見出し画像

「輝元 広島に城を移す」をねちっこく読む

これは『近世大名は城下を迷路化なんてしなかった』( https://mitimasu.fanbox.cc/posts/383229 )の宣伝をかねて、本編では取り上げなかった『陰徳太平記』の『輝元卿広島ニ於城ヲ移《ウツ》被事』をねちっこく読んだ一連のポストをまとめたものです。

このエントリは攻城団にポストした「ひとこと」をまとめ、加筆訂正しました( https://kojodan.jp/profile/1462/ )。

ソース1:明治44年の活字起こし

陰徳太平記


ソース1:江戸時代の写本(正徳二版)


なお、原本は現存しておりません。

文字起こしと現代語訳
以下は筆者(桝田道也)による文字起こしです
* ルビと送り仮名は正徳二版に基づきました
* 旧字は気づいた範囲内で新字に改めました
* 環境依存の大きそうな漢字(S-JIS第二水準に含まれない漢字)は、異字体があればそちらを用い、無ければ〓としました。いずれ注釈(※n~)で説明しました
* 間違いがあったらお気軽にご指摘ください
* 筆者は古文献の専門家ではありません。誤訳があるかもしれません


//---------------------------------------

陰徳太平記 輝元卿広島ニ於城ヲ移《ウツ》被事
----
陰徳太平記 毛利輝元公が広島に城を移した件


輝元卿常ニ宣シハ。
国君ノ居ル所ハ万人ノ都《ト》会《クワイ》ナル所也。
サルニ今ノ吉田ハ其地偏《ヘン》狭《ケウ》ニシテ。
備芸両州ナドヲ領《リヤウ》ジタル将ノ為《タメ》ハ相応《ヲウ》也。
八州ノ太守居可キ地ニ非。
----
輝元公は常日頃からこうおっしゃられていた。
国のトップの居場所は大人口の集う都会(がふさわしいの)であると。
だから今の吉田は土地が狭すぎる。
備後・安芸の二ヶ国を統治する将の拠点には相応だ。
しかし(山陰・山陽の)八ヶ国を統べる太守が居るべき地ではない。


山中ニシテ海路ヲ隔《ヘダテ》タレバ。
敵の推《ヲ》シ来ルヲ防《ハウ》拒《キヨ》センニ便リ悪ク。
又他国ヘ軍ヲ出スニモ不自在也。
况《イハンヤ》今京都ノ往来滋《シゲ》キニハ。
殊《コトニ》ニ(※1)万事ニ妨《サマタ》ゲアリ。
----
(安芸吉田は)山中で海路から離れているので。
敵の侵攻を防御するための情報収集に不便で。
また他国へ軍を出すにも不自由する。
ましてや今の京都の往来のように混雑していては。
ことさら万事に妨げがある(京都と同じく盆地の吉田も同様である)。
   (訳注:あるいは「(現在の吉田が)京都のように往来が混雑しているのは、ことに万事に妨げがある」の意味か)

※1……「殊《コトニ》ニ」は原文ママ


何《イツ》処《ク》ニモアレ当国ニ於テ威《イ》ヲ蓄《タクハ》ヘ徳ヲ昭《アキラカ》ニスル地ヲ営《ハカリ》テ。
城郭《クハク》ヲ移《ウツ》シ人民ヲ安ンズベキト。
求メ給ケルニ。
二ノ宮信濃ノ守。
巳《コ》旻《ヒ》ノ川口ノ五箇《カ》ノ庄コソ。
河ヲ阻《ヘタ》テ江ヲ帯《オ》ヒ山ヲ環《メクラ》シ険《ケン》ニ據《ヨリ》テ。
形《ケイ》勝《セウ》堅《ケン》壮《サウ》ノ所。
----
「どこでもいいから当国において、国力を蓄え政治を住民に明示できる都市を建設し」
「その地へ城郭を移し国民を安心させるべきである」
と、輝元公は求められたので。
(求められた)二宮信濃守は。
「巳旻ノ川(※現・太田川と思われる)の五箇ノ庄こそ」
「河に隔てられ港を持ち山に囲まれた段丘にある」
「バッチグー難攻不落の所です」と推した。


