中世ヨーロッパ異端審問会 近世ヨーロッパとの混同者を審問する
はじめに
中世ヨーロッパ異端審問会は中世ヨーロッパ警察を異端審問し処刑するために存在する。嘘だけど。小説のネタにでもしようかな。中世ヨーロッパ警察って近世ヨーロッパの話ばかりするもの。中世ヨーロッパにやられていたとされている拷問の大半は近世ヨーロッパに行われたものか19世紀に捏造されたものとされている。中世ヨーロッパだと牢屋に放置するだけでも十分拷問だ。そもそも19世紀末にもっとも合理的な拷問は李氏朝鮮で行われていた。
拷問など紐と木の棒だけで十分可能なのだ。高価な金属を大量に使ってアイアンメイデンを作るのは趣味人か暇人にすぎない。何が悲しくて無駄金使って高価な拷問器具を作る必要がある。市参事会につるし上げ食らうぞ。拷問部屋などはドイツ人近世ヨーロッパ貴族の趣味全開だし、中世の拷問に関しては、ドミニコ会の修道士の性癖をしらべる方が早そうなどと考えてしまう。
訓練されていない農民相手ならこの程度で陥落する。実際のところ異端審問において拷問は制限されており、最終手段だった。しかも一回に限られた。ベルナルド・ギーの法的根拠に基づく異端審問においては拷問による自白どころか誘導尋問によるものもは正当性が認められないためである。無論これらのルールが出来たのはドミニカ会やフランチェスコ会の修道士が無許可で私腹を肥やすのに異端審問を利用していたからだが。
しかし近世ヨーロッパのスペインではその原則は無視され拷問が多用されていた——と言っても実は全体の1%ぐらいらしく、ネーデルラントがスペインは畜生だと話を盛りまくっていたと言う話が出てきた。
特殊な拷問道具は基本要らない。要るのは木馬ぐらいだ。
(以下、文字数削減の為に削除された)
なお、本稿の参考文献は書いているうちに大半を忘れてしまった。
アリストテレス哲学と現代哲学
なお本稿ではアリストテレスの言うところの哲学、つまり知を愛する学問と現代呼ばれるところの人文知の哲学を区別するために現代呼ばれるところの哲学(本稿では新プラトン主義を差す事が多い。プラトンも幾何学が分からないと理解できないけど)に()を付けて区別することにする。アリストテレスの第一哲学は形而上学(ta meta ta physika)と訳されるもので、第二哲学は自然学(ta physika)である。しかし形而上学は直訳すれば「自然学の後」である。しかし書かれている内容が突拍子もないで、metaの意味の方が変わってしまい、超越するとかという意味になっている。なお、日本語訳の『形而上』は易経から取ったモノだから事実を正しく現していない気がする。そう言う時は調べれば良いのだ。
易経と読んでいると言って居るが、正確に出てくる文献はは《周易》繫辭上である。繫辭は孔子が書いたと言われているが嘘くさい。
「形より上の物は道を言う、形より下の物は器を言う」これはオブジェクト指向の話だ。形而上はクラスで、形而下はインスタンス。冗談はさておき、実はこの文を読むのが、ものすごく難しい。みんな勝手な注釈付けまくるから。そもそも肝心な道と器の定義がなされていない。取りあえず、解釈の一つにしたがうと「見えないもの道と言い、見えるものを器と言う。見えないものとは陰陽を指し、見える物とは宇宙を指す。宇宙の万物は陰陽で構成されている。この法則を道といい。陰陽の交差により現れた宇宙を器と言う……」
これ書いた人そこまで考えて無いよ。易経って占いの本だよ。多分、もっともらしい事書いただけだよ。占いは、神秘的な言い回しした方が御利益あるから。
「卦を立てることを道と言い、立てた結果を器と言う。筮竹を裁くことを変と言う、推論し読みとることを通と言う、天下の民のために選びとる。これを事業と言う」
こっちの方が正しい気がする。これだと卦の立て方を言い換えているだけだな。
結局の所「形而上学」より「メタ自然学」としたほうが良さそう。なお「自然学」と訳しているPhysikaは現代では物理学を指すので、メタ物理学、物理法則を決定する設計図を探す学問。理論物理学ってやつかな。つまりアリストテレス哲学とは古代物理学だ(極論)
実際の『形而上学』はプラトンがどうのこうのがピタゴラスがどうのこうのとか数学の扱いとか白馬非馬とか物理学論とかについて書いてある本だけど(理解させる気が無い)中世ヨーロッパと近世ヨーロッパを論じる上でののリストテレス哲学は、アリストテレスのお気持ちより、この本を手にした神学者達が「形而上学」をどう解釈したかの方が重要になる。お気持ちを考えるのは国語教師だけで十分。
時代定義
中世ヨーロッパとは
ここでは古代ローマ文化圏かつカソリックでローマが滅んだ地域のことを中世ヨーロッパと定義する。つまり異教圏の北欧、東欧、非ローマ圏のアイルランドは含まない。中世ヨーロッパ雑語り雑語りで中世ヨーロッパに北欧入っていないと言う雑語りがあったが、北欧は異教徒圏かつ非ローマ帝国なので中世ヨーロッパと言う定義がそもそも成立しない。ヴァイキングは中世ヨーロッパにおける異教徒の侵略者の一つとして登場する。つまりイスラムやモンゴルと同じ存在に過ぎない。しかしながら北欧の上級国民がイングランド国王だったり、フランス貴族だったり、デンマーク王がバルト海交易の邪魔をしたりするので中世ヨーロッパ史に名前が出てこざる終えないが、そもそも中世ヨーロッパはスカンジナビアに存在しない。この点は、デンマーク語とノルウェー語とスウェーデン語のサイトで確認してきた(中世雑語り警察対策)。スカンジナビアの場合、中世ヨーロッパに相当する時代は、ゲルマン鉄器時代、バイキング時代(ここまで先史時代)、中世スカンジナビア(ルターが区切り)と言う区分になるため、北欧に於ける中世は1000/1050-1020/1536年になる。要するに北欧の中世はヨーロッパより日本に近い。
デンマークでは1000年から1536年までを中世とし、スウェーデンにおいては、ヴァイキング時代の終わり(1050)からカルマル同盟の崩壊(1520)までを中世と定義している。由々しき歴史認識問題である。
つまり雑に中世ヨーロッパと言った場合、特記しない限り北欧は入らないと言う話。
ところでバルカン半島ではどうなのかと言うことでブルガリアのサイトを調べたらСредновековие(中世)は681年(第一次ブルガリア帝国)から1396年(オスマン朝の征服)までらしい。中世が肯定的な意味になる。ルーマニアはローマのダキア放棄270年からオスマン朝の宗主下に入るまでが中世になるらしい。国ごとに違いすぎて使いものにならない。
さらにイスラム圏に入っていたイベリア半島と南イタリアも除外し、東ローマ帝国も含まない。ただし自らローマを自称していた気が触れた蛮族はここは含める必要がある。ドイツを入れないと中世ヨーロッパは成立しない。そうするとこの気の触れた帝国に含まれていたボヘミア(チェコ)や騎士団領が食い込んでいたポーランド、バルト三国あたりまでは中世ヨーロッパにはいるだろう。ダルマチア(バルカン半島の西岸、ヴェネツィア領だったりする場所)も入るか(ダルマチアは概ね忘れ去られるけど)さらにローマ帝国の領土のうち、属州アフリカ(今のチュニジアあたり)などはアフリカで、属州アジア(今のトルコ西部)などはアジアであり、ヨーロッパではないので除外される(十字軍の所為で属州シリア・パレスティナが紛れ混むけど)
