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どうした?家康 〜小牧・長久手の戦いの分岐点「岩崎城」に思いを馳せる

物語をさがして vol.24

木魚がえると岩崎城

梅雨の時期、岩崎城近くの雑木林から、
雨に打たれる竹などの樹木の音に混じって

「ろくろくろくろくろくろく坊 なむあみだ
ぽこぽこぽこぽこ なむあみだ」

こんなリズムが聞こえてくる
それを地元の人たちが「木魚がえる」と呼んだ

そんな言い伝えがあります。

「ろくろく坊」とは不思議な音色です。
岩崎城の傍の六坊山のことでしょうか。
なぜ、供養の読経や木魚の音を思わせる声が聞こえという話が伝わるのでしょうか。

それは、ここ岩崎城で、多くの命が失われる激しい戦い「岩崎城の戦い」があったことと関わりがありそうです。

岩崎城(愛知県日進市岩崎町市場67)

岩崎城は室町時代末期、織田信長の父 織田信秀の築城とされています。


岩崎城の戦い

今から四百年以上も昔、時は戦国時代。

本能寺の変で織田信長亡き後、豊臣秀吉と織田信雄(のぶかつ・信長の次男)が対立し、織田信雄は秀吉に対抗するために徳川家康と同盟を組みます。

そして豊臣秀吉と徳川家康が対決したのが、「小牧・長久手の戦い」ですが、ここ岩崎城もその舞台の一つとなりました。

犬山、小牧山で秀吉・家康、双方にらみ合いが続く中、秀吉は、家康が留守にしている岡崎城を奇襲する計画を立てます。(三河中入り作戦)

天正一二年(1584)四月九日の未明、岡崎へ向かう攻撃隊のうち、池田恒興が率いる第一部隊が岩崎城にさしかかります。

このとき徳川方として城を守っていたのが、丹羽氏重という武将でした。当主丹羽氏次はこのとき徳川方として小牧山に出陣中。弟の氏重が留守を守っていました。長久手城主の加藤景常もいました。

このとき、丹羽氏重はなんと十六歳。

岩崎城歴史記念館のエントランスに氏重の雄々しい像があります。十六歳。
疱瘡を患いながらの戦闘でした。

岩崎城の守備をしていた丹羽氏重以下の兵の氏名が記録に残っています。
四十一名の兵士のほか、名前が記されていない足軽や、弓之者とされる人々も数十名、町人も三十名いたとあります。

その数総勢三百。

対する池田恒興の兵は七千。

圧倒的な兵力の差!

それでも氏重は、敵の池田隊を素通りさせるわけにはいかないと、攻撃を仕掛けます。

丹羽家に伝わる『丹羽氏軍功録』には、最前線で戦い、何度か敵を場外に追い返す氏重の奮闘ぶりが記録されていますが、圧倒的な兵力の差で討死。城兵も全滅、約三時間の戦闘の末、岩崎城は落城してしまいました。

本来ならば第一部隊の池田軍は寄り道をせず岡崎へ向かわねばならなかったはずです。犬山から岡崎への行軍は、距離が長く、大変なものでしょうから。

池田軍が城への攻撃を行った理由の一つに「軍神血祭」説があります。

「軍神血祭」とは、戦いの景気づけに、敵を殺して軍神に捧げるというような意味合いのようです。なんという恐ろしいことかと思います。

この勝利のあと、池田恒興が六坊山の辺りで、取った首を並べて上機嫌だったという記録も残っています。

そんな話を聞くと、木魚がえるの伝説もうなずけます。

「ろくろくろくろくろくろく坊 なむあみだ
ぽこぽこぽこぽこ なむあみだ」

岩崎城は落城してしまいましたが、ここで第一部隊を足止めしたことで、家康軍の追撃を許し、池田恒興、森長司を徳川方が討ち取り、作戦は阻止されました。突撃部隊は岡崎どころか三河の地へ一歩も足を踏み入れことができなかったのです。

史料を読むにつけ、この「小牧・長久手の戦い」は、尾張地方の広い範囲の野山を武将たちが馬や足で駆けまわり奮闘したことが分かります。

一帯が織田家の領地だったとはいえ、秘密作戦を素早くキャッチする徳川方の情報収集力もすごい。

また、書簡集を見ていると、戦いの近況を報告した手紙で、秀吉が木曽義仲に宛てて「昨日の手紙を今日拝見した」とか「去る八日の手紙を十一日に拝見した」などとあります。速さが普通郵便や速達と同じくらいですよね。使者の素早い機動力にも驚かされます。


戦のあと

功績が認められた丹羽氏が豊田へ移ってからのちは岩崎城は廃城になります。

これは宝暦二年(1752)の書物に描かれた岩崎城。

「岩崎古城之図」『張州府記』国立国会図書館デジタルライブラリー
城跡の地形と古い井戸と石碑がぽつんと見えます。

戦国時代の岩崎城は、今建っているような天守や石垣はなかったのですが、今の歴史記念館があるところに、建物がありました。城主が居住している城というよりは、戦いの時に使われる城だったようです。本丸や櫓、井戸があり、敷地は今の公民館があるところや県道の交差点一帯も城内でした。

当時の様子はどんな感じだったのでしょうね・・・
想像してみました。

川にも囲まれていますが、ぐるりと空堀が掘られ、土塁が盛り上がり、
馬出しもある戦いの備え万全のお城だったようです。

現在の岩崎城には、当時の功績をたたえるかのような立派な天守が作られ、展示を見ながらてっぺんまで登りきると市街を見下ろすことができます。

城内には空堀や土塁が保存されており、当時の雰囲気を味わうことができます。

橋の上から空堀を見下ろします。まるで落ち葉の川です。


左手に高く土塁がそびえたって、本丸への攻撃を阻みます。

土塁は普段は立ち入り禁止エリアで、こうして遠巻きに見るだけなのですが、土塁清掃のイベントに参加すると学芸員さんからお話も伺えて楽しそうです。定期的にフィールドワークの催しも企画されています。

井戸跡

歴史記念館の前から市街地を一望できます。
それはそれは、とても気持ちの良い眺めです。

先人のいろいろな犠牲と努力の上に今ここがあるということ、
物語を語り継いでいくことの大切さを思います。

みなさんも岩崎城にぜひ足を運んでみてください。

岩崎城公式ホームページ
http://www.mf.ccnw.ne.jp/iwasakijo/

参考
『岩崎誌』岩崎誌編纂委員会
『岩崎城の戦』著 武田茂敬 日進市教育委員会
にっしん・郷土の歴史を楽しむ会発足記念講演「日進市が誇る名城・岩崎城と小牧・長久手の戦い」岩崎城歴史記念館学芸員 内貴健太
企画展「激戦!岩崎城の戦い 若き英雄 丹羽氏重」(岩崎城歴史記念館)
『劇画 小牧・長久手の戦い』監修 新行紀一 愛知県長久手市
広報にっしんno.812~814「徳川ゆかりの城、岩崎城がアツイ!」
『書簡に見る小牧・長久手の戦い』長久手市郷土史研究会編(ゆいぽおと)