子孫永ク武備ノ業《ゲフ》ヲ伝フ可地ナレト申ニヨツテ幸《サイハイ》ニ黒田孝《ヨシ》高新庄ニ逗《トウ》留《リウ》アレバ。
輝《テル》元ヨリ地゛形゛(※2)ノ可不可監《カンガ》ミテ給ハリ候ヘト。
頼給ケル程ニ。
孝高頓《ヤカ》テ五箇ノ庄ノ蘆《アシ》原ニ行至テ宅《トコロ》ヲ相《ミ》給ケルニ。
美ナル哉山河゛(※3)ノ固《カタキ》。
魏《ギ》国之宝《ハウ》ニ比ス可ク金陵《リヤウ》之麗《レイナル》ニ并《ナラ》ブ可シ。
国ニ体《テイ》シ(※4)野ヲ経《ケイ》シ官ヲ設《ケ》職《シヨク》ヲ分ニ。
究《ク》竟《キヤウ》無上ノ地ナリト申被ケリ。
----
「子孫が末永く武士稼業を経営できる土地です」と五箇ノ庄を猛プッシュする二宮だった。ちょうどそのとき、運よく黒田孝高が新庄に滞在していたので。
輝元公は(孝高に)「五箇ノ庄の地形の可不可をかんが見て欲しい」と。
御頼みになられたので。
孝高はサクッと五箇荘の蘆原に行き宅(トコロ)を相(ミ)て、こう申し上げた。
「美しきかな山河の固(かたき)」
「…魏国の宝なり、という言葉になぞらえたいほどで、金陵の麗しさたるや並ぶものなしです」
「国を作り整地して都市を築き身分を分けて統治するのに」
「究極最上の土地と申せましょう」

※2……濁点あり。読みは「ぢぎやう」か
※3……「河」に濁点あり
※4……ルビが不明瞭。テイと読んだ


サラハトテ天正十六年十一月初旬《ジュン》ヨリ。
二ノ宮信《シナ》濃《ノ》ノ守ヲ奉行トシテ。
孝高ノ指《シ》麾《キ》ヲウケ土《ト》方《ハウ》氏《シ》ニ命ジテ。
土《ト》圭《ケイ》ヲ以日景《ケイ》ヲ攷《カンカ》ヘ方ヲ辨《ワキマ》ヘ右《ウ》社《シャ》後《コウ》市《シ》ノ位ヲ正《タダ》シ。
奥《ヲク》草《サウ》ヲ切《キ》リ(※5)繁《ハン》蘆《ロ》ヲ刈リ。
匠《セウ》人鈎《コウ》縄《ジヤウ》ヲ投《ナゲウツ》テ方面勢覆フヲ審ニシ。
高深遠近ヲ量リ。
----
というわけで十六年十一月初旬より。
二宮信濃守を普請奉行とし。
黒田孝高の技術指導を受けつつ土方氏に命じて。
トケイ(測量機器)を使って日の影を測量し正確な東西南北を割り出し、右に社、背後に市場という(周礼が述べる通りに)位置を正し。
奥草を切り払い繁蘆を刈り。
技師は鈎縄を投げうって方面勢覆うを審《つまびらか》にし。
高深遠近を測量した。

※5……原文では「u521C(刜)リ」


銀城鉄《テツ》郭《クハク》巍《ギ》然トシテ。
厚《コウ》棟《トウ》大厦《カ》夷《イ》庭《テイ》〓《ショウ》(※6)門。
其利ニ依《ヨ》其勢《イキオヒ》ヲ迎ヘ。
大木ヲ〓《ハウ》(※7)ト為シ細木為桷〓《ハク》(※8)櫨《ロ》侏《シュ》儒《ジュ》各ゝ(※9)其の宜キヲ得。
工(※10)巧《カウ》成リテ燕《エン》雀《ジャク》聚《アツマ》リ賀《カ》セシカバ。
同十九年四月吉日良辰《シン》也トテ入城ノ佳《カ》慶《ケイ》ヲ調ヘ被ケリ。
----
(こうして)銀城鉄郭が巍然と完成したのである。
(完成した城郭は)棟の厚い大きな屋敷が立ち、整地され楼門を備えていた。
(木材は)長所によって形状を適切に処理した。
(つまり)大木は棟木に使うし、細木は垂木に使った。耐水性のある木・重硬な木・短い木・やわらかい木は、それぞれ適材適所に用いた(という具合である)。
(そうしてついに城が)完成し、末端の作業員まで集まって上棟をよろこび祝ったので。
その年の四月の大安が最良の吉日であるとし、入場祝賀会の日程を調整なされた。

