近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第4章 4.5 それは盛岡砂子から始まった
## 4.5. それは『盛岡砂子』から始まった 街路屈曲防衛術の論拠は江戸時代中期の巷説
### 4.5.1. 一次ソースの名は『盛岡砂子』
さて! さて! さてさてさて! やってきました桶狭間。ここが勝負の天王山。心しずめて賤ケ岳。天下分け目の関ケ原。ついに本丸天守閣。
天守閣って言い方は明治以降だ? うるせえやい、七五調にしたかったんじゃい。細けぇこたァいいんだよっ!
いよいよ、街路屈曲防衛術の総本山に攻め入ります。
出典、出典でーす。みなさん、長らくのご乗車ありがとうございました。
『盛岡砂子』が街路屈曲防衛説の根拠だと、すでに知っていた賢明なる読者の方、ここまでの長話に、よくぞ辛抱してくださいました。
出典の原文に触れる前に、この説が広まる過程で、どのように引用されてきたかをふまえましょう。
> では近世城下町をどのような表現でよんだらよいのだろうか。この点を伊藤ていじ氏は、『盛岡砂子』にみえる盛岡城下町の町割方針決定会議における意見から「五」の字形式の街路とした。つまり盛岡城下を作る際、二つの形式が提案され、「一」の字、すなわち直線状街路案と「五」の字案であった。「五」の字街路といういい方は、この盛岡の場合にしか見られないので、これを全国化するには問題がないとはいいきれないが、「五」の字に含まれた秩序の形式は、いわば城下町街路の特性というか精神をあますところなく表現しているものと思われる。
> すなわち道が四方に通じていることが一つ。縦横に直角に交差する十字路もある反面T字路やカギ型路などを含んでいる点が二つ。三つ目は袋小路を含んでいるという点である。
> 盛岡藩士が、そこまで考えて「五」の字と表現したとすれば驚きであるが、近世城下町は、まさにそのような意図のもとに出発していることを浮き彫りにするものである。
出典: 小和田哲男『城と城下町』(1971年)
『盛岡砂子』、それがソースの名前だと判明しました。いったいどういう本でしょうか。
ウィキペディアによれば、幕末から明治初頭にかけて盛岡藩士・星川正甫が執筆した盛岡城下の地誌ということでした。
参考: 星川正甫 > 盛岡砂子 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E5%B7%9D%E6%AD%A3%E7%94%AB#%E7%9B%9B%E5%B2%A1%E7%A0%82%E5%AD%90
では、次にその、伊藤ていじ氏による『盛岡砂子』への言及にさかのぼってみましょう。
> いずれにしてもこのような動的な均衡概念における都市形態は、当時「五」の字という言葉で表現されていた。元来この言葉は、盛岡城下町の町割方針決定会議の席上で、藩主や奉行たちの間で使われていた用語であるから、全国に一般的な用語であったという保証はないけれど、五の字にあらわされた概念で城下町のほとんどすべてが理解できるとしたら、この用語はきわめて暗示に富むものである。今までの全世界の都市形態を分類するとき、城下町はそのいずれにも属しないという点では、きわめて特異なものである。しかし卍字型式のインドの理想都市と似ている点では、東洋的なものとも言えよう。
> 例の町割会議では最初に二つの形式が提案された。ひとつは一の字で、他のひとつは五の字であった。一の字は一重で細長い。しかし五の字は丸く小さく四方に道の便利がある。しかも所々に屈折があって丁割の見透かしがないのに、通行は自由である(盛岡砂子)。つまり五の字形態の道路割を、そのまま機械的に現地に移そうというのではない。彼らは、五の字になかには都市機能とか都市交通の理想が象徴され、都市の発展形式が潜在していると考えていたわけである。すなわち五の字という形を問題にしているのではなく、五の字に内在する秩序の形式に関心を抱いていたのである。
出典: 伊藤ていじ『城とその町』(1963年)
これ以前、城郭研究において盛岡砂子を引用したもっとも古い例は、私の調べた限りにおいては、1941年にさかのぼりました。
> 「長き町にはひつみを附けて、見透を」 防ぐとは盛岡城下建設に際して論せられた事である。(盛岡砂子)
出典: 小野均『近世城下町の研究』(1941年)
以上をふまえた上で、いよいよ原文を読んでいきます。
### 4.5.2. 『盛岡砂子』の「盛岡 町割会議」
■ 利直公諸奉行を召して曰く、盛岡丁割一の字か五の字か
図 4.5.1: 盛岡砂子
