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城下町古地図の目抜き通り起こし

これは『近世大名は城下を迷路化なんてしなかった』( https://note.com/mitimasu/n/nf71167fb5a63 )の補説です。城下絵図の目抜き通りを可視化し、大名が城下を迷路化しなかった都市はこんなにあるよ!と示したものです。
別の言い方をすると、筆者は何の実績もない人間なので、どんな内容かより誰が言ったかを重視するタイプの人には、なかなか目を向けてもらえないので、地道に証拠でブン殴っていく、という作業のまとめです。
つまりは本編の宣伝をかねた、主張のわかりやすい見える化です。

このエントリは攻城団にポストした「ひとこと」をまとめ、多少の加筆訂正を行いました( https://kojodan.jp/profile/1462/ )。

このまとめはミラーです。まとめのオリジナルは

  城下町古地図の目抜き通り起こし|桝田道也|pixivFANBOX( https://mitimasu.fanbox.cc/posts/1104741

です。

弘前

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正保城絵図は目抜き通り(大通り)が描き分けられているので、とりま弘前城下の目抜き通りを可視化してみました。環状線と中心軸道。交通便利を目指してて迷路化は目指してませんね。
興味深かったのが南方向に目抜き通りが無いところ。南に巨大な空堀と土塁があるのは、岩木川の洪水対策と見るべきなのかもしれません。つまり遊水地。真南からやってくる敵を防ぐのはサブ目的だったんじゃないですかね。

盛岡

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正保城絵図の盛岡に書かれた目抜き通り可視化しました。北に津軽道、南に仙台道と絵図に記されており、実は盛岡こそ奥州街道に依存した「一往還上の城下町」だったという。この事実をもってしても、やはり『盛岡砂子』の「盛岡丁割初」は事実と受け取ることはできません。
見ての通り迷路っぽさはないです。
本編で、築城当時にだけ「秋田道が都合よく自然廃道になってたりはしないでしょう」と書きました。が、少なくとも正保時点の秋田道は、盛岡からの分岐じゃなかったんですね。これは調査不足でした。
絵図では西に向かう道が描かれてますが、主幹線扱いではありません。
秋田への公式ルートの分岐はひとつ北の宿である渋民からだったようです。

出羽本荘

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正保城絵図出羽本庄、本道の可視化。ザ・十字プラン。迷路っぽさ皆無。十字の中心がクランクになってますが、西側の低湿地(水田)を避けた結果と見るべきかと。絵図的にも地理院地図的にも。

クランクは東西から来る敵を迎え撃つのに有利かもしれませんが、四方向から来る敵を相手にしなきゃならんわけでもありまして。
私が将だったら、そんな危険な場所で戦わせるくらいなら200m南の虎口で戦わせますね。そこなら屈曲はもちろん土塁も門もある。
でも、そもそも城下に敵の侵入を許してしまったら、城下での戦闘なんてあきらめて、とっとと籠城するべきな気が。城ってそのためにあるんでしょう?

秋田

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正保城絵図久保田城、本道の可視化。町人町に本道が3本あるw

しゃーない、地図にそう書いてんねんから。侍町の見透にはこだわった久保田城ながら、町人町の3本の本道は城から見透の通らない方向ですね。
西に足軽町が伸びているのは、そこが微高地だったからでFAっぽいです。
防衛のためとロマンを見出したいところですが、それだったら本丸の真西になるべきなのに、そうなってない。
単純に、北西と南西の低湿地を水田とし、微高地を町域にしただけと思われます。
あるいは久保田城の築城前から、微高地を街道が通り、小規模な集落が存在したか。

米沢

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正保城絵図の本道の可視化。米沢城。碁盤目で迷いようがない米沢ですが、北からの大手筋はわざと遠回り。経済のためわざと商店街を歩かせたのか、防衛のため侍町を見せたくなかったか、どっちもありえますね。

西南方向は濠が無く、堀立川を濠の代用にしたとかなんとか、なんでそんな不完全な?という不思議プランな米沢でしたが、そもそも街道がないんですね>西南方向。
戦争も足軽部隊の数の論理で押すような時代になると、そもそも道なき所から来る少人数の遊撃部隊なんか気にしなくてよくなっていたのかもしれません。

山形

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正保城絵図山形城の本道可視化。城に至る道筋は無数にありますが、本道はこうだったと。本道は脇道より幅広に作られてるので、敵は幅広の道を選んで進めば自然と大手口前に誘導されます。迷路?どのへんが?