なぜそうなるかと言えば、暗黒時代と言う定義が先にあり、暗黒時代を中世と位置づけたからである。暗黒時代と言う定義は14世紀のペトラルカ(1304 - 1374)により行われている。ペトラルカはローマが失われた現代をさして、暗黒時代と呼んだ。ペトラルカよれば14世紀は暗黒時代なのだ。そしてローマが失われる前とは別の時代になる。つまりローマが失われて復活する(ルネサンス)までが暗黒時代と言うことになる。これを逆説的に言うと中世はローマ帝国の滅亡から(ローマが復活し)ルネサンスが始まる前までと定義できる。要するにルネサンスよりの後の16-17世紀は中世にならない。こいつらは全員蓑踊りで。いや蓑踊りすら生ぬるいので凌遅か炮烙かな。
しかし、そこにローマ(光)がなければローマ(光)は滅び様が無いので中世ヨーロッパ(暗黒)も存在しない。東ローマ帝国においてはローマは滅んでいない。中世ヨーロッパと言うのはローマ(光)が滅んだ後の世界を指しているのだから。これら以外の地域ではそもそもとして中世ヨーロッパ自体の定義自体が成立しない。そこに滅びるべき光が、そもそも存在しない。ずっと黎明なのである。中世ヨーロッパが、自然にイングランド、フランス、北イタリアとその周辺地域及びローマを自称するドイツ人の帝国一帯のみを扱う事になるのはその関係もあるだろう。
近世ヨーロッパの始まり
中世ヨーロッパは暗黒時代と定義したアリストテレスが理解出来なかった拗らせ老人の所為で、中世ヨーロッパは暗黒時代と言われるのだが、では近世ヨーロッパの始まりはどう定義するのだろうか?それにおいて(イスラム勢力による)東ローマ帝国の滅亡は、動かせないファクターである。
取りあえず近世ヨーロッパの始まりの定義を確認すると
定義になっていない。英語のサイトを読んでも結果しか書いてない。これじゃあ勘違いするわけだ。歴史教師は全員異端として火刑が適当だろう。どうも西ヨーロッパの近代化がイスラムと東ローマのおかげと認められない勢力が要る所為らしい。だから歴史修正を行いその恩恵をぼやかすしかない。
結局のルネサンスが近世ヨーロッパの始まりになる。しかしルネサンスはローマ(光)が復活したことを意味する歴史用語で完全に後付けだ。そこでこんどは近世ヨーロッパを定義するために16世紀のルネサンスとは何者だったかを確認することにする。なお近世ヨーロッパの終わりはフランス革命になることが多い。
――と書いてあるが実際のところは古代ギリシアの方がメインになる。ルネサンスで復活したのはローマでなくギリシアだった。それでは、最初に東ローマ帝国の滅亡の結果、何が起きたか確認することにする。
ポイントは、東ローマ帝国内から古代ローマ・古代ギリシアの専門家と文献が大量に西欧に流れたことである。ここでは、文献より専門家の亡命のウェイトの方が高い。西欧にはイスラム圏から古代ギリシアの文献が少なからず入ってきていた。8世紀頃から近世初期までアラブ人がイベリア半島やシチリアに住んでおり学術書や技術がここから流れてきていたのだ。しかし、それらをまだ完全に理解出来ていなかったように思える。13-14世紀はイタリア商人は中国まで到達していた。しかし木版印刷が入ってくるのは14-15世紀前半頃だ。また、ヴェネツィアがコンスタンチノープルを占領したとき(ラテン帝国)は東ローマの知識人はアナトリアやバルカン半島各地に逃げてしまって西ヨーロッパに入ってきたものは多くない。しかし1453年は四方をオスマン朝に囲まれているので状況が違う。彼らは西ヨーロッパに逃げるしかなかった。彼らの多くはフィレンツェにやってきて、ルネサンスはフィレンツェから始まるのである。
つまり人文主義者ペトラルカの定義する暗黒時代終了を意味するローマの復活が、フィレンツェ公会議、東ローマ帝国の滅亡、コシモ・デ・メディチのプラトン・アカデミーの創立でそこに人文主義者が集うまでの流れで定義されるので、結果的に東ローマ帝国の滅亡が中世の終わりになるのである。
復活したのはローマではなくギリシアではないか。人文主義者ってアホの集まりかと言うツッコミは置いといて、これで中世と近世の境は明確に定義出来る。
それはともかく中世ヨーロッパと近世ヨーロッパの何が違うか、中世と近世の変化に必要な条件をいくつか並べてみた(抜け落ちが多そう)
通貨経済の浸透(10-12世紀) → 農奴制の崩壊
イスラムからの先進技術の流入(10-12世紀)
アリストテレス哲学と神学の融合(12-14世紀) → 宗教改革
機械工学と金属工学の発展 → グーテンベルク印刷機(最重要)
自国語での読み書き(11世紀頃)
人間中心主義の登場(13-14世紀)
教会の権威の凋落(12世紀から)
この条件は12-13世紀にはまだ満たされていなかった。前提条件は工学が最重要な条件になるが、とりあえず12世紀から始まる12世紀ルネサンスに関して追いかけてみよう。概ね中世から近世の流れに関しては説明出来る(ほとんどアリストテレスの話だけど)
12世紀ルネサンス
イベリア半島とシチリアのアラブ人から古代ギリシアの文献が入ってきた結果起きるのが12世紀ルネサンスである。12世紀ルネサンスは中世後期に起こり近世との端境期に相当する。この時代を持って中世が終わると定義する学者もいるようだが筆者はその説を取らない。神学における12-13世紀の動きは、聖職者が肥え太った豚になってしまい集金活動にいそしみ宗教活動をしていない事に起因している。そして肥え太った豚たちに対する下からの改革運動の流れを汲んでいるだけであり、世界感の回転には当たらない。どちらかと言うとカタリ派などの異端を生んだ流れにある。カタリ派はグノーシス主義の側面が強く、むしろ神秘主義的である。
ペトラルカの定義はともかく、中世と近世ではそもそも世界感そのものが違っている。中世の世界観は近世とはまるで違うものだった。それゆえ現代から中世神学をみると五十歩百歩の論争を延々と繰り返しているようにしか見えないが、彼らは大真面目なのだ。
上記のような中世の世界観が人間中心に変わるのが、12世紀ルネサンスになる。その結果、人間中心主義、人文主義(ヒューマニズム)が登場する。
そして14世紀の著名な人文主義者にイタリアのペトラルカが居る。このペトラルカこそ中世を暗黒時代に仕立てあげた犯人なのは先程書いたたとおりである。ペトラルカが中世を定義づけたから14世紀はまだ中世なのである(何その屁理屈)。そしてルネサンス期に三区分法によりルネサンス以前が中世に定義されることになる。
ヒューマニズムは人間を研究する学問だから実は神学とは対立関係にある。神学の本質は神を研究する学問だからである。つまり学問から神を取り除かないといけない。唯一神教における神とは絶対法則を差すから自然科学を差すのだ。古代ギリシアに起因する人間主義から人文科学が生まれるが神学からは産まれない。
ここで最大の問題は、異教徒の学問であるアリストテレスとキリスト教をどのように折衷させるかと言うことになる。異端を異端として排除してはいけないのだ。しかし、中世末期の実態は肥え太った豚たちによる異端審問に明け暮れていた。この異端審問は14世紀から15世紀の間は小康状態になっている。ちょうど中世と近世の端境期にあたる。ドミニコ会がやり過ぎた反動だろうか。しかし、16世紀に入ると再び異端審問と魔女狩りが横行する。