出典: 南部叢書. 第1冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179155/204
> 盛岡丁割初御当家秘書に云、或時 利直公諸奉行を召して曰、盛岡丁割一の字歟五の字歟宜しきを云へしと、満座其故を知らす。
> 唯北松斎對て五の字可然と申上ければ、公欣然として、予も又然り。
> 外面には如何思うと問せ給へとも皆々其の一の字五の字故不存申上る。
> 公、北松斉に其故を、面々へ解示せよと存けれは松斉か曰 謹て愚按仕候、尊慮に当たるや不哉大理を申へし。
> 先一は一重にして長く、五は井田の丸く小さく四方に道の便利あり。又、丁割の見透を止め通用自由の形也。
> 是より南の国々は諸将参勤交代往還の旅行便有を以て駅宿は申すに及はす、城下ともども只丁町を一重二重にして先後長きを繁昌とす。左様の地に五の字を用ゆるは通り、丁は栄え陰町は衰へし是自然の理なり。
> 当所は諸人往来なく袋のことくにして地賣地商を本とす。此故に城を二重三重先後左右に囲み、町に侍丁侍丁に町屋を続け、只少厚きに益候。
> 又長き町にはひつみを附て見透を忌の理五の字に叶ふ。臣諸国を見るに皆其心也。
> 敢て一国の内にも本城と端城とに又心得候、其外の事は公に奉るべしといふ、満座一同に感心せしと。此事沖弥一右衛門申上にもありて、一の字をしの字に作れり。
(※改行は筆者による適時改行)
: 盛岡の町割の初めについて、南部家に伝わる秘書に、こう書いてあった。 あるとき、南部利直公(初代藩主)が家臣を集めてたずねた。
: 「町割について、一の字と五の字、どちらがよいと思うか述べよ」
: と。しかし、誰も答えられなかった。
:
: ただひとり北松斎のみが利直公に対して
: 「五の字にすべきです」
: と申し上げると、利直公はうれしそうに
: 「オレもそう思う」
: と答えた。
:
: そして
: 「ほかの者はいかが思うか?」
: と、問われなされた。しかしほかの家臣たちは
: 「いかが思うか? と問われましても、そもそもその、一の字・五の字とやらを知らんのです」
: と、みんなで申し上げた。
:
: そこで、利直公は北松斎に皆へ解説するように命じた。北松斎は言った。
: 「それではおそれながら私の考えを述べましょう。利直様と同じ考えかどうか……ともかく根本的な道理を説明しますね」
:
: 「まず、一の字というのは一重にして細長い町割です。五の字と申すのは井田のように丸くて小さく、四方向に交通の便がよい町割です。また、(五の字町割は)敵の見透を防ぎ、通行に不自由しない形の町割です」
:
: 「これ(盛岡)より南の国々(の城下町)は大名の参勤交代の宿泊に使われるため、そのための利便性が最優先です。駅宿の整備は言うに及びません。城地も城下もひたすら都市を幹線に沿った、一重かせいぜい二重くらいの、前後に細長い都市設計を用いて繁昌の地としているのです。
:
: そのような(旅行者の多い)都市で五の字を用いてしまうと、幹線沿いばかり繁栄して裏通りが衰退してしまうのは自然の道理です(だから盛岡より南の城下町が五の字にせず一の字の町割を選ぶのは理にかなったことです)」
:
: 「ここ盛岡は諸人の往来もない袋のような土地であって、他国と貿易のようなこともしておらず、地産地消で経済が成り立っています。ですから(五の字の町割で)城の前後左右を二重にも三重にも囲み、町屋に侍町、侍町に町屋……と続けて、ひたすら小さく厚くすることにメリットがあるのです」
:
: 「また、長い町(一の字)には歪みを附けて敵の見透を防ぐと言う手段を用いれば、(見透を防ぐ性能は)五の字と同等になります。私は諸国を見て回りましたが、(どこの国も)みな、このような考えでした」
:
: 「一国の中でも本拠地の城と端っこの城に応じたそれぞれの心得があるものなのです。(私の考えはこれで以上なので)そのほかのことは利直公に質問してほしい」
:
: この解説に、その場にいた人々は皆、感心したのだった。また、この事は(北松斎の家臣の)沖弥一右衛門の話にも見られ、一の字の町にひつみを付けて「しの字」にしたという。
……では、肩慣らしに、さして重要ではない所からいきましょう。
■ 城下の街路に袋小路があるとは言ってない
「当所は諸人往来なく袋のことくにして地賣地商を本とす」と言っているのです。
直訳すれば、
「この土地は往来する諸人がおらず袋のような土地なので地産地消を主としている」
です。
すなわち、文脈から判断して「諸人往来なく」と「袋のごとくにして」は「地賣地商を本とす」の理由でなければなりません。
はて? 町に袋小路があることは、地買地商の理由になるでしょうか?