江戸から来る人(東から入るルート)は、一回、右に曲がれば次は大手口ですわ。

棚倉

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正保城絵図の本道を可視化。棚倉城。迷わせるという意図はまったくないですね。交通の要衝という点に棚倉の価値があるのですから、交通不便な街づくりにするわけがないですよね。

白河

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正保城絵図の本道を可視化。白河城。迷路っぽさはそんなにない。優秀な絵図で道幅が記入されてる。本道は約6間3尺で統一。脇道は4~5間幅。広い道を選べば自然と城に到着します。
本道以外では北西の上級家臣宅エリアに、同じく6間3尺の道が縦横に通ってます。上級家臣宅エリアにそれほどの交通量があるとは考え難いので、この6間3尺という道幅には防火帯の意味もあったのでしょう。やはり都市戦とは放火されるものなのです。木造住宅で作った迷路など都市防衛にさほど役立つものではありません。
 
面白かったのは、会津にいたる道は(少なくとも正保城絵図では)北東、川を渡ってからの分岐なのですね。白河城の西門になる会津口から会津への道が伸びてたわけじゃなかったと。

水戸

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正保城絵図の本道を可視化。水戸城。南から入る人には迷路じゃないけど、北から入る人にはやや迷路。でも、そもそも那珂川に沿った城なので迷わすも何も。この城を攻めるなら普通に都市戦を避けて対岸からアタックじゃない?
 
西側の二の丸から河原に降りたところで本道が途切れて説明が無いのも興味深いです。
柵のある虎口が描かれており、河川敷からいきなり二の丸に入れたと。三の丸と堀切の立場がwwww
あと、西に向かう道(笠間~筑波~古賀方面)は、少なくとも正保時点では本道扱いじゃなかったのですね。
とはいえ笠間から水戸まで平坦な台地ですから、敵は来やすい地形なはずです。
整備された広域街道がなくとも、西からの敵に備えていなかったわけではないでしょう。
連格式の縄張りと堀切は、明確に西からの敵に備えたプランですから。
 
下町エリアで本道が何度も折れてるのはなんでしょうね。
たびたび氾濫を起こす桜川(千波湖と那珂川をつなぐ川)の河道から距離を置いたんじゃないですかね。
氾濫のたびに道路を修復するのは大変だったでしょうから。
もしくは築城が平安末期にさかのぼる城なので、単に歩きやすい場所に自然に生まれた古くからの道が本道におさまったか。

古河

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正保城絵図の本道を可視化。古賀城。わかりやすい城下の道筋。城郭内は屈曲多しですが地形の影響も考えられ。湿地の城で城下より城の方が標高が低いと知ってりゃ迷いにくい。都市戦を避け対岸から攻める手もあります。

小田原

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正保城絵図の本道を可視化。小田原城。清々しいほど迷わせようという意思がまったくない!

村上

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正保城絵図の本道を可視化。村上城。ここもわかりやすい。他の藩だと大手口から本丸までの本道も記入してるとこが少なくないんですが、村上藩はそうしなかった模様。でもまあ、山を目指せば迷わない城なのでありまして。
  
ただし本道はのちに衰え、明治初年の地図では脇道の方が幅広になってます。
この点で村上は「幅広の道を選んで進めば迷わない」とはいかなかったと思われます。
……「商業の中心地は時代とともに移動し続ける」というのはセルフ本で書き忘れたことですね。
現代でも、駅前がさびれて郊外のイオンが栄え、道路行政に影響するようなもんです。
 
GoogleMapでも見てもらうとわかりやすいんですが、二の町(かつての二の丸)なんかは現代の方が道が複雑です。
維新後、二の丸が民有地として売却された際に無計画に街路が形成されたのだろうと思われます。
迷路のような街路は防衛のためではなく、行政が都市計画を実施しない(できない)ときに生じるのです。

新発田

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正保城絵図の本道を可視化。新発田城。正保城絵図の中では唯一、明確に「防衛のための屈曲が設けられた」城下ですが、街路はシンプルです。件の屈曲も一ヶ所だけですし、そもそも迷わせられるほど大きな町ではなく。
 
せっかく見つかった「まちがいなく防衛のための屈曲な部分」も、明治初年の地図を見ると消えていますしね。
新発田は城下絵図が豊富なので、丹念に調べれば江戸時代のいつごろ消えたかわかりそうに思えます。
が、今はコロナのせいで国会図書館も利用できないので、しばらくは無理ですね(※この段落は 2020-04-13 に執筆しました)。

長岡

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正保城絵図の本道を可視化。長岡城。北から真っすぐ!と思いきや大手へ誘導されーの。戦時に敵が従うかはともかく。南からは柿川さえ渡れば、あとは本道を外れても、ほとんどの交差点からも城が見えます。迷いようがない。

掛川

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正保城絵図の本道を可視化。掛川。東の七曲には敵を侵入させないためと説明版も立ってますが、だったら西にも七曲がなきゃおかしいですよね、という。逆川を避けつつ碁盤目を守った結果の七曲としか解釈しようがありません。