ちなみに神学とアリストテレスの融合は何度も試みられているがことごとく失敗している。科学と神学の相性が悪いことに起因しているようだ。そしてアリストテレスから逃げ出した敗北者はプラトンに逃避する。この流れは中世に起きたモノでは無く、初期キリスト教から発生している。4世紀の聖アウレリウス・アウグスティヌスは当初マニ教を信じており、そしてアリストテレスに触れた。しかし彼はアリストテレスが理解できなかった。そして新プラトン主義に逃げた。新プラトン主義はキリスト教と相性が良く、新プラトン主義がキリスト教を都合良く説明出来たため彼はキリスト教に改宗した。この古代最後の聖人にしてアリストテレスから逃避したアウグスティヌスの思想はカソリックの源流になった。アウグスティヌスの思想は、近代哲学者に継承されている。例えば数学が分からなくて厨二哲学に逃げたニーチェ。つまりカソリックのベースはプラトンでありアリストテレスではない。しかも人間の内面を重視するプラトンと合理的観察者のアリストテレスは相反する思想の持ち主だったのでカソリックはアリストテレスと相性が悪かった。
ボエティウス
ボエティウス(480-524)は中世初期6世紀のイタリアの人間である。しかしイタリアに於いての真の中世の始まりはランゴバルド族の侵入によるもので、この時代にはまだローマだった。東ゴートの行政官でもあったボエティウスはアリストテレスのラテン語訳を持ち込んだ人物でもあった。そしてカソリック神学とアリストテレスの融合を試みた中世最初の人物でもあった。しかし彼の試みは、東ローマ皇帝のイタリア支配の試みにより途絶えることになる。
そして東ゴートが滅び、ランゴバルドが侵入するとローマからローマが失われここ試みも500年の休眠にはいる。
そして西ヨーロッパに残ったアリストテレスの文献は論理学6冊のうち2冊だけだった。その文献も修道院の片隅で埃をかぶっていた。
ネストリウス
キリスト教には本質的な矛盾が存在した。本来のキリストの教えはユダヤ教の解釈違いであり、ユダヤ教イエス派に過ぎない。しかし、実際に広がったキリスト教と言うのは救世主イエスや聖母マリアを信仰する宗教だった。ここには一神教であるのに人を信仰するキリスト教の本質的な矛盾が存在している。
そのためキリストの存在をどう位置づけるかで論争が繰り広げられていた。これは神学戦争と言うより単なる醜い政治争いの部類である。そしてこの論争に負けた側は異端として追放された。三位一体もその中で生まれた一つである。その実態は、一神教であるのに人を信仰していると言う矛盾を解決するために作られた方便にすぎない。
東ローマのネストリウス(386 –451)もその一人になる。ネストリウスは非論理的な事を嫌っていたようで人に神が宿るとか処女懐妊とかそんな現象が起きるわけがないと主張した。そして神としてのキリストと人としてのキリストを分離しようとした。しかし、ネストリウスは政治的に負けて追放された。これは神学論争ではなくアレクサンドリア学派(プラトン系)とネストリウス率いるアンティオキア学派(アリストテレス系)の政争に過ぎなかった。そして教会は異端に厳しく対処したから信仰を守るために海外から出て行くものが頻出した。異端とされ追放されたネストリウスの弟子達は東へ東へ移動し中国まで到達している。
この結果東ローマでの神学とアリストテレスの融合の可能性は完全に潰える事になる。しかし、東ローマは古い文献を大事に扱ったから東ローマは古代ギリシアを現代に伝える図書館として機能することになる。
キリスト教の不寛容とイスラムの寛容
そもそも東ローマ帝国は教皇皇帝主義を引く独裁国家の性質がある。この様な国では教義の解釈違いを認めない。つまり東ローマは自由に研究できる国ではなかった。したがって、自由な研究を求める神学者は東ローマから脱出していった。その逃亡先はイスラム国家だった。イスラム国家が異教に不寛容になったのは近代に入りヨーロッパから取り入れた原理主義の結果であり、本来は寛容的な宗教であった。ただしイスラム教が提示する条件を認める限りである。なので、為政者の気分で寛容度も左右する。しかし9-11世紀までのイスラムは東ローマよりも自由な研究が可能だった。そのため、アリストテレスと神学の融合はイスラム圏によって試みられる事になる。しかし11世紀には限界に来たようだ。それはアリストテレスと神学の相性が悪いことに起因する。アリストテレスを受け容れると神の存在を否定してしまう。この矛盾を解決できなかったイスラムとユダヤ教は最終的にアリストテレスを受け容れることを拒絶した。そして11世紀頃にはアリストテレス研究も衰退していった。しかし、その時流入してきたアリストテレスの大量の文献はアラビア語に翻訳されたまま残った。アリストテレスを受け容れることを拒絶したが、アリストテレスを焚書することは出来なかった。それほどまでにアリストテレスの書籍が突出していたからだ。そして11世紀、スペインのトレドがレコンキスタによりカスティーリャ王国に支配権が移るとイスラムのアリストテレス文献が大量にもたらされることになる
十分に発達した科学は魔法と変わらない
――と言う言葉がある。トレドにもたらされたアリストテレスの文献はまさに魔術書だった。それほどまでの衝撃をあたえる先進的な書物だったのだ。中世ヨーロッパではアリストテレスは魔術師になってしまった。それによってもたらされる膨大な知識によって。しかし、アリストテレスと神学の相性はすこぶる悪い。したがって、教会もアリストテレスの扱いには慎重にならざる終えなかった。そしてトレドを中心としてアリストテレス研究が行われていったが、実は12世紀に入っても西ヨーロッパにおけるアリストテレス文献はボエティウスが注釈を付けた論理学の本、2冊しかなかったと言われる。
このような時代でもアリストテレスと似たような考えに辿り着いた神学者は存在したようであるが、そもそもアリストテレスの本領は科学大全の方である。哲学()で片付けられる存在ではない。だからこそアリストテレスは魔術師でありアリストテレスの書籍は魔術書なのだ。その魔術書が12世紀のトレドでラテン語に翻訳されはじめていた。
異端審問とアリストテレス禁止令
12世紀は肥え太った豚たる教会に対する反抗運動が多発した時期である。ローマ法王がローマから追放されたり、カタリ派の異端が民衆に広まった。カタリ派はマニ教やグノーシス主義の影響を受けており、そのルーツは東ローマから来たとされているがはっきりとしない。なにしろマニ教もグノーシス主義も5世紀には消滅して居る。このカタリ派に対して教会は手も足も出なかった。清貧なカタリ派の完徳者と豪華な衣装に身を包んだ豚。民衆がどちらを支持するかなど説明する必要はないだろう。さらに弁論ですら負ける有様だった。カタリ派の対策は最終的にその対処は13世紀に入り、十字軍と言う武力行使と異端審問によるごり押しをするしかなった。
しかし、キリスト教は根本的な欠陥を抱えているからどのみちその問題を解決する必要があった。それにはアリストテレスを取り入れる必然性があった。そのためキリスト教神学はアリストテレスの論理学と融合していくことになる。しかし、アリストテレスと神学は相性が悪いのだ。教会に取ってアリストテレスは新たな異端を産み出す劇薬だった。従ってアリストテレス主義者にも異端審問と焚書が繰り返し行われた。
1210年パリのサンス管区では以下のような決議がなされた。
アリストテレスの自然哲学に関する諸書籍と注釈はパリにおいては私的にも公的にも読んではならない。違反者は破門を持って退所する。
また1215年には、ローマ法王の勅命でパリ大学の学芸学部と神学部に禁止令が出ている。