※6……原文では「u8B59(譙)」。やぐらの意味がある
※7……原文では「u6757(杗)」。棟木、梁の意味がある
※8……原文では「u6B02(欂)」
※9……「各」の右に繰り返し符号(原文ではu3031「〱」)があるので「各ゝ」とした
※10……原文は「千」とも読める。明治44年の文字起こしを参考に「工」とした


其地ヤ東ニ瀬野ノ大山トテ三里ノ間。
石梯《テイ》懸桟《サン》百歩《ホ》ニ九折《セツ》シテ。
仰キ望ムニ線《セン》縷《ル》ヲ垂レ。
南ニ草津ノ海。
仁《ニ》保《ホ》ノ入江有テ。
潟《セキ》鹵《ロ》数里。
----
(城が築かれた)その地ときたら、東に三里(約12km)の所に瀬野の大山という高峰があった(つまり東から来る敵に強い立地である)。
石橋や木橋(のかかる郭内)を何度も曲がりながら百歩ほど進んで。
(本丸天守から)期待して眺めてみれば、バッチリお見通しが通っており。
南には軍港に適した海――
すなわち仁保島の入り江があった。
(そして、宅地に出来そうな)干潟や塩気の多く農業に向かない土地が数里にわたって広がっていた。


北ニ新《ニイ》山阿《ア》生《フ》ノ大山有テ。
錘《セウ》山龍ノ(※11)盤《メグ》リ石頭虎ノ踞《ウズクマ》ル(※12)ノ形象アリ。
可《カ》部《ベ》川北《キタ》ヨリ来テ西東ヲ周《シウ》廻《クハイ》シ。
不《フ》測《ギ》ノ淵ニ望ミタレバ利《リ》三ヲ阻《タノミ》フヲ用ヒ不ソ而。
守リ独り一面ヲ(※13)以ス山河之形勢。
田里ノ之(※14)上痩(※15)。
金城千里天府ノ之(※16)国也ト謂ツ可。
----
北に阿武山という大山があった。
ここは龍がのたうつように渓流が深い谷をめぐり錘山が林立し、前方に虎がうずくまっていたら前に進みづらいのと同様に、岩盤の露頭があちこちにあるので前に進みづらい、険しい地形であった。
可部川(現・太田川)は北から流入し(主郭の)東西を周廻して流れていた。
(この東西を周廻する川は)不測の事態(籠城戦)に臨むときのためのものである。(子孫たちよ)利便性を優先して(土や石で)満たして塞いではいけないぞ、と。
籠城とは(城のある土地の)一面の山河の地形をもってするものだからだ。
この土地は上流部ほど狭まっていた。
(そういう様子であったから、首都を新都市に移した毛利家の支配地域は)ゴールデンキャッスルスーパーワイドメガロポリスカントリーと言うべきであった。

※11……送り仮名不明瞭
※12……ルビ、送り仮名不明瞭
※13……送り仮名不明瞭
※14……「ノ之」は原文ママ
※15……原文では「u8184(膄)」
※16……「ノ之」は原文ママ


処ノ名ヲ広島卜号《ガウ》ス。
蓋《ケダ》シ吾朝ヲ豊《トヨ》蘆《アシ》原ノ中《ナカ》津国ト号《ガウ》スル例ヲ逐《ヲウ》時ハ。
今ノ広島誠ニ准《ジュン》據《キョ》スルニ堪《タヘ》タリ。
日本ノ在ン限リハ絶セシト民ハ人衛《チマタ》ニ歌ヒ市ニ抃《テウ》ツ
----
この場所を広島と名付けた。
思うに、我が朝廷が(かつて日本を)豊蘆原の中津国と名付けた例をふまえれば。
(輝元公が、この新都市を)いま広島と名付けたのは、まことに過去の例に準拠し(朝廷に)応えたものであった。
日本の続く限り(広島も)絶えることはないと、民衆は住宅街の路上で歌い、商店街で拍手したのである。

---------------------------------------//

コメントと訳注

陰徳太平記の「輝元卿廣嶋ニ於城ヲ移被事」を見ていきます。広島は研究のきっかけになった城下町ですし。
広島選地の基礎史料ですが、本編(『近世大名は城下を迷路化なんてしなかった』)ではとりあげませんでした。

『近世大名は城下を迷路化なんてしなかった』 http://blog.masuseki.com/?p=13620

陰徳太平記 輝元卿廣嶋ニ於城ヲ移被事
  国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772379/183