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(承前)地理院地図を見りゃ一発解決。逆川を避け、氾濫平野の低湿地(水田)も避け、台地・段丘を選んで街道が形成された結果の七曲だったです。実際に行くと、Aの地点にはジメジメした休耕田が残ってましたね。駅近の良い立地なのに。現地訪問は得る物が大きい。

大垣

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正保城絵図の本道を可視化。大垣。町割は複雑に見えますが、本道だけ見るとそこまで難しくはありません。とはいえ他の城の本道とくらべると、これでも複雑な方ですね。

膳所

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正保城絵図の本道を可視化。膳所城。他の城は、迷路的ではないとはいえ、さすがに侍屋敷エリアはなるだけ見せない本道にしてます。が、膳所城は「隠すものは無い!」とばかりに三の丸の街路の大半を本道にしちゃってます。

これ、別に膳所藩にオープンな思想があったわけではなく、単に幕府の作図指示を膳所藩が誤解して、幅広の道を全部、本道扱いにしちゃったんじゃないかと憶測しますが。でも、何の証拠も出せません。真相は闇の中ですね。

桑名

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正保城絵図の本道を可視化。桑名城。東からのルートは海路が本道。なので迷路もクソもありません。南からの道は少し折れが多いです。しかし道幅の差別化は明確で迷いにくく設計されてます。というか山の反対方向が城。
 
まあ、折れが多いと言っても、その折れはほとんどが虎口(城地)であって、城下の居住区を屈曲させたというのとは違いますが。

松坂

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正保城絵図の本道を可視化。松坂城。シンプルなもんです。クランクが3つあります(虎口のぞく)が、弱いクランク。松坂の電光型街路が顕著になるのは本編で述べた通り伊勢参りブームのあとで、防衛は無関係。

大和郡山

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正保城絵図の本道を可視化。大和郡山城。西側の丘陵地帯で道が屈曲してますが、全体的にはわかりやすい本道。ただし道幅の差別化は明確ではなく、その点では迷いやすさがあります。
 
南西からの道が南門への最短ルートをとってないのは、基本的には地形由来かと思われますが、防衛目的も考えられます。
というのも、丘陵とはいえ比高はせいぜい6mほどであり、南門の正面道がじょうごのような形状で、敵が入りにくく自分たちが出撃しやすい形であるからです。

岸和田

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正保城絵図の本道を可視化。岸和田城。ここはまあ、本道を可視化するまでもなく、見た瞬間にわかる「一往還上の城」なので、それ以上は特に言うこともありません。

新宮

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正保城絵図の本道を可視化。新宮城。お城の南に屈曲がありますけど、地形由来ですね。絵図に山が描いてありますもん。地理院地図を見るまでもない。迷路からは遠い城下です。

篠山

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正保城絵図の本道を可視化。篠山城。迷路的ではありませんが城まで最短ルートでもありません。追分は次の宿場町・または次の次の宿場町で、実は一往還上の城下町でした。交通便利への欲求が低かったのかもしれません

明石

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正保城絵図の本道を可視化。明石城。ここもおおむねドまっすぐ。JR明石駅から見たこともがある人も多いと思いますが、あんなに目立つ位置に城があって、高層ビルもない時代。少々の三差路や行き止まり程度で、迷うもなにも。
 
城の南で若干のクランクが生じてる理由はよくわかりません。地形的なものではなさそうです。
東西にあるので防衛目的の可能性は残りますが、東の方はすぐ近くに土塁と冠木門があるのにそこで屈曲してません。防衛目的との推測にも不自然さは残ります。
個人的には、江戸時代が始まってしばらくして作られた城であるため、すでに存在した港町と自然に形成された街道を修正できなかっただけではないかと思います。外堀が南で不自然に凹型になり、そこのへこみの部分に商人町が存在しているので。

津山

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正保城絵図の本道を可視化。津山。やや複雑。道幅の差異も明確ではありません。しかし6本の広域街道が集まる要衝のためか、城に至る経路は豊富に用意されていて、迷わせようという意図は見当たりません。

備中松山

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正保城絵図の本道を可視化。備中松山。わずかなクランクは高梁川のわずかな蛇行に起因。北・中央・南のそれぞれの中では直線路で、境界で齟齬を解消しただけでしょう。北からの敵には障害にならないクランクですし。
 