https://core.ac.uk/download/pdf/234015613.pdf
しかし、この禁令はあまり効果がなく、法王庁は方向転換を余儀なくされることとなる。その時代に出てくるのがドミニコ会とサンフランシスコ会になる。
フリードリヒ2世とトマス・アクィナス
フリードリヒ2世(1194-1250)は、中世に生まれた近代人と言われる人物である。神聖ローマ皇帝になるこのシチリア王は、近代的思想の持ち主だったとされる。その理由は当時のシチリアがキリスト教国であると同時にイスラム圏であるためキリスト教とイスラム教が共存していた故に異端に緩い地域だったことと関係がありそうである。フリードリヒ2世時代のシチリア及び南イタリアは異端に対して緩いためアリストテレス研究の緩衝地帯になりえた。
一方アリストテレス禁止令に対する反発が各大学で起きた。パリ大学から大量の人材流出を起こした。その間隙をついて乱入してくるのが異端審問で悪名高いドミニコ会とフランシスコ会である。この修道院はアリストテレスを積極的に利用した。アリストテレスの文献を管理された形で利用出来るようにしたのだ。しかし、そこにはドミニコ会の解釈でという注釈がつく。ドミニコ会により停滞していた神学とアリストテレスの融合は進むことになる。
そのころフリードリヒ2世はナポリ大学を設立し、市井の人材を蒐集していた。
その中はアラビア数字を普及させ、数学を近代化させた数学者フィボナッチ(1170-1250)などがいる。フリードリヒ2世はローマ法王に2度破門されている。その程度の圧力には負けなかった。また、スコットランド出身の数学者にして占星術師のマイケル・スコットを庇護し、アラビア語のアリストテレス文献をラテン語に翻訳させていた。そのナポリ大学は「神学大全」のドミニコ会のトマス・アクィナス(1225-1274)を排出している。そしてトマス・アクィナスによりアリストテレスと神学の融合が完成する。実のところ、科学の黎明は教会の目の届かない南イタリアで密かに進んでいたのだ。トマス・アクィナスの最大の功績は、宗教から科学を分離する方便を発明したことだろう。しかし近代化には未だ至らない。何故なら近代化とはアリストテレスをアリストテレスによって否定することだから。この段階は、アリストテレスと神学を矛盾なく受け入れるのが限界だった。しかし、イスラムやユダヤ教が成し遂げられなかった神学とアリストテレスの融合に成功したのは西ヨーロッパだけだった。
しかし、欧米の文系って近代化における自然科学分野の功績ガン無視するんだろうね。お前らは瀉血でもしてろ。
オッカムの剃刀
14世紀は諸侯の集権化が進み、教会の権威が没落していく時期になる。中世温暖期は終わり人口は停滞し、黒死病により人口動態も大変動を起こす。諸侯は戦費を捻出するため教会の特権を奪い去っていた。教会の持つ破門カードは意味をなさず、フランス王の武力に蹂躙されることになる。1309年、フランス王フィリップ4世は、ローマ法王クレメンス5世をローマから連行しアヴィニョンに閉じ込めた。アヴィニョン虜囚と呼ばれるこの事件は教会の権威の終焉だった。神学論争は空理空論をぶつけ合う虚しい不毛の論争の応酬だった。
フランシスコ会のオッカムのウィリアム(1285-1347)もその不毛の論争に身を投じた一人だった。そのオッカムのウィリアムはトマス・アクィナスの残したアリストテレスと神学の融合に関する最後の課題の解決策を提示する。それが「オッカムの剃刀」と呼ばれるものである。この時代の神学の問題点はアリストテレスの世界観とキリスト教の世界観を両立させようとした結果、混乱を引きおこし論争に無駄な労力を費やしている点だった。オッカムはここに剃刀を振り下ろした。アリストテレスつまり自然の領域は自然の領域で議論すべきものであり、神の神秘は神の領域のものであるからこの2つは分けて考えるべきだとしたのだ。理性と信仰の分離、つまり、科学と宗教を両立させようとするから矛盾が生じるなら単純化して、科学は科学として宗教は宗教として別々に扱うべきだとしたのだ。要するに自然法則を神学的に解釈し直す必要などないという開き直りである。よく考えるとあたりまえの話で、人如きが神の意志を理解出来訳がないのだから自然法則から神の意図など読み取れる訳がない。それはただ神学者が観測できる範囲で矛盾していると思っているだけに過ぎない。だが、啓典の民はこの結論に到達するのに1000年もかかっているのだ。
しかし、教会はオッカムの考えがお気に召さなかった。その理由はペテン師であり肥え太った豚にすぎない教会のメシの種が奪われるからだ。聖書解釈の捏造と疑似科学が飯の種なのに、そこにエビデンスを要求されたのだ。どうであろう?「真実にエビデンスは入らない」などと言いたくなるだろう。要するに中世ヨーロッパの教会は現代で言うところのマスゴミでもあったのである。恐怖や捏造や扇動で愚民を震え上がらせて現金を巻き上げる集金マシーンだ。そのためペテン師であり肥え太った豚達はオッカムを異端審問にかけて火にくべようとした。しかし、14世紀の教会は権威が絶賛凋落中である。そもそもローマ法王はフランス王に引航されてアヴィニョンに閉じ込められていた。一方、神聖ローマ皇帝ルードヴィッヒ4世は自分の傀儡を法王としてローマに擁立していた。要するに当時の法王庁と神聖ローマ皇帝は対立していた。そのためオッカムはルードヴィッヒ4世の本拠地であるバイエルン公国のミュンヘンに逃げ込んだ。
しかし、近世が始まるには未だ遠い。そもそもこの時代の神学者は、なぜアリストテレスを無条件で信じたのだろうか?結局のところイスラム教徒もユダヤ教もキリスト教徒も哲学()ではアリストテレスを否定できなかったから禁書にすることしかできなかったのだ。言い替えるとアリストテレスに触れた啓典の民は1000年以上にわたってアリストテレスに何一つ言い返す事が出来なかったのだ。常に自らの信仰を捨てるかアリストテレスを全て受け容れるかの二択を迫られたのだ。ここで人文学者の誤謬にも気がつくだろうアリストテレスは哲学()では絶対に克服できないのだ。トマス・アクィナスもオッカムも哲学()ではアリストテレスに勝てないから棚上げすると言う結論を出しただけなのだ。
アリストテレスを否定出来るのは科学だけなのである。頭の中で人文知なる空理空論を幾らかき混ぜてもアリストテレスを上回るアイデアなど浮かぶ訳がなかった。これが1000年にわたる袋小路の正体だろう。
地球は平らではない
14世紀にもなると、西ヨーロッパではアリストテレスが猛威を振るっていた。アリストテレスの著作は無条件に正しいと言うレベルで信じられていた可能性がある。だからこそ神学とアリストテレス哲学の矛盾が神学に於いて重要なテーマになったと考えられる。
ところで、アリストテレスの著作は無条件に正しいと言う考えは後の時代にも影響をだしている。例えばアリストテレスが地動説を支持しなかったから地動説は異端とされた。アリストテレスは『天体論』で天動説を支持している。ガリレオが地動説を唱えたとして異端審問にかけられたのは政治的な動機があったとはいえ異端審問にかけられるだけの条件が成立したことを意味する。その理由は「アリストテレスが地動説を支持しなかった」である。そもそも地動説も天動説も聖書に書かれていない。アリストテレスは「地球球体説」も支持している。アリストテレス主義のこの時代において「地球が平ら」と言うのは異端の考えになる。コロンブスが「地球が丸い」と言っておかしいと思う方が異端なのだ。なにしろアリストテレス様が「地球が丸い」と言っているのだから「地球が丸い」方が正統な考えである。こういうデタラメは中世を暗黒時代にすべく後付けで作られたのだろう。