もちろん、なりません。ですから、この「袋」とは町の袋小路のことではなく、もっと広域的に見て盛岡が袋のようなどんづまりの都市である、と読まなければなりません。
地理的に袋のどんづまりのような都市、さいはての地であるから、旅人(行商人)も少なく、地買地商になる。これなら意味が通ります。
前の段落で
「是より南の国々は諸将参勤交代往還の旅行便有を以て」
と、盛岡以南の町について述べたあとです。この段落と対比して地理的な話をしているのは明らかです。
盛岡の街路に袋小路がある、という話ではありません。ましてや袋小路を作るべきだなどとはひとことも言ってないのです。
文脈を考えれば、盛岡が広域的な意味で、ここより北に参勤交代する大名も通行する行商人もいない、地理的に袋のごときどんづまりである……そうとしか、読みようがありません。
地図調査において、正保城絵図の盛岡城下に地形由来と考えられない、不自然な行き止まりはわずかに一ヶ所でした。盛岡は袋小路が多いとも袋小路を作れとも言ってないとすれば、筆者の地図調査の結果と整合します。
なに? 盛岡がどんづまりなわけあるかい、ですって? 秋田への道の分岐点でもあるし、北には利直の前居城があった九戸や三戸南部氏の本拠地、三戸がある。盛岡からまっすぐ東の宮古港を開発したのも、宮古港への道を開かせたのも南部利直公じゃないか、ですって?
知らんがな。文句は『盛岡砂子』の著者に言ってくださいよ。袋問題の検証はのちほど、4.5.6.2 盛岡は袋のような地か?……でやるとして、いまは次に進みます。いずれにせよ、この「袋問題」は、さほど重要ではありません。
■ 五の字に食い違いがあるとは言っていない
重要な話に進みましょう。皆様は気づいたでしょうか。「五の字」に屈曲やT字路やクランク十字路があるとは、原文のどこにも書いてないことに。
原文は
「五は井田の丸く小さく四方に道の便利あり。又、丁割の見透を止め通用自由の形也」
です。丁割の見透を止めとは書いていますが、それが「ひつみ」や「T字路」や「カギ型」によるものだとは、どこにも書いてないのです。そう、どこにも。
最後の方で、「長き町にはひつみを附て見透を忌の理五の字に叶ふ」と、わざわざ「長き町には」と前置きし、ひつみ(歪)をつければ見透を忌避する性能が五の字の町と同等になる……と言っているのですから、逆説的に五の字はひつみを足さなくても、そのままで見透を防ぐ形だと読めます。
いやいやいやいや。井田の丸く小さく四方に道の便利ありって言っているんだから、「井」の字のような碁盤目状の町だろう?
碁盤目状ってことは街並みは整然としてて見通しが良いに決まってる! そのままで見透を止めるなんてことは、ありえない!
そう考えるのは当然です。『盛岡砂子』を城下の都市計画の根拠として採用するなら、この矛盾を克服しなければなりません。
そこで伊藤氏は五の字には
「所々に屈折があって」
と原典にない説明を足したのだと思われます。
言うまでもないから省略されたのだ、という解釈ですね。五の字とはデフォルトでひつみがある形態である。だから足さなくても見透を防ぐのだ、と。
その可能性はあるでしょう。しかし、五の字とは何か知らない人々に説明しているのに、その点の説明を省くのは不自然に思えます。
小和田氏はこれに
「十字路もある反面T字路やカギ型路などを含んで」
と、T字路を加えました。
しかし
「所々に屈折があって」
そのうえ
「あちこちにT字路がある」
のなら、もはや四方に道の便利がある町割と言えないのでは? と思えてきます。
もっとも、盛岡藩が防衛のために十字路を避け、丁字路・鉤型路・袋小路を加えたとする説は、私の調査では豊田武『日本の封建都市』(1952年)が初出でした。
伊藤氏・小和田氏ともに、先行する研究を参考にして、自説へ採用しただけであり、恣意的に原文を無視したわけではないのでしょう。
いずれにせよ、『盛岡砂子』は五の字が見透を止める理由を記していないのですから、どのような解釈を唱えても、それを正解だとも不正解だとも断定はできません。
しかしながら、可能な限り矛盾のない推察をしてこそ、真摯(しんし)な学問的態度と申せましょう。
真摯な学問的態度! 自分で書いた言葉に感激した! うむむ……ぜひその態度で!
よし、ひとつがんばってみるか!