本編でスルーした理由は
「町割りの話は少ない」
「現代語訳が見つからない」
「自分で訳すには難解な部分が多い」
陰徳太平記には「虚飾が多く含まれているらしい」 from wikipedia 情報
というあたり。
教育社新書の原本現代訳は、抄訳であり、この逸話は見つけられませんでした(見落としでないことを祈ります)。

では、気になる部分をねちっこく読んでいきましょう。

>况《イハンヤ》今京都ノ往来滋《シゲ》キニハ
京都は大都会ですが、海路がないのと、四方が山なため人口過密を都市拡張で解消できないのでNGだということでしょうか。

「往来滋キ」は注目です。往来が滋(しげ/繁)き、つまり交通量が多すぎるのがあらゆる点で問題だと。防衛上の問題も当然含まれます。
都と同じく山間の盆地で平坦地が少ないのだから、本拠地が吉田のままでは、いずれ京都と同じ状況になる……もしくは、すでに京都のように混雑するようになっており、マズいということでしょう。

「注目です」とか言いましたけど、ここを見落としたから、本編での論の材料として陰徳太平記を取り上げなかったってことですね。
はい、正直に白状しました。

>何処ニモアレ
海路が必要!と言った直後に「どこでもいい」と言い放つ輝元w
威ヲ「蓄ヘ」に着目。
山城から平城への移行はよく、武威を「示す」ためと説明されます。
しかし江戸軍学各派も「繁昌の地」を居城に推しました。
配下の兵士が増えると、彼らに支払う禄も膨大になります。
軍事費確保のため高い税収の得られる都市が必要となったのでしょう。
また、数千~数万の兵士が暮らしていくための水や食料の供給といったインフラも必要であり、それは交通不便な山奥では実現が難しいものでした。
山城から平城への移行は武威を示すためという部分はそれほど重要ではなく、経済的および生活的な理由で進んだと考えるべきでしょう。

>幸ニ黒田孝高新庄ニ逗留ナレバ
運よく……と記されていますけど、おそらくはアドバイザーとして派遣されたのでしょう。
軍港を持つ河口への移転は大陸進出を見据えた秀吉の意向であり、その要求を呑んだ見返りに技術官僚の黒田孝高が派遣され、畿内の進んだ技術供与が行われたと見えます。

広島城石垣はそれまでの毛利の積み方ではなく畿内の積み方で築かれています。
このとき毛利と秀吉は利害一致の関係にありました。
ですから、広島城は秀吉に対抗するための城であるという説や、黒田孝高にだまされて水攻めに弱い広島を選地させられたという説は成り立ちません。

秀吉は誕生したばかりの自分の政権を軌道に乗せなければならない時期でした。
小さな偽詐術策で信頼を失うのは経営上、デメリットの方が大きい時期だったのです。
一方の毛利は、それこそ元就時代の偽詐術策のうらみつらみが元就の死後に噴出し、輝元は国内を抑えるのに精一杯、強力な後ろ盾が欲しい時期でした。

してみると山城の安芸吉田より防衛力は下がるのは百も承知で、輝元は秀吉におもねって河口の城へ移転を決めたのでしょう。
秀吉も見返りにNo.1技術官僚を派遣したというわけです。

しかし、『陰徳太平記』著者の香川正矩はその辺の裏事情を明らかにできません。
彼は儒教的価値観で原典である『陰徳記』をリライトしたと見られます(笹川祥生 『「陰徳記」から「陰徳太平記」へ--戦国軍記の衰頽』)。
戦国武将の互いに金玉を握り合うようなドロドロしたギブ・アンド・テイクの関係は、儒教的価値観の啓蒙という点で、あんまりよろしくないのです。書きたくないのです。
そういう背景を書けないから、輝元は
「国君ノ居所ハ萬人ノ都会所也」「山中ニシテ海路ヲ隔タレハ。敵の推来ヲ防拒センニ便リ悪ク」
と建前を述べ、孝高は「幸ニ逗留」していたという表現にならざるをえないのでしょう。

ところで文中の「新庄」は、どこなんでしょうね。
広島市新庄町だと、広島城に近すぎます。これからそこに都市を築こうかって話なので、それじゃおかしい。
北広島町の安芸新庄だと、山奥すぎて、なぜそんなところにいるんだ?となる。
なので、安芸木村城(別名・新庄城)かと考えました。