地動説を認めなかった教会は、進化論に関しては何も述べていない。アリストテレスが何も述べていないし進化論が聖書と矛盾していることは問題なかった。これを問題にしたのはカソリックではなく聖書原理主義とも言える福音派である。
ジャン・ビュリダン
ジャン・ビュリダン(1295 - 1358)は中世末期の哲学者で、近世人である。ビュリダンはインペトゥス理論と言う異端な論文を提示した。インペトゥス理論は「投げられた物体が手をはなれてもなお飛び続けるのは、手の運動のインペトゥスが物体に伝えられるからだ」と言うもので、さらに考えを突き進めると「すべての物体は、外から力が加わらない限り、同じ速さで直線運動をし続ける(ニュートンの第一法則)」に至るのだが、これはアリストテレス様の言うことと矛盾していた。アリストテレス様は「物体は力を加え続けたときのみ動き続ける」と言っていた。だから異端なのだ。異端であるためピュリダンのこの書籍は「禁書目録」に掲示された。つまりアリストテレスを受容した結果、自然科学のエビデンスを突き進めたことによりアリストテレスの矛盾が発見されたのだ。もちろん、このようなアリストテレスの間違いを指摘した学者は古代ギリシアには何人も居るのだが。この様な自然科学分野からのアプローチはアリストテレスの絶対性を突き崩すことになった。これが科学革命と呼ばれるの正体である。科学革命はコペルニクスの論文「天球の回転について」にその功績が当てられ、回転を意味するrevolutionは革命を意味するようになった。
哲学()が絶対に到達できなかったアリストテレスと言う絶対防壁に科学は容易く辿りつくことできたのだ。
12世紀ルネサンスの結果
12世紀ルネサンスとは、神学におけるアリストテレスの受容と宗教と科学の分離を意味する。しかし、これが近代化に於ける重要な要素になる。
途中までアリストテレスを積極的に受容して最先端を走っていたイスラム圏はアリストテレスと敬典の矛盾を解決できず最終的に拒絶しためにイスラム圏は近代化できなかった。東洋に至ってはアリストテレス自体が入ってこなかった。少なくとも古典漢文にアリストテレスが出回っていたと言う話は聞かない。入ってこないものは研究しようがない。しかし入ってきたとしても啓典の民の様なインパクトをあたえたとは考えにくい。仏典の一つに付け加えられて終わっていた可能性もある。仏教とアリストテレスは相性が良いと考える。全ての矛盾は方便で解決でき、地球が平らだろうが丸かろうがどちらでも良かったのだ。相性が良すぎるのも考え物かもしれない。
このように神学と科学の分離、科学によるアリストテレスの否定により近世が始まるのである。14世紀に入ると動物と人間、人間と神が分離され、人間中心主義のヒューマニズムが現れ、人文主義者が大暴れすることになる。
17世紀に入ると数学者デカルトや哲学()者のフランシスコ・ベーコンがアリストテレスを否定する様になる。フランシスコ・ベーコンはアリストテレスを無用の長物とし12世紀ルネサンスを暗黒に追いやった。先程までの流れから言うと、フランシスコ・ベーコンは理系の尻馬にのってマウント取っているだけのアホな文系にしか見えないけど。
しかし先述したように中世を暗黒時代と定義したのはアリストテレスの影響を受けた人文主義者ペトラルカである。そしてペトラルカの影響を受けたルネサンスの歴史学者が中世を定義した。そしてペトラルカは14世紀を暗黒時代と定義したから14世紀は中世なのである。その理由はローマが無いから。ローマが無いから暗黒時代なのなら物理的にローマを復活させれば良い。このようにフィレンツェ人が考えたかはよく分からないが、近世の最初の主役はフィレンツェになる。
近世の始まり
人文主義(ヒューマニズム)
中世がなぜ中世で、暗黒時代なのかは人文主義を調べるのが手っ取り早い。なおヒューマニズムは共和制ローマのキケロが考案した言葉とされる。キケロは、ガイウス・ユリウス・カエサルと同時代の人物になる。歴史的にはカエサルに論戦をはり敗北している方が記憶に残る人物になるが、一応弁論家であり修辞学の権威である。
そして14世紀頃にキケロに感化された勢力が現れる。イタリアのペトラルカから始まる一連の人間中心主義を人文主義(ルネサンス・ヒューマニズム)と言う。人文主義は16世紀ぐらいに完成するが、中世の人文主義者の流れを語らないと中世から近世への話ができないので、取りあえずペトラルカを調べてみると古代ローマの文献収集をしたり現代イタリア語の原型を作ったと言われているらしい。そしてアリストテレスが理解出来ずプラトンに逃避して詩を書いていた。元祖厨二病「神曲」のダンテとも面識があったと言う。「デカメロン」の人文主義者ボッカチオとは友人関係にあったらしい。彼らは人間に焦点を当てた作品を書いている。彼らは16世紀頃に大量のフォロワーを産んだ点が評価されている。要するに現代ヨーロッパ文学の原型に位置するのがこの三人になるらしい。中世騎士物語とかどこに消えたのだろう。これらはアリストテレス以外の古代ローマ、ギリシアの文献に目を向けて文学、詩、文法、レトリック、歴史、道徳、哲学()などに焦点を当てる様になる。この時代の他の人文主義者を調べるとブラッチョリーニは、修道院で埃をかぶっていたラテン語文献の発見で知られて居る。サルターティは東ローマから逃れてきたギリシア人学者をフィレンツェに招いていたらしい。要するに人文学の復興を行っていた。そもそも12世紀ルネサンスを見ると神学とアリストテレスをどうやって融合するかと言う話ばかりやってして、そこに人間が介在していない。でてくるとしても人間の原罪について論じているだけで、個別の人間については考えて居ないフシがある。それ以前に中世ヨーロッパの世界感では動物と人間の区別もついてない。興味が神から人間へ移ることでプラトンとアリストテレス以外の古代ローマやギリシアの文献にも目を向ける様になったと言う話になろうか。人文主義者は、修道院で埃をかぶっていた古代ローマの文献をかき集めて、東ローマ帝国から古代ギリシアの文献をかき集めてきた。当時の人文主義者はトスカーナ地方に多く、さしずめフィレンツェの文化祭状態になっている。
Humanist concepts of renaissance and middle ages in the tre- and quattrocentoと言う論文によれば、
ペトラルカは現代(中世14世紀)を暗黒と定義し、政治的再生と文化的再生(つまりローマ復興)を切望した。また現代(14世紀)から遡って1000年を、medium tempusと読んだ。これが中世暗黒時代になる。また、 グイド・ダ・ピサ(この人物の詳細は不明)の評価にダンテの登場を「死んだ詩を闇から光へと導いた」と言うものがある。また、ボッカチオもペトラルカとダンテに対して同様の評価をしたらしい。つまり中世暗黒時代説とルネサンス光説自体が中世に創作されたもの。以下省略するが12世紀頃には現代を形容して'medium'と呼ぶ用法があったらしい。これは出羽守がやたら中世言いたがるのと同じだな。ただし、歴史用語として中世が定着するのは16世紀後半らしい。