そもそも、あの高い山城を持つ備中松山藩が、どれほど都市戦を想定していたかってことですよね。
あの高さでは「城に籠る」のもひと苦労。登城して迎撃態勢を整える時間を考えたら、外郭に敵が迫った時点で橋と根小屋を焼く、「つぼみぎわ」の働きを済ませてとっとと登山を始めなきゃ間に合わないのでは?という。
そう考えると、都市の防衛設備は、あんまり意味がないように思えます。
もっとも、このへん、どう迎え撃つかは敵の人数次第なところもあるでしょうし、なんとも言えませんが。

むしろ問題は頼久寺で、本道がこのように川沿いだと、山際の寺社群は出城としてあまり機能しないのではないか?と疑われます。
つまり、
「物流のためにもっとも平坦地を要求する商人町に平坦地が最優先であてがわれ、もっとも平坦地を必要としない寺社が起伏の激しい場所をあてがわれただけなのでは?」
という話。
頼久寺など備中松山寺社群の立派な石垣はまったく見事に城郭の石垣そっくりなので、出城に見えてしまいます。私も出城だと思いました。
しかし、単に急斜面において敷地を確保するために――つまり平山城と同じ理由で――石垣に頼っただけなのかもしれないのです。
「可能性」とか「かもしれない」を連発してるのは、このテーマに関しては、まだ証拠固めが不十分だからですが。
ともあれ、城下町の周辺に配された寺社を問答無用で防衛施設と見なすのには問題がありそうです。

岡山

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山陽道が大きくクランクしてるように見えますが交差点はノーマルな十字路。渡河地点と碁盤目都市のかねあいで行政上の公道をこのように設定しただけかと。

広島

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正保城絵図の本道を可視化。広島。東側に大きなクランク。街道が上~中級家臣宅エリアを通るのを福島時代に改めたものです。迷路化や屈曲を使った戦闘が目的ではないでしょう。侍と商人、お互いの利便のためです。
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上級~中級家臣たちは街道を行きかう庶民に静かな生活環境を破壊されたくなかったでしょうし、街道を行きかう行商人も、虎口を通過するのにいちいち身元チェックを受けて時間を費やしたくなかったでしょうから。
毛利時代の推定ルートとて屈曲があるのは変わりません。というか毛利時代のは_| ̄|_の形に屈曲するため、_| ̄の福島時代の方が、むしろ道が良いです。

松江

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正保城絵図の本道を可視化。松江。特に白潟に道の折れが見られます。しかし戦争になればどうせ橋は撤去されるのだから、攻め手は水軍を使うでしょう。宍道湖対岸から水軍でアタックするなら白潟の折れは問題になりません。
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白潟付近の折れは本編で述べた通り、すでに繁栄していた水運拠点・白潟に堀尾氏がすり寄った手前、商業地の用地買収や区画整理が困難だったためと考えられます。
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意外だったのは、松江こそ正保時点では街道の終着点、道のどんづまり、袋のごとき都市だったところですね。
なんと、ここから西への幹線が描かれてません。西へ向かう道は3本ありますが、いずれも本道扱いではないのです。
白潟は水運の拠点でありますから、出雲方面へは船で行くのが普通で、しかし松江藩は正保城絵図に航路を描かなかった……というあたりではないかと思います。さすがに諸人往来なくってこたァ、ないでしょう。
しかし、浜田藩あたりも江戸に向かう際は、津和野経由で広島に出て山陽道や瀬戸内海を使った方が早いのであって、松江以西の山陰道の需要が低かったのも事実です。

徳島

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正保城絵図の本道を可視化。徳島。こういう地形ですから、道の多少の屈曲は避けえません。やはり「城下地形に由テ自由ナラズ」が最大の理由なのです。むしろ、こういう地形にしては努力してると言えます。

大洲

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正保城絵図の本道を可視化。大洲。小さい城下ですが二本の直線平行道を「本道」と主張し、心意気は大都市にひけをとらず。肱川水運の拠点ですが、西や東への分岐は「本道」扱いではない、一往還上の城下町でした。

高知

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正保城絵図の本道を可視化。高知。阿波街道と伊予街道がつながってません。作図ミス?どうなんだろ?どうも山陽山陰・四国・九州など西国の正保城絵図は幕府の作図指示を守ってないというか、誤解してる節が多く見られます。標準語のない世界ですから、細かい部分で意思疎通が難しかったのかもしれません。
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西の町人町にクランクがあります。三角州の始まる敷地の狭い所では鏡川左岸の自然堤防寄りを本道とし、広まったら町の中央を本道としたと見るのが自然な解釈ではないでしょうか。設定上の本道がクランクしているだけであって、町人町自体は精緻な碁盤目なのです。
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阿波街道の方は渡河地点や中堀に食い違い虎口を設けていません。正保城絵図を信じる限り、食い違いどころか門すらありません。阿波街道の方で食い違いと門が現れるのは追手門に至ってようやく、なのです。
伊予街道の方は中堀に大きめの食い違いと枡形がありますが、屋根のある門は描かれておりません。驚くべきことに外郭の土塁には門どころか、土塁に開口部がありません。よほど洪水被害に悩んだのだと思われます。