>孝高頓《ヤカ》テ五箇ノ庄ノ蘆《アシ》原ニ行至テ宅《トコロ》ヲ相《ミ》給ケル

キャプチャ_相宅


相(レ点)宅…読めねえw 風水に宅相学というのがあります。それをほのめかしたのでしょうか。
「美哉山河ノ固~」は中国の故事を引用。魏の文侯の言葉です。
文侯は魏国の地形が険しく防衛に適していることを誉めたたえました。
このあと家臣の呉起に
「本当の国の宝は攻め難い地形ではなく良い政治ですぞ」
と諫められます。
文侯はわりかし凡庸な君主でありながら、多くのすぐれた家臣に助けられてなんだか名君っぽく扱われている人です。
毛利輝元もそうだと匂わせてるのかもしれません。
このへん、陰徳太平記は虚飾が多く含まれてると疑われる部分でしょうか。

>国ニ体《テイ》シ野ヲ経《ケイ》シ
は難解で訳に自信がありませんが、ともかくそのあと
「最高の地でっせ」
と太鼓判を押したのは確かでしょう。

>土《ト》圭《ケイ》ヲ以日景《ケイ》ヲ攷《カンカ》ヘ
やや難解。
土圭(トケイ)は緯度を測定するための道具。
なので、機器で正午の棒の影を測定し正確な方位を割り出した、と訳しました。
右社後市は周礼のいう「左祖右社 面朝後市」でしょう。
これはなかなか矛盾です。城好きならご存じの通り、広島城と城下は正方位を守っているわけでもなければ、周礼の面朝後市ではなく政庁の前に市が来る長安型プランだからです。
正直、陰徳太平記の急に漢文調になる部分は、中国の古典からのコピペを疑ってかかるべきように思えます。

>銀城鐵郭巍然トシテ
u8B59(譙)は高櫓のこと。なので楼門と訳しました。
後半、普請の後にいきなり作事が完成してるのは、まあ、いいでしょう。

>匠《セウ》人鈎《コウ》縄《ジヤウ》ヲ投《ナゲウツ》テ
さあ、問題の部分です。なんだこりゃ。
訳は書き下し文を逐語訳しましたが、なんだかわかりません。
方面勢覆フヲ審ニス?はい?

とにかく測量を頑張ったのはわかるし、枝葉の部分なので、ここが訳せなくても問題はなさそうですが、気にはなります。
匠人は大工や職人のこと。
高深遠近ヲ量リ…とあるので測量のことでしょうから、匠人は土木技師と読みました。
で、測量で鈎縄、使う?聞いたことない。

検地や伊能忠敬の測量を調べても、鈎縄を使った様子は見つかりません。
そこをさておくとしても「方面勢覆フヲ」が意味不明。
方(その地点)、面(地面)、勢(形状)、覆う…元が漢文にしても不自然な文章です。
しかし現代の我々には検索エンジンという強い味方がありました。

検索すると、どうやらコピペ元が北宋時代の随筆『夢渓筆談』だとわかりました。
科学や技術に関する記述の多い随筆集です。件の文章は「卷十八 技藝」で見つかりました。
https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A2%E6%BA%AA%E7%AD%86%E8%AB%87/%E5%8D%B718
>審方面勢,覆量高深遠近,算家謂之…
とあります。

つまり陰徳太平記はコピペを間違って「審方面勢,覆量高深遠近」を「審方面勢覆。量高深遠近」としたために意味が通らなくなったのです(あるいは書写のときに間違いが混入したか)。
夢渓筆談の「審方面勢,覆量高深遠近」は、「方面の勢をつまびらかにす。覆量・高深・遠近」とでも読むべき文なのでしょう。

そして、続けて「算家謂」とあるので、元の随筆は測量に関する数学を語ったものと推測されます。
これで「匠人投鈎縄」も、なんとなく読めます。
コピペ元が何かわかりませんが、同じく数学もしくは測量に関する書からの引用なら、鈎縄とは「鈎縄規矩」のことと推測されるからです。

鉤縄規矩 - goo辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E9%89%A4%E7%B8%84%E8%A6%8F%E7%9F%A9/

が、陰徳太平記の著者あるいは書写した人間は、コピペの際にこれが四字熟語だと読めなかったのでしょう。
「かぎなわ」と読んでしまったために、意味を通すために「投」を足すしかなかったのです。
.
かくして「匠人投鈎縄審方面勢覆」…「匠人がカギ縄を投げうって地形をつまびらかにした」という奇妙な文章になったというのが真相と思われます。
謎解きできても、だからなに?ってやつですな。スッキリしただけ。
しかし、言われてる通り陰徳太平記は虚飾が多いというやつの実例は確認できました。