ヒューマニズム視点による中世と近世の分岐点
1394 ギリシア人クリュソロラスがフィレンツェを訪れる
イタリア人が古代ギリシアの文献を買いあさるブームが起きる
1439 フィレンツェ公会議
1453 コンスタンチノープル陥落(東ローマ帝国滅亡)
東ローマの学者の受け容れを始める
1459 コシモ・デ・メディチ、プラトン・アカデミーを開催する
――と言うことになる。そして人文主義者らの声がやたらとでかいから中世暗黒論が定着したのではないかと思われる。ここまで調べると中世とルネサンスはフィレンツェ大文化祭(1459-1492)の自画自賛の為に作られたとしか見えなくなってきた。
簡単に人文主義者の中で特に声がでかそうなメンバーを列挙してみると、
フランチェスコ・ペトラルカ 人文主義の父
ジョヴァンニ・ボッカッチョ 「デカメロン」
コシモ・デ・メディチ フィレンツェの僭主
ニコラス5世 ローマ法王
ピウス2世 ローマ法王
ロッテルダムのエラスムス ルターと反宗教改革の両方に影響をあたえた
16世紀最凶の失礼クリエータートマス・モア 「ユートピア」
ニコロ・マキャベリ 「君主論」
ミシェル・ド・モンテーニュ 「エセー」
――などがあげられる。彼らがペトラルカのように中世は暗黒時代だと叫んでいたと考えると当時の知識人も洗脳されるだろう。
結局、この話だけで終わらない。さすがに人文主義者の自画自賛すぎるので、ルネサンスの定義に対する意義申し立てが多く、ルネサンスは13世紀もしくは14世紀には始まっているのだから中世の終わりを繰り上げるべきだと言う意見が見られる。ただし16-17世紀を中世に含めるべきだと言う意見は見あたらない。16-18世紀を中世に含めるのは雑学マウントおじさんのみである。
グーテンベルク印刷機
中世と近世の間で外せない存在がグーテンベルク印刷機である。印刷機がなければルネサンスも科学革命も宗教改革も存在しない。印刷機がなければルネサンスはフィレンツェの大文化祭で終わってたかも知れないし、ルターもヤン・フスのように火刑されて終わっていたかもしれない。さてこの印刷機、中世の工学の集大成みたいなものである。そのうえでグーテンベルク印刷機が時代の画期なのか調べてみることにする。
そのまえに、紙の供給に関する問題に関する論文があまり無くどのように解決したのかよく分からない。ヨーロッパはパルプ紙が発明されるまでの紙の供給に問題を抱えていたはずだ。紙の供給の問題はパルプ紙以前は深刻で江戸時代で貸本が主流だったのも紙が高いからだ。しかもヨーロッパで主流なのだったのは麻と亜麻のボロキレから作った麻紙で、穀紙より原料調達コストが高い。そもそもヨーロッパに楮も竹もないけど。さらに紙自体が11-12世紀にイスラムから入ってきたものでかなり新しい。要するに中世の大半の時代に於いてそもそも紙が存在しない。それ以前はパピルスか羊皮紙を使っていたと思われる。パピルスはヨーロッパでは育つ植物ではないので輸入していたに違いないが、少なくとも18世紀頃までは使われて居たらしい。(英語だとpaperの語源がpapirusだからややこしくなるけど)グーテンベルクの時代には印刷機に耐えられる紙は普及していたのだろう。
印刷機を大きく分けると活字、インク、プレス機に分解できる。それぞれのパーツに関して分析してみることにする。
まず活字をどのように作ったかは金属工学の出番の部分になる。何しろ安い材料で、丈夫な、大量の活字を生産しないといけないのだ。東洋の金属活字は銅で作ったから手間とお金がかかりすぎて商売に使えない。正直、青銅器時代の銅印の応用だもの。結局、為政者のおもちゃで終わっている。以前しらべた朝鮮の銅活字の場合、印刷部数は30部程度。しかも活字がたりないので組んでは壊し組んでは壊すを繰り返すから再版ができない。再版する場合は印刷した本から版木をおこして刷るのだそうな。そのため東洋では木版印刷が主流だった。しかし西洋では印刷機が必要になった。その理由は紙とインクに問題があったからだと思われる。
ここから冶金の話に入るが、ヨーロッパにおける鉱山開発は11世頃から始まっており、特に銀山と銅山の開発はヨーロッパに於ける銀銅不足の解消につながった。鉛を使い金銀を分離する灰吹法自体は8世紀に存在したとされる。イスラム交易に依存していた。鉱山開発における動力源としては水車や馬が使われた。大規模な製鉄に必要な高炉は13世紀には存在されたと言われており、最初の導入は12世紀ではないかと推測されている。鉱山開発と金属精錬は分離しており金属精錬は冶金ギルドで行われていたらしい。アンチモンは古代エジプトには発見されていた様である。ただしこの金属は単離するのが難しい。北アフリカでは11世紀、中世ヨーロッパにおいては14世紀頃の錬金術書に出てくるらしい。アンチモン単離方法の記録は1540年が初出なので、グーテンベルクの時代には未だ無いようだ。
さて、グーテンベルクは活字に使う金属として、鉛と錫、アンチモンの合金を採用している。ちなみに合金は鉛がメインで、アンモチンが2割、錫がオマケらしい。そういえば、律令時代の日本の貨幣に銅0%鉛98%と言う銅貨があった(それは鉛貨だ)。
この合金の特徴を列挙する。
柔らかく、肌ざわりが良い
重量感がある
鋳造後の収縮がほとんどない
低融点で成形しやすい
メッキののりが良い
低融点(240℃)で成形しやすく、鋳造後の収縮が無く、ざらつきが無いのは活字に必要な条件、メッキののりが良いのはインクが付けやすい特徴になるだろうか? 低融点なので銅活字(910℃)と違い誤家庭でなくても作成可能。版組している最中に活字が足りなくなったとしてもすぐに作り足すことが可能だったと思われる。また低融点の金属を利用したことで活字作成の活字に金属を用いることが出来た。グーテンベルクは活字の型の形成を軟鉄で行い、それを銅に転写して型として使ったようである。グーテンベルク印刷機の活字は型の再利用が可能で量産に向いていたのである。
インクは材料工学の範疇になる。西洋に墨汁が入ってこなかったから印刷に使えるインクは没食子。このインクは水に強いが酸性なのだ。よって紙を傷めやすい。さらに活字をサビさせてしまう訳だ。さらに印刷に使うには速乾性も必要になる。要するにインクも改良しないと使えない。ところでこのインクよく分かっていない。秘伝だったので製法が公開されていなかったから。当時からどこかのプリンターメーカーみたいなことしていた訳だ。しかも最初は木版印刷に使われて居たらしい。要するに西洋のインクは印刷向きでなかった。そもそも金属活字の場合、油性インクにしないと行けないし、速乾性にも油性が向いているので油性インクが開発されたようだ。
最後はプレス機になる。この部分は機械工学の範疇に入る。プレス機はワインを作る時に使われていたブドウ絞り機を改良している。なぜプレス機がいるかと言うと、西洋の紙は麻紙(麻や亜麻のボロキレを利用した)だった。麻紙の欠点として、紙の表面が滑らかではないので圧力をかけないと均一にインクがのらない。そのためヨーロッパで紙に手書きする時には、羽根ペンでひっかいて書いていたらしいが、印刷するときに、ひっかくわけには行けないから変わりに圧力を加えるしかない。そのためプレス機でプレスする必要があったの思われる。しかし、グーテンベルク印刷機の最大のポイントは組版の部分だと思われる。最初から可変長フォントに対応していた。自由な組版を実現するには活字に精度が要求される。
