学校(中高一貫)を見つけ、試験当日はインフルエンザで高熱を出しながらなんとか合格できました。

今では反抗期を過ぎたこともあり、ハーフであることを恥ずかしいって思うことはほぼなくなりました。
だってハーフじゃなかったら英語をペラペラに話すことだってできなかったし、いろんな国に住む経験もできなかったし二つの国をも「母国」と呼べなかった。ほんと恵まれてるなぁって思うようになりました。😊

-それでも存在する国籍やら言葉やら「国境」の壁

今私は15歳、4月から高校一年生になる。
そんな今でも、やっぱりときたま「自分はハーフなんだな」って壁を実感する時があります。例えば、学校の保護者会。日本の学校の保護者会は大体平日の午後に行われる。母は仕事を休めるが、休んで行ったとしてもコミュニケーション取れない部分もあるし、小学校の頃、母が父に「保護者会に行ってもなにもわからなくて辛い」と言っていたのを聞いたことがあります。あれ以来、保護者会の案内のプリントを渡さなくなるようになりました。親に渡していないことがバレましたが。
中学校に入って以来たまに修学旅行の説明会など比較的重要な保護者会には父が仕事を休んでいくようになりました。しかし日本ではお母さんが子どもの教育をみる傾向があり、保護者会で父がそんなママたちの会話になじめるわけでもなく、目立っていて父も多少肩身の狭い思いをしたのだろうと思います。

また、私に直接関係ないですが、母の仕事において「外国人」を実感することがありました。私の母は日本語が喋れず、フィリピンと日本では文化も大きく違うので生活しにくい部分も多くありますが、それでも私と兄の将来のためにも遊びとか服とかの娯楽のためにも、お金を稼ごうとしてくれています。"I don't want you having to let go of your chances."というのが母の口癖でした。「機会を逃すようなことは絶対して欲しくない」という意味です。母は小さい頃、お金が一番の原因でできなかったことはたくさんあり、自分の子どもにはそんな思いを絶対にさせないと決意してるんです。

日本に帰ってきて母は仕事を始めました。海外に住んでいる時は会社の規則で社員のパートナーが仕事するのを禁止していて母はずっと専業主婦でしたので久しぶりの就職でした。父は母の体を思ってバイト程度ぐらいにしろよと言っていましたが、行動的で自分の思うことを成し遂げたい(私は母に似ちゃったのかもしれない…)私の母はいつの間にか正社員になっていました笑

しかし正社員としての仕事はもちろん簡単じゃない。母は外国人で「まとも」な学歴も持っておらず、工場での肉体労働の仕事しかできなかった。そこで働いている同僚も、マレーシアやネパール、フィリピンなど同じように外国人ばかりです。私はこれが恥ずかしくてたまらなくて知り合いには誰一人言っていません。母はもともと子どもの頃栄養失調気味だったこともあり体が弱く、この仕事もすごく体に負担がかかっていることは火を見るより明らかだった。

私は母の仕事のことを知りたくなかった。父と母の上司が電話で喧嘩しているのが聞こえたりすることもあったので、薄々外国人としてひどい扱いを受けていることには気づいたいましたが、その全貌を知ったら耐えられない気がした。しかしそんなある日のこと、母に一本の電話がかかってきた。母はその時シャワーを浴びていたので私が代わりに出た。「Mさん?」(ここでは母の名前を「M」と略します)と女性の人が聞いてきた。私は「母じゃなくて娘です」と言おうとしたが、私の返事を待たずその人は「○○さんがね、お休みになっちゃったから、木曜日、お仕事、これるかな?」と聞いてきた。母の上司らしかった。私はとても腹が立った。こっちが喋る隙もくれないし、話し方が小学生に対してのような幼稚な話し方だったのだ。以前母がフィリピンの親戚に「上司が子ども扱いしてきて嫌だ」と話していたのが思い浮かんだ。今考えれば、もしかしたらその上司は善意で、母がわかりやすいように話そうとしたのかもしれない。だが、当時の私はガチギレして相手に怒鳴らないようにするのが精一杯だった。私は「娘ですが、母はただいまお風呂に入っているので電話に出れません。」と言い残して電話を切った。母にその電話がかかってきたことを言わなかった。

-同じ人間なんだから。

こうなるのは仕方のないことです。ハーフだったり外国人だったりするのはなんて言ったって「普通」じゃないんだから、「普通扱いして」と言っても相互に無理がある。逆に、国籍の違う二人がそれぞれ母国語じゃない第二ヶ国語の言語を通してコミュニケーションとってここまでやってこれたのって、すごいなーって感心する。

けれど、今まで述べた通り、ハーフや外国人に対して、日本世間では「すごい」どころか「変」と思われている。そしてそれが言動に表れ、私だけでなく多くの当事者が嫌な思いをしているのは安易に想像できる。外国の人に対して「平等」で接することは難しいとしても「公平」に接することはできるはずです。「公平」と「平等」は違います。「平等」はどんな背景を持っている人でも同じ対応をすることに対し、「公平性」は結果が全員同じになるように対応を変えたりすることです。ハーフでもどこの国の籍の人でもでも、皆同じ環境で同じ機会がもらえるように、同じ接し方をされるように。みんな同じ人間なんだから。
そして皆さんの周りにハーフはいますか?人それぞれではありますが、私の経験上では、ハーフであるバックグラウンドについて聞かれるの、とてもうれしいです😊「普通じゃないこと」が「いいこと」と捉えられたら、とっても嬉しい。ハーフの子がいたら、ぜひその子の出身国についてなど、質問してみてほしい!

これを書いて思ったのは、苦も楽も、こんなにたくさんの経験できるの、私、本当に恵まれてるなぁー…
お母さんお父さんお兄ちゃん友達先生方、全員本当にありがとうございます😭
これからもいっぱい世界を見ていっぱい経験を積みたい(:

🔽生まれた国である香港にて🇭🇰

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🔽香港の次に引っ越したタイにて🇹🇭

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中国(上海→北京)🇨🇳に3年間住んでから日本🇯🇵に来ました。(写真はいいのなかった…)

🔽年に一度旅行で行く母の母国フィリピンにて

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