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別に一人がいやなわけじゃないけど


これの補足というか、続きみたいな話。

さすがに自分を腐すだけ腐して惨めな面を演出してみても生まれるものってたぶん何も無いので、もうちょっとだけ自分の内面に向き合う作業をしてみる。


「人をうまく愛することができない」みたいに書いたが、実はその性質のせいで困ってることって現状あんまり無い。
というのも、わたしは単独行動がそれほど苦痛ではない方だ。まあただ寂しさに慣れて麻痺しただけなのかもしれないが、長年ぼっちをやってきた中で一人きりでいる自分と必要と感じたときに他者を頼る自分、その両方を少しずつ自分なりに受容できてきているところがある。

今の時代って、わりと一人でも楽しめるようにできてしまっている。娯楽は飽和しているし、寂しくなってもインターネットという近くて遠い人との繋がりは常に我々のすぐ隣にある。まあそれだけを人との繋がりとするのはかなり危険な行為なんですが、本当にインターネット繋がり以外の友達がいないんだよこっちは。殴るぞ。

他人が怖いのか?という自問に対する答えはどちらかといえばイエスだ。人間関係の構築がもともとドヘタクソだから、期待なんて何度も裏切られたし裏切ってきた。

だから常に透明な壁越しに人と接している。もっとほんとの私をみてよ!と発狂しかけることがないとは言わないが、相手との距離を一定のライン以上に縮めようとしないわたしが言えたことではないとも思っている。

つまるところ、わたしは孤独死が身近な問題として迫らない限りは別に今のままでいいやという諦観に近い現状の受け入れを行っているという話でした。他人と深く関わらないという処世術は、人によっては精神の安定に繋がる答えの一つなのかもしれない。


あとはもう、わたしがそうやってある種打算的に人付き合いをしていることが周りにバレたときに、幻滅されたり距離を置かれたりしないことを願うばかりだ。

愛されたい好かれたいとは言わないが、嫌われるのはかなり堪えるので。ワガママだね。

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