組版職人の動画だが、可変長フォントに対応にするには最後のスペーサーの部分が重要になる。隙間が空いていると印刷ごとに位置ズレしてしまう。
墨汁と木版なら軽くこするだけで済むが、ヨーロッパでは紙とインクが印刷向きでなかったため機械の方を工夫しないと行けなかった可能性が高い。そのため木版印刷が普及せず、活版印刷に一瞬で置き換わった可能性がある。大量生産可能な活字の存在も大きいだろう。ヨーロッパの木版は絵の印刷のみで使われ、それも15世紀後半には銅版に置き換わっていく。一方木版印刷のコストが安い東洋では活版印刷は普及せず木版が主流のままだった。それはともかく、これにより写筆しかなかった本が手軽に大量に作成できるようになり本が手に入り安くなる訳である(根本的な紙とインクの改良は産業革命に入ってから)
グーテンベルクの42行聖書は約180部とされており、一般的に本の印刷部数は多くて1000-2000部程度(例外はあるが)、この冊数であれば日本では木版から乗り換えるモチベーションにならない。
地中海地域でオリーブオイルを絞るための木ネジが1世紀頃には存在したと言われている。15世紀までには金属ネジが登場しているらしいが、まともな記録がなかった。
印刷機の普及でメガネも普及したとか。
なお中世ヨーロッパでは蝋板タブレットに文字書いていた。
東ローマ帝国から西ヨーロッパに入ってきたもの
先述したとおり西欧ではそれまで古代ギリシアの文献に触れる時、イスラム圏(イベリア半島・シチリア)から持ち帰ったアラビア語に翻訳された古代ギリシアの文献をラテン語に再翻訳したものを読んでいた事になる。その中で至高の存在はアリストテレスになる。しかしアリストテレス学派の書物は数万と言う単位で存在していた。その正体は哲学()などではなく古代ギリシア百科全書である。そもそもアリストテレスがphilosophiaと読んでいたものとは森羅万象全ての学問であり、その大部分は自然科学である。哲学()と異なりphilosophiaは物理と数学が分からないものはお断りの学問である。ようするに古代ギリシアのphilosophiaを哲学と訳した西周が悪い。鋸刑が相応だろう。結局、現代哲学ってアリストテレス哲学とプラトン哲学から自然科学を除いた残りカスの方じゃないか。
(「鋸刑」の画像は閲覧注意なので省略)
これらの書物はプトレマイオス王朝がアレクサンドリア図書館で管理していた。その理由は、アリストテレスがアレクサンドロス大王の師匠であるからである。アレクサンドロス大王の部下、プトレマイオス一世ソーテールはアレキサンダー大王亡き後の後継者戦争において自らの権力の正統性を誇示するためにいくつかの仕掛けを施した。アレクサンドロス大王の遺体を手に入れ葬儀を行ったこと、新たな神セラピスを作り出しエジプトの神として定義したこと、そしてアレクサンドリア図書館である。アレクサンドリア図書館にはアリストテレス学派の書籍を中心に多数の書籍が蔵書されることになる。
ヘレニズム文化の集大成とも言われる図書館はアレクサンドリアこそギリシアの中心であり、プトレマイオスこそがアレクサンドロス大王の正当な後継者であるというプトレマイオス一世ソーテールとその後継者の宣言なのである。そして併設されたムセイオンにはギリシアの優秀な学者が集結した。例えば、エウクレイデス(ユークリッドとして知られる幾何学の父)、サモスのアリスタルコス(2300年前に地動説を唱えた)、エラトステネス(素数発見アルゴリズムのエラトステネスの篩でも知られる。地球の大きさを計算した)などである。アルキメデスもアレクサンドリアで学んだとされるが定かではない。彼らは優秀な数学者にして自然科学者である。その知識もまた図書館に収められた訳である。また初期キリスト教に影響を与えた新プラトン主義の哲学者プロティノスもアレクサンドリアで学んでいる。
プトレマイオス王朝はエジプトであると同時にギリシアでも有ったのだ。
プトレマイオス王朝の後、アレクサンドリア図書館はローマ帝国が管理していたが雑なあつかいだった。さらに図書館の中身は4世紀にはキリスト教徒に焼き払われたとされている(諸説あり)。
またアテナイにはアリストテレス自身が作ったリュケイオンがあり、6世紀まで存続している。
これらの研究の中身は完全と言えないものの東ローマ帝国に引き継がれる事になる。例えばコンスタンチノープル大学が425年に創設され、東ローマ帝国が滅びるまで存続していた。しかし、その中身は役人学校と宗教学校を合わせたものであるから、中身がこの分野に極端に偏っている。一方、西ローマにあったものはロンゴバルド族の侵入でその大半が破壊されていた。
しかし、東ローマ帝国の科学に関する資料はなぜか少なく、その実態は良く分からない。どのような研究が行われたかも分からない。例えば東ローマ帝国にはギリシアの火と呼ばれる兵器があったが秘密にされており、東ローマ帝国滅亡ともに技術は失われ未だに謎に包まれている。しかしコンスタンチノープルでも継続的な研究は行われていたようで、その痕跡は建築物などに見られる。その成果はルネサンス以降に芽吹く事になる。残念な事に東ローマ帝国は権威主義的な官僚独裁国家だった。そのような国家では飛躍的な科学の向上は望めないのである。東ローマ帝国の科学に世界を席巻するほどの発明はなく結果的に比較優位のまま留まってた。その中にはガリレオやコペルニクスが現れるまで日の目を見なかった研究もある。化学や天文学などイスラムの方が発展していた分野も多い。その代わり東ローマ帝国は古代ギリシアの知識を百科事典的に保存していた。そもそも東ローマ帝国は独裁国家で異論を認めないから考証学が学問のメインになってしまう。要するに中華帝国が大好きな古典の解釈ばかりやっているやつ。学問そのものは停滞してしまい、学を志すものは他国に逃げた。この辺りはすでに書いた。
東ローマ帝国の科学の発展に関してはイスタンブールに転がっていた。
なお、古代ギリシアの文献は東ローマから流出したものも含め、アラビア語に訳されたものが西ヨーロッパに入ってきているが、ギリシア語の文献が直接大量に入ってくるのはコンスタンチノープル陥落前後になる。
東ローマ帝国の滅亡の恩恵を受けたのはイタリア人、特にフィレンツェ人であり、東ローマから流出した知識と文献を一気に吸い上げる事になる。それは西欧人の文化世界、精神世界を大きく回転させる出来事だっただろう。
これを日本に当てはめると黒船来航が該当する。黒船来航により、急減に近代化した日本は、明治維新の後、文化世界、精神世界を大きく回転させる。江戸時代と明治維新後を比較すれば、着る者、食べ物、建物すべてが別物に変わっているのがその証左だろう。
近世ヨーロッパに取っての東ローマ帝国滅亡のインパクトはこれより大きかったと考えて良いだろう。なんせ腐れ儒者人文主義者が暗黒時代から光が戻ってきたと形容するぐらいだから。しかし、そもそも西欧に住んでいたのは無文字文化圏の蛮族ゲルマン人でローマは失われたのだから古代ギリシアを受け入れる為には中世は必要不可欠だった。中世初期のゲルマン人やキリスト教徒がアリストテレスの文献に触れたところで、せいぜい焚き火の焚きつけにされる運命だっただろう。実際、キリスト教徒は焚書している。それからアリストテレスの受容まで1000年の時間がかかっている。
しかし実際にコンスタンチノープル陥落後、イタリアに入ってきたものはなんであろうか?
