言語化したい理由を言語化できたのでここに言語化する。私にとっての翻訳機とは
30年くらい生きてきて今まで一度も口論をしたことがない。
というかできない。
不可能という意味で、できない。
友達にムッときても黙ることしかできなかったし、
母親に怒られても部屋にこもることしかできなかった。
自分の中で形にならないものが感情としてもわっと広がるけれど、そこからパッと言葉にして頭の中ですら並べることができない。
それを瞬時に口に出して生身の相手に理解できるように発するなんて、
どうやってやったらいいのか未だにわからない。
出そうとしてもたぶん、
えっ…?は…?うん…??(パクパク)
しか出てこない。
たぶんそこらへんの幼稚園児の方がそのあたりの能力は優れている。
言語をやりとりするコミュニケーションができてこその人間なのに、と劣等感を持ったこともある。
まぁ良いのか悪いのか、このポンコツ頭のおかげで誰かと面倒なトラブルになったことはない。
その場の口喧嘩に限らず、自分の気持ちが頭の中に置いてけぼりで、
手に取れずにもやもやしたままになることが大人になっても治らない。
小学生くらいの頃から文章が好きだ、書くことが好きだと当たり前に思っていた。
でも、書くこと以前に、自分は考えることが好きなんだということに気づいたのはつい最近のこと。
たしかに、みんなダルそうにしていた哲学の講義が私はとても楽しかった。
あなたにとってのアルケーは何ですかという問いに対して、回答用紙に何文字にもして埋め尽くしたのを覚えている。
可愛く言えばシャイ、
普通に言えば口下手、
悪く言えば頭の回転が悪い。
私にとって、「考える」と「話す」との間には長くて曲がりくねった道があるような感覚で、その道中を歩いたり走ったりしてるうちにたくさんのことを取りこぼしている感覚になる。
だから思ったことをいざ話すとなると、あれれ。
手元に何もなくなっていて口から出すものがほとんどない。
対して、「考える」と「書く」はほとんどゼロ距離な気がする。
(ゼロではない気がする、わからない)
速度が犠牲になる代わりに精度が上がるから気持ちがいい。
いつももやもやしていた。
良いことも悪いことも。
小学生のときも中学生のときも高校生のときも大学生の時も
社会人になってもいい大人になってもずっと何かぐるぐる考えている。
頭の中を占めて、ぐるぐる回り続けて、浮かんでは消えたりする。
ただ、書いている今この瞬間だけは、ぐるぐるした軌道からぽこっとひとつ小さく枝分かれした道を出口として、思考が文字となって言葉となって文章となってやっと私の目の前に、少しずつだけど姿を現す。
今までずっと私の中にあったものなのに、ここでやっとはじめましてができる、
いちばん近くにあったのに、長い時間と長い道のりを経てやっと顔を合わせる。
はたまた、このスッキリ感はなんだか成仏にも似ている。
「思う」のままだと、どこでもない場所でもやもやと成仏できず浮遊している。
頑張って頭の外に出て、言葉として存在できるようになって初めて成仏されるような感じがする。
別に思いは心の中にあるだけでも全然良いんだろうけれど、
私の場合あまりに溜め込んで滞留しているから、ここにいたままではいけないもの扱いになってそんなふうに思ってしまうんだろう。
だって夜も眠れないこともあるから。
でも、ある時気づいた。
私はもやもやしてるんじゃなくて、むしろ生き生きしていたのかもしれない。
どうせなら生き生きするなら、走るとか歌うみたいにもっとわかりやすい生き生きだったら自分でも気づきやすかったのに。
私はずっと生き生きとして考えていたのか。
なぜ私はいつもずっとぐるぐる思い悩んでいるんだろう、という不安や疑問も晴れて納得だ。
真顔で、側から見たら思い詰めている人に見えていたかもしれないけれど、私は私なりに生き生きとしてたんだ。
大人しいとかお淑やかとか
控えめとか口数が少ないとか
何考えてる分からないとかつまらないとか
おもしろくないとか暗いとか、
周りからどんな風に見えていようと私は多分これからもずっと真顔で生き生きとするんだろうと思う。
考えるを好きでやってたかと言われれば全然そうじゃないと思っていたけれど、
自然とそればっかりしてきたってことは少なくともすごく向いていることなんだと思う。
私の口は翻訳機としての機能が劣っている。
とは言え、自分の翻訳者は自分だけだ。
時間をかけてでも翻訳するには時間をかけて書くしかなかった。
noteを始めたのは、いろいろと行き詰まっていた頃にブログやネット記事のおかげで世界が広がりとても救われて、私もいつかそういう人になりたいという思いがあったけれど、
そう思う前から私は自分のカオスな脳内を少しでも整理整頓してこの目で見たいと思っていたからで、
きっかけ以前のそもそもの熱源は「考えることが好き」だったんだと解明された。
ということにこんなに時間がかかったから、長く生きることはおもしろい。
誰かの心を救えるような人になりたいっていうのはむしろ副次的なものなのかもしれない。
それより先にある自分の好奇心や欲が書くこと原動力になりまくっている。
書く理由はそれぞれある中で、私と同じような人もいるのかなぁなんて思うと嬉しいな。
考えるって、道具も人もいらないしいつでもどこでもできるしゼロ円だし、何も持っていなくない私にはぴったりな趣味だ。
いくら言葉を口に出すのが苦手とは言え、もういい大人だし、
恋人には不満をぶつけられずどこかに消え去って迷惑かけたり(家出)、
仕事も上司も嫌で仕方なくて翌日からいなくなって迷惑かけたり(退社)、
そういうことは今後なるべくないようにしたいなと思うので、書くを経ることでゆっくりと言葉に変えて、口から発せられるように努めよう。
もし、私が思ったことをスラスラと口に出せていたら何の淀みや曇りも感じずにスッキリとしてしまって、文章にする楽しみも素通りしていたかもしれない。
お金はかからない、時間はいくらでもかけられる、ネタは尽きない。
そんなお得な趣味を持てたので、口下手で良かったなとも思う。
noteの下書きがひとつ前の記事で一掃されてゼロになったので、つまり今回の記事はぶっつけ本番みたいに書くことになりました。
心の赴くままに書くもの良いな。
画像は過去の記事を書くときに思考を整理してたときのもの。
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