結果が矛盾しているのですから、まず我々が当然と考えている前提を疑ってみましょう。
すなわち、方格設計(碁盤目状の街路)は見通しが良い、という先入観を捨てて考えるのです。
『盛岡砂子』の町割会議の逸話は、徹頭徹尾「一の字と五の字の対比」です。ここに、この逸話を解くカギがあります。
五の字が見透を止めるというのは、一の字に比べたら……の話、と読むべきなのです。また、方格設計が見通が良く、クランクやクランク十字路が通行に不便というのは現代の車社会に生きる運転手の視点です。
ところが、これは近世城下町の都市設計の話です。四輪の乗り物がほとんど通行してない時代の、兵を率いる武将の視点で考えなければなりません。
以上をふまえて、次の図をご覧ください。
図 4.5.2: 五の字の城下町モデル
図 4.5.2の右下の球が、なんとか五の字の城下町の外郭虎口にたどりついた武将だと思ってください。城下町の幅は4町(436m)としました。単純化された五の字城下町です。武将から見えるを視覚化すると、次のようになります(図 4.5.3)。
図 4.5.3: 五の字城下町の端から見える範囲
次に、一の字の城下町を考えてみましょう。建物の数は変えずに、細く長く街道に沿って配置だけを一重か二重の町に変えます(図 4.5.4)。
図 4.5.4 一の字の城下町モデル
同じく、右下の球が攻め手の武将です。河川を越えて、町の端っこに立ったと思って見てください。彼の見える範囲だけを照らすと、こうなります(図 4.5.5)。
図 4.5.5: 一の字の町の端から見える範囲
つまり、この単純化したモデルでは、攻め手の武将の見える範囲は436mから1090m、2.5倍に伸びた計算になります。
さらに単純化してみましょう。
図 4.5.6: 攻め手の武将から見える範囲(五の字)
図 4.5.7: 攻め手の武将から見える範囲(一の字)
図 4.5.6と図 4.5.7に、全体に占める武将の見える範囲の変化を示しました。グラフにすると次のようになります。
図 4.5.8: 五の字と一の字:見える範囲の変化比較
町が大きくなるほど、見える範囲が漸近線的に下がっていくのはどちらも同じです(図 4.5.8)。
ただし、五の字の方がずっと下がり続けるのに対して、一の字の狭まり方は早々に40%付近で下げ止まり、以降はどんなに町が長く伸びようと、理論上の見える範囲はほとんど変化しなくなりました。
もちろん、現実はこんな単純ではありません。肉眼で見える範囲にも限界があります。とはいえ一の字と比較しての話において、五の字はそのままで見透を止める形であったと言える根拠になりえます。
五の字が見透を止める形だったとするのに、屈曲やT字路など追加条件を足す必要はなかったのです。
くりかえしますが、これはあくまで推論です。出典である『盛岡砂子 ― 盛岡 町割会議』が理由を記していない以上、証明はできない話です。
車社会・現代社会に生きる我々は、碁盤の目の町並みは見通しがいいという先入観にとらわれています。近世の都市設計を考える時には、まずその先入観から疑ってかかる必要があることを、忘れてはなりません。
■ 「盛岡城下町割会議」北松齋の主張
では、まとめます。余計な解釈をいれず、北松齋の主張を述べられている通りにまとると、以下のようになります。
* 一の字とは細く長い一重か二重の町である。
* 五の字とは小さく丸い四方に道の通じた形の町である
* (ノーマル十字路であるかクランク十字路を含むのかの言及はない)
* 五の字は一の字にくらべて、敵の見透を止め、往来自由の形である
* 盛岡より南の城下町は参勤交代で宿泊する大名が多いから、町を宿泊に適した細く長い形(一の字)で町割し繁昌の地としている
* このような町で五の字を採用すると町の街道に面していない所が衰退してしまうので、五の字を採用しないのはもっともだ
* 盛岡は参勤交代で通過する大名も行商人もいない袋のような土地である。他国と貿易はしておらず、商いは地元で完結している
* このような土地は町屋・侍町・町屋・侍町……と、小さく厚くするのがよい
* 一の字にひつみ(歪み=屈曲)を作れば、敵の見透を忌む(避ける)性能は、五の字に匹敵する
* (五の字が敵の見透をなぜ避けられるのかの説明はない)
つまり、一の字には一本道の意味しかありません。五の字は五という漢字の字源通り交差する道の意味か、四方向に中央を加えたものの意味か、どちらかでしかないのです。
クランク十字路を含むかどうかは問題にしていませんし、五の字の形態にカギ型やT字路を加えるのは結論ありきで導き出した、やりすぎの拡大解釈です。
### 4.5.3. 『盛岡砂子』は採用していい史料か?
……と、さんざ、検証したのになんですが、そもそも『盛岡砂子』が採用していい史料かどうか、ということを考えてみたいと思います。え? それを先にやれ? えへへ、まっぴらごめんなすって。めんぼくねえ。
まず、『盛岡砂子』は江戸後期に書かれた書物です。南部利直公の時代から、250年ほども経っています。
「五の字というのは『盛岡砂子』だけに見られる語なので一般化するにはウンヌン」どころの話じゃない。
たとえば人物伝記だったら、事後250年が過ぎて書かれた書物など、なかなか一級史料としては採用されないものです。
誰が書いたもので、その先祖は誰で、家系図はたしかかどうか、著者は誰に取材したのか、取材された人の先祖は誰で、家系図はたしかかどうか……そうしたことを吟味した上で、参考史料扱いなんてのが多いパターン。なぜなら、250 年もたっているからです。
ところが、この『盛岡砂子』の町割会議の話。ソースは、
"盛岡丁割御当家秘書に云"
御当家(南部家)に伝わる秘書に云う! えぇ? 秘書ォ!? 秘密文書の方の秘書ォ!?