>其利ニ依《ヨ》其勢《イキオヒ》ヲ迎ヘ
主語を書け、主語を。唐突すぎらあ。文脈から、このあとの木材についての話と解釈しました。
u6757(杗)は棟木、桷は垂木のことです。
なんで「亡」+「木」が棟木なのか。調べてもいまいちわかりませんでしたが、死=いきつくところまで行く、に通じるらしいです。で、木材としてのアガリは建物の一番上に来る棟木であったと。すくなくとも古代中国のどこかの地方ではそうだったようです。大黒柱じゃないんですな。
で、さらに棟木が横木の意味に転じ、梁の意味も持つようになったと。難しすぎ。

u6B02(欂)櫨侏儒は難解。以後、u6B02(欂)は榑を代用します。
榑は日本ではクレとも読み薄板の意があります。櫨はハゼノキ。侏儒は低身長症の人を指します。そのままでは意味が通りません。
直前が木材の話題でハゼノキも出現してるので、木材の話が続いていると解釈します。
したがって侏儒は建材には不向きな低木・軟木と読むのが妥当でしょう。
大工の匠が材料を適材適所使い分けるように、将も人間の向き不向きをふまえ使い分けるべきだ。軽輩にも使い道はあるものだ…という論はこの時代よく見られます。
木材の表現に侏儒の語を使うのは、この比喩をさらに逆にした感じです。もとに戻った?

榑を「薄い樹木」と訳しては意味が通りません。垂木の意味もありますが、直前で「細木は垂木にした」と述べてるので、同じことをもう一度言うのは変でしょう。
もう少し調べると飛騨では榑葺というコケラに榑板を使った葺き方があったとわかりました。そして榑板の材料は栗の木であったと。

栗材は水を通しにくいという特徴があります。だからこそコケラや縁に使われるわけです。
丸木舟もあったようです(出土例が少ないのは太くなる木ではないからでしょう)。
そこで榑は大胆に意訳して「耐水性のある木」と訳しました。
ハゼノキはその特徴から「重硬な木」

しかし、そもそもはこれも韓愈『進學解』という中国の文献からの引用でした。
>夫大木為杗,細木為桷。欂櫨侏儒,椳闑扂楔。各得其宜,施以成室者,匠氏之工也。
というくだりがオリジナルです。榑櫨侏儒=様々な種類の木材、くらいの意味でしかないのでしょう。

燕雀は一般に小人物を意味しますが、ここでは築城に携わった末端の作業員まで、という意味にとりました。

四月吉日良辰也トテはおバカな原文です。
良辰は吉日の意味ですから、直訳すると
「四月吉日は吉日なりというわけで」
で、出~~~、馬から落馬~~~!!!

>石梯《テイ》懸桟《サン》百歩《ホ》ニ九折《セツ》シテ
入城の話で、瀬野に触れた直後の「石梯懸桟~」なので、九折というのは城下街路の話と読みたいところですが、百歩(約180m)とあるので、主郭内の話としました。
アーチ技術がないので、太田川に石橋も難しいと思います。
自分の記憶でも大手門から本丸まで九回くらい曲がったような。

>仰キ望ムニ線《セン》縷《ル》ヲ垂レ
は説明不足も甚だしい。直訳すれば
「仰ぎ望めば糸筋がたれ」
なるほど、わからん。
『陰徳太平記』を読んでいたと思ったけど、いつのまにか『蜘蛛の糸』(芥川)になってました?

仰ぎ望むを「見上げる」と解釈すれば天守の話と思えますが、それだと「線縷を垂れ」がよくわかりません。
まさか「天守は傾いておらず垂直であった」という自慢にならない自慢じゃあるまいし。
その直後には天守の記述は出て来ず、南方向の描写がされています。
したがって「仰ぎ」は見上げたのではなく本丸から南方向(大手方向)を「期待を込めて見た」あるいは「遠方を見た」と解釈しました。
そう解釈すれば「線縷を垂れ」が「お見通し」のことであろうという推測が成立します。

>南ニ草津ノ海
草津とはいくさの津、すなわち軍港です。実際、南に加子町(船乗り町)が形成されているので、事実と合致します。
海路の確保こそ広島移転の目的だったので、ここは目的が達成されたという記述でしょう。
>仁保ノ入江有テ
も、そこが良港であることを強調するものです。