唐津

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正保城絵図の本道を可視化。唐津。ここも正保城絵図の作図ルールを誤解してる疑惑が。
豪農の家からの道すら本道だと言ってます。
どうも主郭の外の侍屋敷(上級家臣宅)、寺社、庄屋(名主)の周辺の道も、ぜんぶ本道扱いにしたと推測されます。
ともあれ迷路と言うほどの城下街路ではありません。
中央下に袋小路がゴチャゴチャあります。侍屋敷や寺社の多いエリアですが、迷わせるのを目的とした袋小路ではないでしょう。
東から来る敵は都市に入る前、右手前方に唐津城天守が見えていたと思われます。都市には行ったあと左折する理由がありません。よほどの方向オンチでない限り、そんなトンチンカンはしませんし、軍隊というものは単独行動はしないものです。
西や南からの敵に対しては、街路はなんら進行を阻んでいません。

大分

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正保城絵図の本道を可視化。府内城。碁盤目型で迷いようがない城下。東南の外郭虎口の折れが目立ちますが、防衛ラインの上の屈曲は筆者も否定していません。筆者の研究は町人町などの街路を防衛目的で屈曲させたか?です。

臼杵

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正保城絵図の本道を可視化。臼杵。そもそも平地の少ないリアス式海岸の土地なので。元からあった街道に沿って自然に出来上がった街路と見るのが普通かと。

八代

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正保城絵図の本道を可視化。八代。意外に折れがあります。しかしこの道は本家のある熊本からの道。防衛のための屈曲とは考えられません。本道扱いになってない薩摩からの道(南)は外郭虎口から大手門まで折れがまったくありません。
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正保城絵図の作図ルールでは他国へ通じる道は本道として書かねばならないはずですが……幕府から怒られなかったのか、ちょと心配ですね>八代藩

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ここまで正保城絵図。以下は正保城絵図以外の城下絵図を検証していきます。
正保城絵図は目抜き通りを明確に示すという幕府の指示がありました(守ってない藩もあり)。
しかし、その他の地図では、目抜き通りが明示されてない場合の方が多いので、その場合は
* 道幅を広く描かれている
* 他国へ通じる道から大手まで
* なるだけ侍町を避け、町人町、特に連雀町を通っている
という点にもとづき推定幹線を引きました。この推定は簡易的なもので、徹底した史料調査に基づくものではありません。ご了承ください。
なお、地図に目抜き通りが明示されている場合は、それに従っています。

犬山

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犬山城。正保城絵図ではないので、本道と脇道の書き分けはありませんが、ともあれ大手から外郭虎口まで一直線です。原図を1740年に写したものの更に1871年に写したものだそうで、原図は江戸時代前期でしょうか。

兵庫

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摂州八部郡福原庄兵庫津絵図の推定幹線。郊外に松並木がある街道と道幅から幹線を推定しました。やはり、東西交通を妨げる迷路化は見られません。道の直進性を阻んでいるのは湿地や汽水湖であって、地形が原因です。

久留米

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日本古城絵図-筑後久留米城図。本道の書き分けはないので、商店街の中心線を本道と推定しました。迷路と言うほどの状態ではないですし、敵は都市戦を避け、東の浅田から、あるいは西の筑後川対岸からのアタックも選べます。

熊本

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日本古城絵図-熊本城。白線は簡易的な推定幹線です。
西南戦争の焼失原因は自焼で固まりつつあり、議論は「なぜ自焼を隠蔽したか」に移ってるようです。
ともあれ谷干城は籠城に際し城下街路での戦闘など考えませんでした。
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ちょっと不思議なのは、北側に大堀切が無いんですよね、熊本城。
北から南に延びる丘陵台地の先端にある城なので、北からの進軍を防ぎ難いのが熊本城の弱点です。
ならば、堀切で丘陵を分断するのが定石だと思うのですが、それをしていない。なかなか謎です。
謎だなあ、と思うだけで、特に推論はありません。
現在、通称「わが輩通り」が堀切のように通っていますが、これは大正期に作られた道路です。

中津

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日本古城絵図-中津。白線は簡易的な推定幹線です。ここも迷うような街路ではありません。いちおう大手まで白線を引きましたが北西からのルートは渡河したらすぐ城の搦手です。
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また、中津城は小倉藩との国境すぐそばの境目の城になってしまった城です。
江戸前期、中津藩が小倉藩の支藩だったころはよかったでしょうが、江戸中期に奥平氏が転封され小倉藩の支藩ではなくなったのちは、居城としてモヤモヤのある立地だったのではないでしょうか。
このへん、荻生徂徠の述べた
「仮に城主に好みの縄張りがあろうとも、公儀に与えられた城の場合、どうにもならない」
と実例と言えそうです。