だれが書いたか、だれが聞いたか、だれが伝えたか、いつ書かれた文書かすら明確でないの?
こんなものを根拠として採用するなんて、正気の沙汰じゃない!!!
このレベルの出典がさだかでないものや偽書だと立証されたものが、史料として延々と採用され続けているのが土木史の現状なのです。
なぜなんでしょう。どこ? 実証主義はどこに行ったの?
いやいや。ソースが『御当家秘書』だからといって、あきらめてはいけない。探せば、その『御当家秘書』とやらが、見つかるかもしれないじゃないか。
筆者はあきらめがいいので、そんな殊勝(しゅしょう)な気持ちはわかずに『御当家秘書』を探すのはあきらめていました。
……が、
北松齋がどういう人物か調べていくうちに、偶然、この「盛岡 町割会議」の、『盛岡砂子』より古いソースに行き当たりました。『南部叢書』に収録されていた『祐清私記』に、ほぼまったく同じ話が載っていたのです。
### 4.5.4. ソースのソースは『祐清私記』だった
■ 『祐清私記』とは
出典: 盛岡御町割之事<祐清私記<南部叢書. 第3冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179178/230
著者は盛岡藩士、伊藤祐清。内容は『南部根元記』、『奥南旧指録』その他の文献を整理し、南部信直・利直二代の治世を中心に史実を記したもの、となります。
なので、さらにソースのソースのソースが見つかる可能性はありますが、今のところ私がたどれた最古の出典は『祐清私記』です。
伊藤祐清が1741年に諸氏系図、武器古筆等諸用係につき、そのとき集めた資料を元に執筆したのが『祐清私記』と伝わります。そして彼は1745年に没しているので、『祐清私記』の成立年は1743年頃としました。おお! 一気に百年ちかく、さかのぼりました! 南部氏が盛岡を本拠地にしてから約150年後! ずいぶんマシになった!
南部利直の没年は1632年。対して伊藤祐清の生年は1678年。つまり、祐清は幼少期にリアルで利直を見たことがある人、小姓としてお仕えしてたかもしれない人などから、話を聞けた可能性があります。
ああ、よかった、『御当家秘書』よりは、ずっと信頼性が出てきました!
ただし、『祐清私記』を収録した『南部叢書』の解説からして、
> 『祐清私記』の価値は流布する異説をも探録している点にあるのだろう
……なんて言ってるくらいです。噂レベルのものも含めて収集した話を整理した本であるとして読まなければならないようです。
……ということを踏まえて、『祐清私記』収録「盛岡御町割之事」の信頼性を検証していきましょう。『盛岡砂子』とほぼ同じ文章なので、引用は省略します。
■ 盛岡は袋のような地か?
まずは先に軽くツッコんだ、「当所は諸人往来なく袋のごとくにして」は、どうでしょうか。町に袋小路があるという意味とは読めません。すでに述べた通りです。
盛岡は北上盆地の北にある都市です。地形的には「袋のごとく」と言えます(図 4.5.9)。
図 4.5.9: 山に囲まれた盛岡
出典: 地理院地図 - 国土地理院
https://maps.gsi.go.jp
※加筆は筆者による
東に存在する御用港の宮古港の町割は1615年ですから、盛岡の町割時において東方向に整備された街道はなかったと見ていいでしょう。
南方向に道がひらけていたことは考えるまでもありません。仮に陸路が少々まずくても北上川という大動脈はド安定ですから。
北はどうしょうか。さきほど触れたように、それまでの居城である九戸城があります。南部利直の家系である三戸南部氏のホーム、三戸もあります。
さらに八戸には根城南部氏がいました。秀吉の奥州仕置では所領を安堵され、根城は廃城をまぬがれ、根城南部氏は三戸南部氏の配下ということになったのです。
八戸がそれなりの領民のいる地域であったということは、初期の盛岡藩にとってメインで使用する海港は八戸港だった可能性があります。
釜石港は近代に製鉄所ができるまでは、大きな港ではありませんでした。
とすれば、内陸である盛岡に海産物を届けるのは、八戸港の役目。輸送のために道が整備されていたはずです。
最後に、西方向について。出羽に通じる秋田街道と、その峠である国見峠は古代から文献に現れています。盛岡城の築城のころだけ都合よく自然廃道になってたりはしないでしょう。
盛岡は地形的には北上盆地の北端でも、北・西・南の三方にそれなりの街道が通じていた、交通の要衝だということがわかりました。
「袋のごとく」は地形のことで正しい表現だとしても「諸人往来なく」は実情にそぐわない表現であり、この逸話が創作である可能性を示しています。
■ 町割したのは参勤交代が制度化される前
参勤交代はどうでしょうか。
『祐清私記』に記された通り、盛岡より北に、参勤交代のために盛岡を通過する大名はいません。
弘前藩も松前藩も、参勤交代は秋田の方を回って南下するのです。八戸藩が盛岡藩から分かれるのは、当然に盛岡城下の町割より後のことです。
まあ、仮に弘前がもっと東寄りにあったとしても、津軽氏は南部氏の城下を死んでも通らなかったと思いますがね!