>潟鹵数里
鹵は「塩気のある農業に向かない土地」の意味。
山中の吉田では、京都のように混雑して万事に妨げあり、という理由で河口のデルタ地帯へ新都市建築したわけです。
したがって、
「干潟や塩地が多いのは将来の人口増加に埋め立てで対応できる土地である」
という賞賛と解釈しました。

>錘《セウ》山龍ノ盤《メグ》リ石頭虎ノ踞《ウズクマ》ルノ形象アリ
単なる比喩でしょうが、愚直に訳してみました。龍盤は深い谷川が無数にあると読みます。そして、巨石の露頭があちこちにあるので(前方に虎がうずくまっていると怖くて進みづらいように)進軍の難しい山であると。

>可部川北ヨリ来テ西東ヲ周廻シ
この時代は太田川の上流部を可部川と呼んだのでしょう。五箇ノ庄があった巳旻ノ川は支流の一本でしょうか。問題は次です。

>不測ノ淵ニ望タレハ不用利阻三而
「不用利阻三而」が、まったくわかりません。タスケテー

不測ノ淵ニ望タレハ…は、いざ敵が迫った時でOKでしょう。
不用利阻三而…書写本のルビに従えば
「利(り) 三を阻(たのむ)ふを用いざるそ(※最後、送り仮名不明瞭)」
と読むのでしょうか。まるで意味がわかりません。

キャプチャ_三阻3

明治時代の活字起こしは最後の不明瞭な送り仮名を忠実に再現していてヒントにならず。ふざけんな。

しかし、「阻(たのむ)ふ」というルビ・送り仮名は無視しています。これは明治人、書写本のルビを疑ったのでしょうか?私も明治人に賛成です(返り点がおかしいような気がしますが)。
というわけで、かなり推測を含めて意訳しました。

川が城の東西を囲むように流れているという前フリからの有事の際の話です。防衛上、河川を濠として使うことの話とみて間違いありません。
したがって三は「ミツ=満つ」と考え「利に三を阻(ふさ)ぐを用いざるそ」と読みました。
あるいは返り点から間違ってて「利を阻(たの)みて三を用いざるそ」かもしれません。
つまり、商業的・生活的な利便性のために城の東西を流れる河川を埋め立ててはいけない(命令)、という解釈です。送り仮名は「ソ」でいいのでしょう。命令形+強調の「而」があるので、読者(子孫)への戒めと読みました。
続く部分に守獨(※独り守る、すなわち籠城と解釈しました)は地形をもってするとあるので、防衛上の利点のある地形(険)はそのままにせよ、と読むのが自然でしょう。

>田里之上~
も、やや悩みどころです。上流部の狭くなってるのの、どこが利点なのか。逆説的に、下流ほど平坦地が広がっているんだよ!ということでしょうか。自然流下に頼るしかない時代ですから、高地が広くて低地が狭いのは、稲作に不向きです。

>金城千里天府之國
は、美辞麗句を並べてるだけなので、訳もおちゃらけました。

>処ノ名ヲ広島卜号《ガウ》ス
最後は特に難しいことはありません。
広島の「広」の由来を書いて欲しかったところですが。
個人的には、干潟を埋め立てて都市を広くするぞ!という意気込みじゃないかと思います。

新たに拠点を築いた土地の地名を変えるのは織豊政権の常套手段でした。
支配者を印象付ける手段としてマニュアル化されていたのではないでしょうか?

したがって、神代の時代の「豊蘆原の中津国」を持ち出したのには違和感があります。
が、編纂・執筆者である香川景継は、この本を儒教的価値観で執筆したと考えられています。
執筆時は出家後なんですが、仏教熱が冷めて、若い頃に学んだ儒教に戻っちゃったようなのです。
「豊蘆原の中津国」を持ち出したのも儒教的な忠君PRの意図があってのことかもしれません。

あるいは毛利家は朝臣(あそん)である!(今は外様大名に甘んじているがな!)という正統性のPRでしょうか。

最後、書写本のルビと送り仮名は奇妙に感じます。

>民《たみ》は人《ひと or じん》衢《ちまた》に歌ひ市《いち》に抃《てう》つ(※=手打つ)

民は、と読むなら人衢《じんか》(街路の意)と読みたいですし、衢《ちまた》と読むなら「民人《みんじん》、衢《ちまた》に~」と読むのが自然に思えます。
どう読んでも意味は変わらないので、私ァどっちでも別にかまャしませんが(雑なヤロ)
まあ、鼓腹撃壌みたいなことを表現したかったのでしょう。

