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自分は人をまともに愛せない悲しきモンスターなのかもしれない

とあらためて自覚する出来事があった。詳細は割愛する。


まず始めに、わたしは恋人とラベリングできる関係性の相手がいたことがない。この情報を開示するのにかなりの抵抗がある程度にはその事実にコンプレックスを抱いているが、それ以上に恋人という関係性を作ることへの面倒さ、億劫さ、うっすらとした気持ち悪さのほうが明らかに勝っている。

寂しいという感情がないわけじゃない。人と話していたい、話しているのを聞いていたいという気分のときは間違いなく存在するし、メンブレする出来事があったときには数年来の友人に深夜に泣きついたりしている(大迷惑)。そういう時間があるからこそどうにか生きてこられている。

でも、わたしは恐らく承認が欲しいだけ。自分のメンタルを都合良く気持ちよくさせてくれる相手をその時その時で適当に求めているだけなのだ。
その対象は特定個人に集中するわけじゃないというところがポイントで、何故かというと相手への負担とか、お互いへの期待のバランスとか、そういう面倒な対人懸念事項が特定個人にだけもりもり積み重なっていったときの正しい対処がとても難しく、面倒だからだ。


わたしは人になにかを与えることが苦手だ。人を慰めるのが苦手だ。人に寄り添うのが苦手だ。人に期待されるのが苦手だ。人に期待することが苦手だ。

で、わたしがエアプなりに考える『愛』の定義はこれらを正しい用法用量で他者に与え、もらい受けること。一方的に貰い受けてるだけのそれは『承認』だし、やり方やバランスを間違えればそれは『依存』になるんだろうなーと薄ぼんやり考えている。愛の定義なんて無限にあるので、異論は貴方の心の奥に大事にしまっておいてください。

ありがたいことに関係を壊さず、何年も良好な関係を続けられている数少ない友人や知り合いたち。その中の誰一人にもガラスだかアクリルだかの材質をした壁を隔てないと接することができないのがわたしという生き物だ。


以前、会話の中で天野さんって誰にも興味ないと思ってたというふうに言われたことがある。それは半分合っていて半分間違っている。

どうせ全ての人間関係は期間限定だから、他者に過度な関心は抱かない、期待なんてしない。しくじって傷つきたくないから、面倒だから。そう考えて人と壁を作って生きているから、わたしはたぶんこのまま愛する人になんて出会うことすらせずに一生を終えるんだと思う。

そのくせ、特定の誰かとの愛やら恋やらについて真剣に悩んでいる人間を見ては、欠片ほども理解することも寄り添うこともできない自分を嫌悪したりもしているのだ。


ここまで読んで哀れだなこの非モテと思うのならぜひわたしに強い興味関心を抱き、愛してみてください。
たぶん何も返せないどころか、最悪どこかのタイミングでその愛は仇となって返ってくると思いますが……


↑これは、悲しきモンスターに愛とは何か、の答えのひとつを教えてくれた曲です。

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