もちろん南部氏だって津軽氏を通過させるなんて命に懸けても阻止したでしょう(たぶん)。
それはさておき。
してみると、参勤交代での宿泊という莫大な経済効果が期待できないのだから、盛岡を細く長く宿泊に適した「一の字」にする必要はない、という論にはうなずけるものがあります。
しかし、思い出してください。参勤交代が公式に制度化されるのは1635年です。一方、南部利直は1632年に死没しているのです。北松齋にいたっては死没年は1613年です。
くわえて、父である南部信直が本拠地を盛岡(不来方)に定めて土地の整備を始めたのは、江戸幕府開幕以前の1592年でした。
盛岡の基本的な町割が完了したのは、1609年から1611年にかけてと考えられます。これは城下の上之橋などに残る擬宝珠に刻まれた銘により、明らかです。
つまり、『盛岡砂子』の盛岡町割会議は、参勤交代が制度化される25年前での話になるのです。四半世紀前です。この事実により、参勤交代を前提として町割を考えているこの逸話は、創作を疑ってしかるべきと断言できます。
参勤の源流は鎌倉時代の御家人の参集までさかのぼりますから、秀吉の時代にも大名が自発的に行う「参勤」がありました。
この自発的な「参勤」は首都が江戸へ変わっても続きます。
ゆえに、制度化される以前でも、武家諸法度・元和令(1615年)で「諸大名参勤作法の事 」として、お供の数を多すぎないようにしろと命じています。
しかし、この頃の参勤はあくまで「自発的行為」です。一年交代という決まりもないため、街道沿いの民にとって、制度化される前の参勤は「次もあるかどうかわからない。あるとしても、いつになるかわからない。いつまで続くかもわからない」だったはず。
はたして、そういう不確定要素の多いものに基づいて、都市計画できるものでしょうか。
また、『祐清私記』が「参勤交代」なる言葉を用いている点も、疑惑を抱かせる部分です。
制度を定めた武家諸法度・寛永令では
> 大名小名在江戸交替之義 毎年守所定時節可致参勤
とあります。
江戸と領地で定期的に住む場所を替えるのが「交替」で、本領から江戸へ向かうことが「参勤」なのですね。それぞれ別の言葉です。
「参勤交替」と続ける言い方は、後の時代に生まれた可能性が高いと言えましょう。
『祐清私記』の著者である伊藤祐清が、収集した逸話を記録するにあたって、当世風のわかりやすい書き方に改めたとも考えられます。
しかし、それは裏返すと、書写元になる文献史料のない、伝聞がソースだったことを大いに疑わせます。
■ 花巻は「参勤交代往還の旅行便有」なのに五の字
逸話の主役である北松齋についてはどうでしょうか。松斎は法名で、本名は北信愛(きた のぶちか)。
南部信直の懐刀とも言うべき智将です。
信直の後を継いだ利直は北信愛の隠居を許さず、父・信直に引き続き重用しました。
北松齋は花巻城代として、1598年から死去する1613年にかけて、花巻城下の整備を行っています。
花巻は盛岡から約30kmほど南にありますから、(まだ制度化されていないとはいえ)南部氏本家が参勤するときは、最初の宿であったでしょう。
『祐清私記』の記述に沿えば、参勤交代で諸将が通るような城下町は
「城下ともども只丁町を一重二重にして先後長きを繁昌とす」
のが道理にかなっており、こういう場所に五の字を用いては
「丁は栄え陰町は衰へし」
となるのでよろしくないはずです。
では、花巻城下とはどういう町割だったのでしょうか? せーの、ドン。
図 4.5.10: 江戸後期に製作された『花巻城之図』
出典: イーハトーブ岩手 電子図書館 岩手の古絵図
http://www.library.pref.iwate.jp/ihatov/no6/html6/b10/k1/index_1.html
筆者には、一の字のごとく細く長くとは言い難い町割のように見えます(図 4.5.10)。
一重二重ではありますが、大通りは東西に伸び、南北方向の街道には沿っていません。
積極的に「長き道にひつみを附け」てもいません。
十字路は多くありませんが、基本的に平行・直交を基本とした方格設計、いうなれば「五の字」の町割です。
花巻に限らず"是より南の国々"の城下もまた、参勤交代を考慮して長き町をもって繁昌の地とはしていなかったと考えられます。仙台城下、白石城下、福島城下、白河城下、古河城下……いずれも、長き町ではありません。奥州街道の城下で長き町なのは山間部の二本松城下が目立つくらいです。この点で、盛岡町割会議の逸話は実情に合っていません。
■ 否定できない江戸軍学の影響
そもそも北松齋の没年が1613年なので、五の字や一の字の特徴について「丸く小さく」とか「繁昌とす」などと北松齋が述べているのが怪しく思われます。なぜなら「小さく丸く」という『甲陽軍艦』の定型文が小幡景憲によって発見され、世に広められるのは、早くても1621年なのですから。「繁昌の勝地」に至っては1635年の北条氏長を待たねば出てこない言葉です。
もしかすると、武田家遺臣が「小さく丸く」の武田流縄張術を周辺諸国に広めていたのかもしれません。武田くずれのあとに。
もしかすると、「小さく丸く」の教えは武田家だけでなく、北陸や関東や東海や近畿でも共通していたのかもしれません。
もしかすると、すぐれた外交官であった北松齋が、諸国へ出張した折に、「小さく丸く」の縄張術を見聞していたのかもしれません。
も!し!か!す!る!と!