>日本ノ在ン限ハ絶セシト
逆説的に言えば、広島が絶命するとき日本も滅するのだ、とも受け取れます。
二十世紀のアレを思い出してしまい、予言めいてて微妙に怖いですな。



以上で陰徳太平記の広島移転の話はおしまい。ていねいに読むと意外に発見もありました。

京都(洛中)は防衛に適していないというほのめかしは甲陽軍鑑でも見られました。しかし甲陽軍鑑は、なぜ防衛に向かないのか理由は述べていませんでした。
ですから陰徳太平記が
「京都は人が多すぎて混雑しているため、(軍事を含め)万事に妨げがある」
と述べているのは注目に値します。
輝元の広島開発は天正十六年、一方、秀吉による京都の区画整理(天正の町割り)は天正十八年ですから、たしかにこの時期、京都の交通は混乱をきわめていたのでしょう。
碁盤目で町割りされたといえ、応仁の乱から百年以上、行政が都市を維持管理できないような状態が続いたのです。

お見通しにこだわっていたらしい、という部分もありました。
しかし、このへんはコピペも多く矛盾も散見されたので、すでに成立していた軍学書・兵法書の受け売り疑惑がぬぐえません。
しかし、軍港を必要として河口のデルタを選地したのは事実でしょう。
河口への本拠移転は大陸進出を狙う秀吉へのおもねりもあったかもしれません。
しかし何より、最新技術で作られた大坂城を見て、尾張・三河の「平野の侍」が畿内を征した事実を肌で感じた輝元には、山中の吉田がいかにも時代遅れに見えたのではないかと思います。

城とは山城という固定観念に縛られた古参家臣の反対は強かったらしく……というか、若い輝元の決断をバカにする風潮もあったようです。
当時の輝元の書状には
「たとえ誰に何を言われようとも、この事業をやり遂げてみせる」
という悲壮めいた決意表明が見られます。

ともあれ、『陰徳太平記 輝元卿廣嶋ニ於城ヲ移被事』からは、次の情報が得られました。

  * 数か国を統べる大大名は海路を必要とした。
  * 山中の盆地では人口が飽和したときの対処が難しい。一方、土木技術の発達により、河口のデルタの土地利用が容易になっていた。

山城から平城への移行はこうした背景を踏まえたものでありました。
従来説では「平地で権威を示すことが重視されたため」と説明されてきました。しかし私は、選地の理由としての権威誇示は、もっと優先度が下だろうと思います。
海路の有無やひろい宅地は、適切な選地でしか解決できません。数万規模の家臣の住宅地を確保し、生きていくのに必要な水や食料その他をスムーズに供給するには、山中の盆地では難しいのです。問題の解決は土地というハードウェアに依存しているのです。
しかし権威の誇示は天守やお見通しが無くても実現可能です、御馬揃えや大名行列といった立地に依存しないソフトウェアな手段を用いれば、平地でなくても権威を示すことはできるのです。

よく
「世が泰平になるともはや権威を誇示する必要がなくなったため、江戸城や大坂城の天守は再建されなかった」
などと説明されますが、大名行列や日光社参での武風の誇示は世が泰平になってから盛んになっています。
備中松山城や豊後丘城など、城下と主郭が離れており城下から主郭は見えやしませんが、天守が築かれました。
近年に作られた岩国城模擬天守は、あえて錦帯橋から見える位置に模擬天守を築いたことで物議をかもしましたが、逆に言えば本来の位置の天守は城下から見えなかったということです。
日常的に城下から見えないのであれば、天守が権威をみせつけるためという説は論拠が弱くなります。

これらは城郭研究者が取り組むべき矛盾と言えましょう。

----
ところで、この一連の「ひとこと」は宣伝のためにやってます。

城下の街路の屈曲のほとんどは防衛以外の理由によることを明らかにし、ひいては碁盤目都市の成立過程にまで踏み込んだオモシロ本です。よろしくゥ!
.
『近世大名は城下を迷路化なんてしなかった』
http://blog.masuseki.com/?p=13620

なお、本エントリを本編に追加する予定はありません。基本的には本編の宣伝のためのつぶやきでだからです。


Amazon.co.jp: 近世大名は城下を迷路化なんてしなかった (古今定新書)
https://amzn.to/36XLX6e

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった - mitimasu.booth.pm - BOOTH
https://mitimasu.booth.pm/items/1937797


もちろん、このマガジンの有料記事を購入されても同じです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?