鳥取

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日本古城絵図-鳥取。白線は簡易的な推定幹線です。拡張された南側は碁盤目な町人町。旧袋川の河道が残る地形に難のあるエリアに侍町。鳥取でも、平坦で物流の都合が良い場所に優先して商業地を割り当てているのです。
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この、新しい町人町はそれまで深田だった場所で、つまりは湿地です。決して、元から良い地形とは言えませんが、湿地というものは埋め立てて干拓地になれば、平坦な土地になります。
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旧袋川の河道が残る侍町は、ちょっと大変です。河川の侵食や自然堤防による高低差があるためです。
ここに侍町を割り当てたのは地形を防衛に利用するためでしょうか?
そうとは考えられません。『因幡民談記』によれば
「これを埋めようと多くの人がやっきになった。しかしかつての河底は深く、沼と化した場所に土石を入れて埋めようとしても足りず、最後には木材なども投げ入れたほどだった」
とあるからです。旧袋川の作り出した地形を防衛のために使うつもりがあったとすれば、藩は埋め立てを禁止したはずです。そうではなかったのですから、侍町ですら必要に応じた交通便利が志向されたということです。
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つまりはやはり、防衛は城地の仕事であり、城下は市(イチ/商業)と生活のためにあるという、役割分担が鳥取でもはっきりしていたのです。
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さて、地図では城の濠の前が幅広道になっています。『因幡民談記』に記された、日置忠俊が自慢していた(と伝わる)桜の馬場が確認できます。
単に濠の前の道幅を拡張するのが、どうしてそのような自慢するほどの工夫なのでしょうか?
これは本編第五章(有料部分)をお読みいただくと、お察しいただけるかと思います。

名古屋

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日本古城絵図-名古屋。白線は簡易的な推定幹線です。
意外にも精密な正方形グリッドは商人町だけで、東の侍町や南の足軽町には方格設計に乱れが見えます。
正方形グリッドと短冊グリッドの併用は決してめずらしくありません。秀吉が町割を直したあとの京都でも、短冊形エリアが多く存在しました。
商業地は物流のために密な街路が必要だけど、侍町や足軽町はそうではない、ということでしょう。
鳥取でも、もともと町人町だったエリアを侍町に変更したとき、小路を減らしています。これは人口過多に対する適切な形態なのです。
しかし、方格設計まで乱れているのは、どうしたことでしょうか?侍町、足軽町が城を囲むように伸びているので、防衛のための街路屈曲という可能性もありそうに見えます。が、やはり、そうではありませんでした。

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地形図と比較すると、名古屋城下における侍町・足軽町の街路の乱れは地形と強い相関がありました。
望んで街路を複雑化させたのではなく、地形のために方格設計ができなかったと見なければなりません。
ブルドーザーもショベルカーも無い時代なのです。
名古屋でも
①城にもっとも近い平坦地を三の丸とし、上級家臣宅エリアにした
②次に物流に都合の良い南の平坦地を優先的に商人町とした
③東の起伏が激しいが城に近いエリアを中級~下級武士宅エリアとした。武士は平坦地を商・農・工ほど必要としない
④商人町の南、城からも遠く、標高が下がり氾濫リスクもあるエリアを足軽町とした
という、他の多くの城下と同様な、商業の発展を優先した都市計画がうかがえるのです。
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敵も大都市・名古屋を攻めるとなれば、平坦な場所を選んで進軍しなければ渋滞が発生します。
起伏のはげしい東側からの進軍を選ぶ、積極的な理由を見出すのは難しいと思います。
であるならば、東側に武士が集住し街路が複雑である理由を防衛に求めるのは、筋の悪い考え方です。
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実際、私もレンタルサイクルでこの東側のエリアを走りましたが(外堀跡を見るため)、なかなか苦労させられた記憶があります。
起伏と言っても、電チャリならそこまで大変な起伏ではないんですけどね。比高10~15mくらいでしょうか。

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目抜き通りではないですが、日本古城絵図-名古屋から。城下に逆卍街路。偶然と思いますが呪術の可能性もゼロではないでしょう。つまりは「これだけではわからない、保留」なんですが、こういうのを「陰陽道を用いた防衛のため」と決めつけちゃうのが、初心者向けの城郭研究本なんですよね……
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結局、なんでもかんでも
「防衛のためである!」
と言いきっちゃえば、それがライトユーザーにウケてお金になるという城郭研究者の収益構造の問題でもあると思うのですが。