ここまで多くの文献を見てきましたが、城下の商業地または一般居住区でひつみを用いて見透を厭(いと)うという城下防衛術が示されたのは、1743年頃に書かれた、この『祐清私記』の「盛岡町割会議」が初出となります(筆者が調査した範囲内で、です。この年代の文献をより丁寧に調べれば、もっと古い例が見つかるだろうと予想します)。
甲州流軍学を学ぶ生徒が
「侍屋敷の屋敷割が屈曲しているのは陰陽の縄を用いたからでは?」
と質問した『信玄全集末書』の刊行が1692年でした。
城下の街路屈曲を用いた遠見遮断という概念は、17世紀末に現れ、18世紀半ばまでに世に定着したと言えるでしょう。
江戸時代初期までの軍学書を見る限り、「見透」を遮るのは城門や外郭の見切など、「城地」の話であり、「城下」のお見通しを悪くせよという教えはまったく無かったのですが。
松坂の肘折れを軍房目的と誤解した『松坂権輿雑集』は『祐清私記』とほぼ同時期となる1752年の刊行でした。
しかし北松齋が1598年から1613年にかけて整備した花巻城下に、顕著な「ひつみ」は見られません。
そのうえ
> 此事沖弥一右衛門申上にもありて、一の字をしの字に作れり
これは、『盛岡砂子』だけに見られる追記です。ネタ元にあたる『祐清私記』の方では
「一の字のような長い町にひつみを作れば、見透を阻止する能力が五の字の町割りに匹敵する」
と述べただけで、沖弥一右衛門が長い町をしの字にした話、つまり具体例は出てこないのです。
…………もう、十分じゃないですか? 冷徹に申し上げて、『祐清私記』の盛岡町割会議のくだりは、事実とは認められません。大名が城下町を迷路化したという説の論拠にはなりえないのです。
■ 『祐清私記』検証まとめ
* 他の同時代の南部家史料に現れない逸話である
* 築城当時の盛岡は諸人往来なくとは言えない
* 正保時点で、盛岡に袋小路が著しく多いという事実はない
* まだ制度化されてない参勤交代を前提にしている
* 北信愛が知るのは難しい江戸軍学の決まり文句「小さく丸く」「繁昌の地」という表現が使われている
* 北信愛が治めた花巻城下は、盛岡藩が参勤または交替で通る城下でありながら「一の字」にはなっていない
* そもそも『祐清私記』は噂レベルの話をも収録した点に特色がある歴史書である
以上の点を考慮すれば、『祐清私記』の「盛岡 町割会議」の項は事実だと断ずるには証拠不十分で、一級史料として採用できないのは明白です。
ですから、江戸時代初期における城下の街路が複雑である理由を考えるにあたり、『祐清私記』もしくは『祐清私記』を収録した『盛岡砂子』を根拠とするのは、大いに問題があります。
この二つの文献は、日本の城下町において、武士が防衛目的で街路を複雑化させたという主張の論拠には、ならないのです。
若い南部利直が皆の前で、町割について、長老格の北信愛にたずねる――これは、ありそうなことです。
仮に、町割会議が実際にあったと仮定して考えてみましょう。
先進地域の畿内を知っている利直は、将来を見越して盛岡を四方に交通の便の良い都市にしたい。
ところが在地の家老衆は都会(畿内)を知らず、人口爆発の未来が見えていません。城下の道なんていうものは街道に沿って自然と伸びて行けばいいのであって、なぜわざわざ藩が予算をかけて都市設計をしなくてはいけないのか、わからない。しもじもの居住区のことなど、しもじもにまかせればよいではないか……と。
そこで、保守的な家臣を説得するのに、都会を知っていて長老格の北信愛のお墨付きを、利直が求めた……と考えられないでしょうか。
つまり、仮に盛岡城下の町割方針決定会議が実際にあったことだとしても、街道に沿った長い町にするか東西南北に長短の差が少ない、四方に道の通じた都市にするか……ただ、それだけの議論だったことでしょう。
当時、小姓や若侍として会議を見た人間が、半世紀以上過ぎて、若い伊藤祐清に語って聞かせたのかもしれません。
そうだとしても、10代や20代になって見たことを老境になって語る、記憶もあいまいになった思い出語りです。
