近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(8) 第3章 3.4.6. 四国編
###3.4.6. 四国編
■ 丸亀城(香川県)
図 3.4.6.1: 丸亀城
見ての通り、はっきりと方格設計が存在しています。
十字路の割合も、交差点総数が50~100の城下としては高い比率です。目抜き通りが南北に貫き、おおむね左右対称である都市設計は、中国大陸から伝わった都城制のフォーマットすら思い起こさせます。
北側の大手門の前に枡形のような広い空間が設けられているのは、人間が戦って防衛するという設計思想かもしれません。もしくは、江戸でもよく見られた火除け地としての空間でしょう。
丸亀城は、城下の街路の複雑さをもって戦う城ではなさそうです。
■ 多度津町(香川県)
比較対象は丸亀の西にある港町、多度津町の約2,000m四方としました。
図 3.4.6.2: 多度津町
名前に津が入るだけあって、駅よりも港寄りに商業地が密集しています。方格設計は田畑の部分にわずかにみられる、といったところ。
そのわずかな方格設計すら、香川名物の溜め池の影響を受けて、崩れてしまっている部分が生まれています。
多度津藩の成立は17世紀末。陣屋は長く丸亀に置かれ、多度津に陣屋が建てられたのは19世紀になってから。したがって、城下町に準ずると言われる陣屋町ではない時期が大半ということになります。
■ 大洲城(愛媛県)
図 3.4.6.3: 大洲城
計測した交差点の総数が50でした。ギリギリ、評価対象入りした小さな城下町です。
南東の町人地にゴリゴリの方格設計が見られますが、郭内の侍屋敷エリアは三差路やクランク、行き止まりばかり。これが、三の丸は城地でもあるので、防衛のためそうしたのだと見るか、丘陵部分であるため地形由来でそうなったと見るか、難しいところです。
町屋エリアに方格設計があると言ったものの、都城制の要素は感じられません。
大洲の町割は藤堂高虎の治世時に基本的な部分が作られたとされます。
そもそも、この場所は大洲盆地の西南のはしっこにあたり、あまり広い土地ではありません。戦国のころ、あえてここに拠点が置かれたのは、ここが宇和島往還・八幡往還・松山往還が結集する交通の重要地点であったからです。
また、肱川の蛇行により、川の流れる速度の弱まる、渡河にも湊(みなと)にも適した場所でもあったのでしょう。備中松山城下では堰を作って湛水し、船の停留場としていたことを思い出してください。流れが速い場所に船を止めておくのは大変なのです。
そのような物流の要衝の場所で、商業都市の価値を下げるような街路の迷路化を大名が行うものでしょうか?
■ 内子町(愛媛県)
比較対象は大洲の東にある内子町の約1,000m四方です。
図 3.4.6.4: 内子町
交通の要衝として、そして和紙と木蝋の生産で有名になった町です。
今でも魅力ある歴史的景観の町並みが残る内子町ですが、方格設計は梯子状の初期段階でしかありません。
山間部であり、平坦地が細く長い地形であったため、方格設計に向いてなかったと見えます。
■ 徳島城(徳島県)
図 3.4.6.5: 徳島城
吉野川河口の三角州に建設された都市です。都城制らしさはありませんが、平坦地に直交街路をなんとか作ろうとしているのがわかります。十字路の割合は城下町の平均より高くなりました。
なので、全体としては迷路的ではない城下です。ただ、城の西側の侍屋敷エリア、すなわち城地と城下の中間の場所に、興味深いものがありました。
図 3.4.6.6: 虎口前の小さな池
図 3.4.6.6:をご覧ください。土塁でせばめた出入り口(虎口)の前に小さな池があり、迂回せずには通れません。
はたして、虎口の前の小さな池が、戦闘時にどれほどの役に立つかという疑問は抱きます。見透かしを防げるわけもなし、敵の射撃も防いじゃくれません。
しかしながら、ここに小さな池があることで、直進できなくなってるのは事実です。まわりに河川があるので、飲料水確保の必要があるとも思えません。仮に海に近すぎて、河川水が飲用に適さず、雨水溜めが必要だったとしましょう。しかしそれは、侍屋敷が各々、敷地内に持てばいいことです。このあたりは上級屋敷エリアなのです。
このように考えると、やはりこれは新発田城と同じく、守りの弱いところへ応急処置的なことをしたのでしょう。城の西側は橋から城まで簡素な門しかなく、池がある部分の虎口は食い違いが無くて心もとない感じですから(図 3.4.6.7)。
図 3.4.6.7: 橋から門まで
ただし、別の可能性もあります。ここが一種の火除け地であり、池は消防用水という可能性です。
火除け地として広場を設けるというのは、江戸時代の火災対策として、広く行われた施策です。防火対策なら、ついでに消火用水を溜めておく池も作ろう……と考えるのは自然な成り行きでしょう。
どちらにしても、防衛のためと言えます。防火も一種の防衛ですから。一石二鳥を狙ったのかもしれません。
しかし、たった一ヶ所の進路妨害では城下の迷路化とは言えません。そのうえここは侍屋敷エリアで、純然たる城下(一般居住区)でもありません。
新発田城の場合と異なり、ここは明確に丸の内です。城地と城下の両方の性格を持つエリアです。
そのため、この門の前の小さな池は、無条件に城下(居住区)の迷路化と見なすわけにはいきません。
■ 富岡町(現・阿南市)
比較対象は徳島市の南にある、同じく三角州の町である富岡町から約2,500m四方を選びました。
図 3.4.6.8: 富岡町(現・徳島県阿南市)
左下、現在の阿南市市役所のある辺りに方格設計が少しあります。が、全体としては、直線道路・平行・直交の少なさが目立ちます。高低差の激しい土地には見えないので、不思議に思いました。
■ 高知城(高知県)
図 3.4.6.9: 高知城
最初、河内(こうち)と呼ばれていたという事実が示す通り、河口の土地。当時はこんなに城の近くまで海が来ていたんですね。長曾我部氏が築城するも捨ててしまったほど(※捨てたのではなく、文禄・慶長の役の都合で一時的に浦戸城へ本拠地を移しただけという説もあります)、水難の多い土地でした。のちに土佐を拝領した山内一豊が改修して、ここを居城としました。
強い方格設計が見られます。十字路の比率では徳島を上回りました。
海に近づくほど方格設計が崩れるのは、ここまで見てきた他の河口の城下町と同じです。防衛のためではなく地形が原因だと断定できます。
つまり、高知城も城下の交通利便を図り、防衛のための街区迷路化は意図しなかったと考えられます。
■ 須崎町(現・須崎市)
図 3.4.6.10: 須崎町(現・高知県須崎市)
平地が少なく、一領具足の気風が強かった土佐で、高知に似た地形の非城下町を見つけるのは容易ではありません。
しかたなく、須崎町の約2,500m×1500mとしました。が、やはり須崎城が存在し地図には古城山の文字が見えます。近世城下町ではなかったということでご了承ください。
駅前になかなかしっかりした方格設計があります。が、それですべてであり、丘陵の多い土地らしく、全体としては曲がりくねった山道と三差路という構成です。
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※城下町の地図は正保城絵図です: 正保城絵図 - 国立公文書館 デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0300000000/0305000000_6/00
※非城下町の地図は明治~昭和前期の国土地理院地図(旧参謀本部陸地測量部、内務省地理調査所による地図)です: 国土地理院 http://www.gsi.go.jp/
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※このnoteはミラーです。初出はこちらになります。
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