54201_ロンドィニウム

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(22) 第5章 5.4.~5.4.2. 中世の方格設計都市①

## 5.4. 中世:ローマ植民都市と中国都城制

### 5.4.1. 方格設計都市の受容と変遷

ギリシアと中原(ちゅうげん)。ふたつの地域で、方格設計都市が、ついに規格化されました。テンプレとして成立しました。

これが、もっとも欠点の少ない都市設計術であったなら、いまごろ世界の都市はすべて、碁盤目で整形されていたことでしょう。それが古代中国人の望みでした。

が、21世紀の現在、世界はそうなっていないようです。なるほど大都市、それも近代以降の都市計画では方格設計が採用され、それがうまくいっている都市が多いようです。

一方で、中世ヨーロッパを代表する都市――ロンドン・ウィーン・アレクサンドリア・イスタンブル・トリアーなどは、現代の地図を見ると、それほど強い方格設計が見られません。

これらの都市では、鉤型路や曲線路、複雑交差点が入り組んだ街づくりとなっています。これらの町は、長い中世のあいだに都市を方格設計で作り直そうとしなかったのでしょうか。

いえいえ。実はいま挙げた都市は建設当初、方格設計で作られた都市だったのです。選ばなかったのではなく、捨ててきたとさえ言えま――いや、それはさすがに言いすぎですね。まあ、維持に苦労した都市だったのです。中世ヨーロッパ都市は方格設計を維持できなかった都市が多かったのでした。

中国都城制を真似した日本でも、奈良は遷都(せんと)の後に田畑へ還りました。京都は右京が衰退し、秀吉の時代に大改修が必要なほど街路の秩序が失われていました。

方格設計都市は建設のハードルも高いのですが、維持のハードルも高かったのです。

ここからは、ローマ植民都市と中国の都城制、この二者がいかに広域に普及していったかを見ていきます。都市によっては、どのように方格設計が崩れていったかまでも含めて。

なお、一般的な歴史区分として西ローマ滅亡までと後漢の滅亡までは古代になりますが、本項ではその後の変遷に重きを置くため、タイトルに「中世」の語を用いました。

### 5.4.2. ローマ植民都市

ローマ。なにが幸いしたのかわかりませんが、ギリシアの編み出した良い面を上手に吸収してトントン拍子に大帝国を築いて、けっこう長いこと続いた帝国です。

広い帝国を統治するためにローマ街道を敷きまくったことでも有名です。この街道が四輪荷車を有効に使うための道であったことは、ここまで読んだ皆さんには説明するまでもないでしょう。

ローマはなにかにつけてギリシアをお手本にしましたから、方格設計都市も上手に取り込みました。ローマならではの工夫としては、ギリシア式では町の中心または港のそばに一ヶ所とした広場(アゴラ)を分散させた点があります。ローマは機能ごとに広場(フォルム)を分散させ、その軸線を中心とした方格設計を行いました。

都市としてのローマ自身は帝国になる前からある古い町であり、方格設計ではありませんでした。のちにちょくちょく都市改造が行われますが、それはまだ先のお話。

しかし、新たに建設する駐屯地や支配下においた植民都市には、積極的に方格設計を用いました。

植民都市というくらいです。ローマ市民を300人ほど送り込みます。くさってもローマ市民。辺境の地でも本国に近い環境を整えてやらなきゃァいけません。

どの都市にもスタバとセブンはなくっちゃね、みたいなもんです。多くのローマ植民都市が城壁(市壁)と舗装された直交街路を備えることになったのでした。

そんな風に、ヨーロッパの大半とトルコ、エジプト、北アフリカまで方格設計の植民都市を作りまくったローマでしたが、おごれる者は久しからず。有為転変は世の習い。盛者必衰諸行無常。ローマ帝国は衰退し東西に分裂し、それすらも滅びたのです。万物は流転する。さすがギリシア先輩、大正解ッス! でも手遅れッスー(泣)。

ローマが滅びたのち、植民都市も滅びたのなら、運命共同体として不思議はありません。ティムガッド(アルジェリア)では、都市が打ち捨てられたあと砂に埋もれ、現代に当時のローマ植民都市を伝える遺構となりました。方形で等間隔に街路の敷かれた見事な方格設計都市が残されています。

問題は、ローマ帝国消滅後にも人が住み続けた都市です。それらの都市には、なぜか中世に方格設計が失われる傾向が強く現れました。

この事実は、住民の生活にとって方格設計がベストではなかったことを示しています。いったい、何が問題だったのでしょうか。

まずは、かろうじて原形をとどめていた都市からいきましょう。

■ ロンドン

近代には世界三大都市のひとつ、あのロンドンです。こんなところまでローマ帝国もご苦労様です。紀元前43年頃に、ローマ式の大きな開拓地が作られたとされています。

ローマが支配していた頃は人口が6万人にも及びましたが、ローマ人の去った紀元後(CE)400年頃には1万人程度に減りました。その後、都市の人口は順調に復活し、1300年頃には十万人都市となりました。

では、その400年のロンディニウム(当時の名称)と1300年のロンドンにおける街路変化を見てみましょう。

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