人文系ばかり。さらにイタリアのルネサンスは新プラトン主義に偏っている。イタリア・ルネサンスの正体とはアウグスティヌスに汚染される新プラトン主義主義の回帰であろう。アリストテレスとプラトン以外の古典ギリシア文献も大量に入ってきたと推測できる。人文主義者は、ドサクサに紛れてギリシアで本買いあさっていたし。
中世末期に活躍した建築家にフィリッポ・ブルネレスキが居る。フィリッポ・ブルネレスは数学と応用幾何学を学び、金細工師としてキャリアを開始し、新しい手法やビザンチン様式を取り入れた建築を行たっためルネサンス建築の父と言われる。どうやらフィリッポ・ブルネレスキはこの手法を、ローマの13年間で古代ローマの遺跡を分析することで発見したようだ。彼の一番大きな仕事は、フィレンツェの大聖堂のドームの建築になる。これは東ローマと何も関係ない気がする。
ギリシアからイタリアへ亡命した学者の膨大なリストが、どこかに転がっているらしいが見つからなかった。
東ローマの滅亡の影響はよく分かっていないとしか書きようがないが、その最大の恩恵を受けたのはフィレンツェなのは確実な様だ。東ローマから大量の人材を確保したフィレンツェはルネサンスの一番手として躍り出る。1453年に東ローマ帝国が滅亡した6年後の1459年にフィレンツェのメディチ家によりプラトン・アカデミーが作られている。このプラトン・アカデミーに腐れ儒者人文主義者が集まり、ぼくのかんがえたさいきょうのろーまだんぎルネサンスの拠点の一つになった。プラトン・アカデミーに招かれたメンバーの一人にルネサンス期の彫刻家ボッティチェッリが居る。
近世ヨーロッパとは
歴史を俯瞰して眺めてみると近世は西欧に於ける科学の始まりを指している。ルネサンスの美術品もオマケでしかない。科学の受容の結果が古代ギリシア再興なのだ。日本が明治維新後急減な工業化が出来たのは江戸時代に独自とは言え高度な数学や自然科学を既に修得していたからと言われる。さらに限定ながらも蘭学が根付いていた。それゆえ欧米の自然科学の文献を理解する為のハードルが低かったし、工業化に必要な経済活動のベースも存在していた。そしてヨーロッパで江戸時代に相当するのが中世だ。中世が無ければ古代ギリシアの文献や学者が幾ら流れてきても馬耳東風だったろう。
しかし真のアリストテレスの受容は、アリストテレス的思考によるアリストテレスの否定によって完成する。これこそが科学であるのだが近世の聖職者は、科学を認めず中世にしがみついていた。特にアリストテレスを受容した後の教会はアリストテレス原理主義化していた。アリストテレス原理主義においてはアリストテレスが絶対なので、地動説は認められない。0も無限大も認められない。アリストテレス原理主義者は無限大を主張した聖職者を火あぶりにもした。17世紀にアリストテレスを論破出来る哲学者デカルトが排出されるまで、アリストテレスは何度も超えるべき壁として立ちはだかったと考えられる。なにしろアリストテレスは今までの宗教観の完全否定を要求するのだ。これは量子力学が出てきたときのアインシュタインの逸話を思い出す。アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言い、量子力学を受け容れられなかった。彼の世界感は「決定論」であり、これを否定する量子力学を受け容れることを拒んだのだ。中世ヨーロッパには、このような壁がいくつも立ちはだかったに違い無い。アインシュタインですら拒んだ壁を哲学()者達が受け容れるのは容易ではなかったことは想像がつく。
中世ヨーロッパでは水車に代表される機械工学や冶金術が発達していた為、古代ギリシアの自然科学とは実は相性が良かった。しかもグーテンベルク印刷機が発明された時期でもある。これらの文献は印刷されヨーロッパ中に拡散されることになる。そして近世ヨーロッパに優秀な数学者や自然科学者が大量生まれ、西欧を近代化する原動力になった。ガリレオ、コペルニクス、ガウス、オイラー、ニュートンは中世では生まれなかっただろう。しかし、歴史学者は人文分野で評価したがるためプラトン哲学()の再発明や啓蒙主義とか言う疑似科学ばかり取り上げる。だから哲学()ばかりやって科学の分からぬ輩によるスペイン異端審問と魔女狩りが暴れまくった16世紀から18世紀までを中世だと雑学マウントおじさんが勘違いしてしまう。こうして歴史学者は近世の負の側面までを中世に押しつけてしまったのだ。彼らは火刑が妥当だろう。
中世と近世の区切りはあくまで科学である。人文主義者のプロパンガンダに騙されてはいけない。西欧の優位性は、複数の文化を持つ国々が競い合っていた事もある。これは春秋戦国時代の中国に似ている。壁で分断されることにより維持された文化の多様性の維持と共存が社会の発展を育むのだ。一番大きいのはある研究が規制によって出来なくなっても別の国に移れば研究可能な面が大きい。教会によるパリ大学におけるアリストテレス禁止令は他の大学の存在により有名無実にされ、オッカムは異端審問で追われたときにミュンヘンに逃げた。中国は秦以降に多様性が存在しないから遊牧民に支配されないかぎり空理空論をこね回すだけでひたすら停滞を続けていたのだから。自称世界で一番最初に金属活字印刷した国は14世紀から600年ほど停滞していた。印刷の発明は近代化に寄与するが、印刷する文献がなければ無意味なのである。したがって、東ローマ帝国の文献と学者の流入の意味も大きいと考えられる。
おわりに
ヨーロッパの近代化の始まりは科学の受容であるが、歴史的な区切りはローマ再興で、それには古代ギリシアの莫大な文献と学者が必要になった。その転機が東ローマ帝国の滅亡と言うことになる。これが中世と近世ヨーロッパの境になるわけだ。そのため東ローマ帝国の滅亡が近世の終わりとして定義される。しかし、この定義はだいたいアリストテレスが理解出来なかった拗らせ系プラトン趣味者ペトラルカから始まる人文主義者の定義。人文主義者には著名な作家が多く声だけはでかいので中世暗黒時代説が定着してしまった原因にもなるだろう。
1517年のルターの宗教改革は起点にすらならない(北欧では違うが)。正直中世後期のボヘミアのヤン・フスの焼き直しだ。しかしフスの演説はプラハで留まった。印刷機が無いから。
人文主義者の戯言を除外するとしても西ヨーロッパ、東ローマ、古代ローマ、古代ギリシア、イスラムと言う異なる世界感が入り混じった結果が科学の発明であり近世の始まりなのだ。最後のパーツが入ってくる東ローマ帝国の滅亡を近世の始まりとするのが妥当だろう。ここにはイスラムは何故近代化できなかったのかと言う命題が存在する。最終的には、アリストテレス的解釈とコーランの矛盾を解消出来無かった。偶像崇拝を否定しない西欧は、そこに古代ギリシアを復興できたし、キリスト教が根本的な矛盾を抱えており教義も戒律も教会が恣意的に作ったモノにすぎないから最終的に科学も容認された。またオスマン朝が東に居座ったため、スペインやポルトガルは海路による交易を試みることになった。これは大航海時代にもつながる。
アリストテレスはアテナイでは生まれなかったし、コペルニクスはイタリアで生まれなかった。出身バイアスもイノベーションの障害になるのだ。それゆえプラトンは観察者になれなかった。都市で壁を区切っていたまま人材交流が行われ、ガバガバすぎた教義ゆえに換骨奪胎が可能だっカソリック圏だからこそ科学革命は起きえたのだろう。
しかしながら科学が発達すれば人間が理性的に生きられるわけではない。近世に入ると新しい迷信、つまり疑似科学が流行しまくる訳で、風呂に入ると疫病にかかるとか新しい食べ物(コーヒーのときもココアのときも揉めていた)が入る度に健康に良いか悪いかエビデンスも取らずに揉めまくる訳だ。梅毒の治療に水銀風呂と言うトンデモ治療が16-17世紀にあったらしい。フランシスコ・ベーコンが余計なマウント取るから(それは違う)
フランスで19世紀に馬肉は滋養に良いと医者が言い出したら突然馬肉を食べ始めたりしているので、科学信仰の裏返しで偉い学者が言ったから流行ったとか廃れたみたいな事例がかなりありそう。
そもそもとして今現代ですら大量の疑似科学が流れている。味の素は身体に悪くないと言うだけで炎上したり、健康に良くも悪くもないなんとか水がなんとなく健康によさそうに売っていたり、怪しい除菌お守りが売っていたりする。しかし否定系の医療はトンデモ医療器具ほど分かり安くないから16−17世紀に風呂に入ると疫病にかかると言う疑似科学が流行っていたと書ける訳もなく……なんとなく中世の所為にされるのだった。
中世と近世を混同する輩に中世を語る資格などないのだ。彼らは科学以前の世界に住んでいるのだから車輪の刑が妥当であろう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?