吉田(豊橋)

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日本古城絵図-吉田城、つまり豊橋。白線は地図に示された通町(目抜き通り)です。西に大きな屈曲がありますが、家屋は無く、地図が描かれてた時点では郊外だったと思われます。都市街路を用いた防衛目的とは考えられません。
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この屈曲の理由はいろいろ推測できます。
単純に考えれば、城に沿いたい御用商人の連雀町と、自然堤防の上を進みたい広域街道の齟齬を、両者の中間で解消したのでは?というやつ。
あくまで防衛のためと考えると、渡河直後に迎えつつ折れ付きの場所を用意したという線もあるかもしれません。郊外の折れ付きの場所で敵を迎え撃て、という指南は江戸の軍学書にありました。
しかし個人的には、この西側のエリアも将来的には都市化すると推測した藩が、自然発生的な街路になってしまわないよう先んじて碁盤目の基準となる幹線道路を引いた、都市計画の賜物ではないかと思います。

田中(藤枝)

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日本古城絵図-田中城、白線は東海道と推定登城道。円形の縄張の田中城ですが、城下は円形町割ではありません。迷路的ではありませんが折れは目立ちます。しかし敵は田畑へ迂回しても良く、折れの有用性は疑問です。
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東海道(北-南西)から来た敵が、都市戦を選ぶか、近い方の北側の深田を進むか、いったん南へ回り込んで浅田を進むか。なかなか悩ましい選択ですが、悩みが多いのは守る方とて同じです。なにしろ(中~下級と思われる)侍町・足軽町は東海道とは逆の、東南東に形成されているのです。
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つまり田中城は城の縄張は全方位に備えた設計ですが、城下は特に全方位に備えた設計になっていないのです。そもそも城下での戦闘をそれほど想定していなかったと推測できます。

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日本古城絵図-忍城。白線は簡易的な推定幹線です。日光脇街道(北西および南)と、道幅から熊谷方面への道を幹線と推定しました。
が、天保武蔵国絵図を見ると、北西方面と熊谷方面に広域街道は記されていませんでした。江戸方面(南)に街道があるものの、日光脇街道とちがって分岐は吹上宿ではなく川面村で生じています。
察するに江戸前期~中期にかけての忍城下は中山道からも日光街道からも外れた、陸の孤島のような城下町だったと思われます。
老中の藩とも呼ばれた、軍略上・政治上で重要な藩でありながら、なかなかに奇妙なことです。
三方向の街道をつなげるために、いちおう主郭の外周南側に沿って推定幹線を引きましたが、道幅は狭く、整備されている感じは希薄でした。
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とにかく城下が小さく迷路や屈曲を語るレベルにありません。西と南は一瞬にして主郭に到達します。
北西の道はおおむね直線ですが、忍川を渡る際にカギ型が生じています。
忍川は外郭ラインなので、ここは城下ではなく城地だと突っぱねることもできます。
が、むしろ氾濫平野の中の微高地(扇状地)の尾根筋に広域街道が作られ、渡河地点で屈曲せざるをえなかったと見る方が自然に思えます。
城の北西にようやく小さな町人町があります。ここが日光脇街道における忍宿です。
幕末には足袋の町として忍が商業的に発展していくのも、日光脇街道が整備されたからこそだったのでしょう。
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豊臣の大軍を阻んだ、のぼうの城の湿地は商業にも不適だったようです。山鹿素行の言う「山険阻沢の地は、草業の地に適せず」の実例でしょうか。

松本

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日本古城絵図-松本城。なんとまあ、近づきやすそうな城下ですこと!
食い違いのある虎口には馬出が無く、馬出がある虎口には食い違いがないという点に、興味深さがあります。
これを昔、私は拙著『どっから見ても波瀾万城』で、
「詰めが甘い」
と表現してしまいました。どう考えたって、食い違い虎口と馬出を組み合わせる方が防御力は高いのですから、そうなってないのは城郭設計術が過渡期だったがゆえのことだろう、という解釈です。
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いまは、そうは考えていません。
甲州流軍学を信じるならば、虎口にも使い分けがあったと思われるからです。つまり、
* 防衛に徹する虎口ならば、枡形と食い違い虎口でもよい
* 出撃することも考慮した虎口ならば、馬出を用いる
と。
馬出があるのに、さらに枡形と食い違い虎口を複合させると、やや出撃しにくくなりそうです。松本城が出撃も考慮した虎口において、あえて食い違いを作らなかったというのは、考えられることでしょう。
このように、武士が出撃のことも考慮していたとするならば、防衛のための城下の迷路化という考え方には小首をかしげざるをえません。侵入されにくさは、おおむね反撃しにくさにつながります。
虎口や馬出は敵が入りにくく、自分たちは出やすいための工夫とよく言います。が、口で理想を語るのは簡単でも、現実はなかなかそううまくいかないものです。