ましてや、伊藤祐清が1741年に諸氏系図、武器古筆等諸用係になってから集めた逸話だとしたら、二世や三世からのまた聞き・伝聞になります。
遠い記憶や伝聞を材料に、北信愛がいかに素晴らしい智将だったかを伝えるのは難しいものです。普通の人間は講演慣れなんかしていません。
伝言リレーの途中で、北信愛の凄さを表現するのに、聞きかじった兵法の秘事口伝から言葉を借りて、
「縄を用いて見ゆるところをつぼみ」
「左右をひつみて」
「小さく丸く」
「五の曲尺」
「五の陣」
「五徳相生」
「五重の転輪」
「繁昌の勝地」
などの、軍学の定番フレーズが混入してしまった……そのあたりが真相ではないかと思います。
本人が言ってない言葉が帰せられるというのは、逸話ではよくあることです。
……そうそう、ところで、パンがありません。いっしょにケーキを食べませんか?
### 4.5.5. 城下街路の屈曲は防衛のためという説が広まっていく18世紀
17世紀の終わりの『信玄全集 末書』に書かれていた問答では、生徒が
「屋敷がまえ(上級侍屋敷の敷地の形)が城の縄張そっくりだ。あれは兵法の秘事口伝を流用したのではないか?」
とたずねていました。
師匠はそれに対して、城構えと屋敷構えは、似ているがちがうと述べていました。
つまり17世紀末にはすでに、城下の屈曲が縄張の延長であるという誤解が生まれていたわけです。
久世兼由は1752年に出した『松坂権輿雑集』で、松坂の隅違いを防衛のためだと断言していました。
しかし実際には、松坂の隅違いが顕著に現れたのは伊勢のおかげまいり流行のあとでした。隅違いは商業的理由で出現したのです。
久世兼由より、あとの時代の本居宣長は、久世兼由の主張した防衛由来説を無視しました。松坂の道の悪さを
「しどけなし(だらしなし)」
と批評しつつも、その理由が軍防目的だとは述べていないのです。
1743年頃に書かれた『祐清私記』の「盛岡町割会議」は、史実ではなく単なる噂の可能性が高いものでした。
長き町にはひつみをつけて見透を忌むというのも、この逸話につけられた創作の尾ひれと見るべきだったのです。
しかし、否定されても無視されても、18世紀の日本には、その誤解が定着する下地がありました。
上級家臣の屋敷構えはたしかに陰陽の縄張にそっくりだったのです。
城下町にはクランク十字路が連続してることもあれば(会津若松)、ヒダヒダのキザギザな道になってたり(伊勢松坂)、長い町のド真ん中にひずみがあったり(近江日野)したのでした。
それらは利水のためだったり、商業目的だったり、地形のためだったり、あるいは単に亭主の好みで土地が屋敷割された影響を受けて……である可能性が高く、かならずしも、防衛のためにそうなったわけではありません(むしろ防衛のために城下の街路が曲げられるのは、無かったわけではありませんが、珍しいことでした(第3章 地図調査))。
しかし、そうした背景がわからない後世の人間が
「この道は、なぜ、このような形状なのだろうか?」
と考えたとき、飛びつきやすい答えがありました。
「兵法」です。「江戸軍学」です。
部屋にあるとカッコイイものとして甲陽軍鑑が挙げられたほど、兵法が世の人々に読まれていた時代です。
道が屈曲している、なぜ? と考えたとき、真っ先に思いつくのが「陰陽の縄張」の、様々にねじりまがった虎口や馬出や枡形だったことでしょう。
そうだ! ここは城下だ! ならば、この道路は陰陽の縄で屈曲したにちがいない!
いくら兵法の師匠や国学者が否定しようと、この単純でわかりやすい誤解を止めることはできなかったのです。
一級史料に当たって検証するほどではない江戸時代中期の普通の人々にとって、
「城下の屈曲は見透を忌むため」
だというスパッと竹を割ったような一行回答は、魅力的だったにちがいありません。
――江戸時代中期の、と限定するべきでしょうか? 現代の私たちも同様に、その考えに飛びついていないでしょうか?
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※このnoteはミラーです。初出はこちらになります。