高崎

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日本古城絵図-高崎。白線は推定幹線です。ここも迷路要素は希薄です。北側に足軽町が形成されています。これも、物流に都合の良い東側を商業地に当て、残った土地を足軽町に町割したという解釈が妥当でしょう。
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防衛と関係ありませんが、ちょっとおもしろかったのは足軽町の中にタバコ畑がある所ですね。タバコが他の農作物に悪影響があるっていう知識も、ちゃんと新大陸から伝わってたんですねえ。

館林

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日本古城絵図-館林。白線は推定幹線です。ここも、迷路的な城下ではありません。橋が少ないのは防衛のためでしょうが、反面、渋滞が発生します。橋は基本的に交通のボトルネックです。車通勤で毎日、大河川の橋を渡ってる人は実感できるのではないでしょうか。
橋で渋滞が発生するのに、街路まで複雑だと、侍町への生活必需品が満足に届かなくなります。
物流の問題を解消するにはわかりやすい街路を作らねばならないのです。
防衛が重要とはいえ、兵士たちの日々の生活が立ち行かなくなっては、本末転倒ですから。
また、軍事にはたいへんな費用が必要です。交通不便が商業に損失を生じさせるほどになると、長期的には軍事力低下を招きます。

洲本

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日本古城絵図-洲本(上)。白線は推定ではなく地図に明示された目抜き通りです。城下は碁盤目で迷路的ではありません。淡路島という平地の少ない地形の中で、がんばって方格設計都市を作っています。
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が、洲本で着目すべきは周辺です(下)。塩屋、炬口(一)、物部(二)(三)は平坦地ですが碁盤目がありません。城下ではなかったからです。事実は定説と逆で、藩は城下を交通便利にしたのでした。物流を安定させねば都市は成り立たないからです。生活が詰んでは防衛どころではありません。
塩屋村や下物部村に碁盤目がないのは、そこは当時、田畑のひろがる農村であり、碁盤目街路が必要なほどの交通量が無かったからと推測されます。

江戸

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ケンペルの『日本誌』より。18世紀初頭の江戸です。中山道 - 東海道にカギ型は見当たりません(城地である外堀は除く)。外堀より内側ほど――城に近いほど――道が直線的です。迷路的なのは郊外の農村地帯です。
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幕府は江戸城の北東にある神田山を切り崩して埋め立て地を作りました。
防衛上は神田山があった方が有利です。
陰陽道的な意味でも、北北東の上野を鬼門除けにするより、ばっちり北東の神田山を鬼門除けにした方が良かったはずです。
それでも神田山を切り崩したのは、江戸が商業地としての平坦地を必要とし、防衛よりも商業を重視したのだ……という論を本編で展開しました。
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しかし、こうしてケンペル『日本記』の地図を見ると、理由は商業だけではなかったようです。
中山道が神田山を迂回せずに日本橋へ直行できるようにするためでもあったのだろうと思いました。
江戸の人口は17世紀初頭に15万人と推定され、大坂・京に次ぐ規模でした。政治が安定し、大坂を超える大都市になるのは予想できたのでしょう。
大きな人口を抱える都市は、物流のストップが弱点になるのです。四方を山に囲まれた防衛に強かったはずの京都。その京都の都市民は室町時代に、外敵に物流を止められては苦しむことになりました。
コロナ禍で生活必需品の供給不足を経験した東京都民として、よくわかるところです。都市はまず生活インフラありきであって、生きていけなきゃ防衛だって成り立たないのです。
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ところで甲州街道が幅広道になっておらず、他の一般道と同レベルの道幅なのが興味深いと思いました。18世紀初頭には甲州街道の宿場は整備されていたはずですが、地図では日本橋から内堀沿いに四谷までの道のりと、内藤新宿から西の部分に幅広道が見つけられません。

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……というわけで、51枚すなわち51都市、迷路的ではなくすんなり大手まで近づける城下ばかりでした。
これは、ある程度、恣意的に選んでいます。幹線の推定が難しかった城下絵図は避けました。この点で筆者は情報を印象操作したと言って過言ではありません。
しかしそれは、これだけ迷路的ではない城下がありながら、過去の城郭研究者が「大名は城下を迷路化した」と言い張り、不都合な城下絵図に目をつぶってきたことの裏返しでもあります。

なお、この補説を(電子書籍化としてリリースした)本編に追加する予定はありません。基本的には本編の宣伝のためのつぶやきであり、構成を考慮しておらず、証拠固めや論理の展開も本編ほど綿密には行っていないためです。

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