江國香織 『落下する夕方』から学ぶ小説と映画の魅せ方の違い

 江國香織といえば、『号泣する準備はできていた』や『きらきらひかる』などに代表されるような恋愛小説作家として有名である。1996年に出版された『落下する夕方』も例に漏れず、恋愛小説である。恋愛小説というと爽やかな「青い」恋愛をイメージしがちだが、江國の小説はそうではない。もっと言葉にし難い複雑な感情が絡む「大人の」恋愛を描くのが江國の小説の特徴である。
『落下する夕方』という題名からも想像できるように、この小説の表紙は「橙色」を貴重とした絵が描かれている。「橙色の円」が五つ、上から下に向けて描かれており、落ちていく夕陽を想起させる表紙になっている。物語の内容も題名が端的に表しており、太陽が沈み一日が終わっていく夕方のように、一つの恋と一人の人間が終わっていく様が描かれている。     一応、この物語の主人公は語り手の利果なのだが、もう一人主人公といってもいい華子という女性が登場する。華子は利果が同棲していた彼氏にふられた元凶の人物である。健吾が利果に別れを告げ、家を出ていった理由が華子を好きになってしまったからであり、それからすぐに利果と健吾が同棲していた家へ華子が引っ越しをしてくる。そうかと思えば、また家を出ていき別の男の家へ転がりこんだりするといった自由、故に孤独な女性が華子なのだ。そして、先述した「一人の人間が終わっていく」といったその「一人の人間」は華子である。そんな破天荒な華子に利果を含めた周りの人達が魅了され、日常生活や心を乱されていく物語である。
 語り手は「私」=利果という女性で、完全な一人称小説である。なので、利果の心境の変化と視点を読者は追っていくことになる。この小説のように登場人物が多い物語の場合、普通は三人称を用いた方がそれぞれの心情に迫りやすいので、書きやすいだろう。事実、登場人物の多い、江國の『薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木』では三人称を用いている。では、なぜ『落下する夕方』は一人称を用いたのかというと華子の人柄をより正確に読者に伝えるためではないだろうか。華子の魅力は何を考えているかが分からないミステリーさだったりするので、三人称を用いてしまうと華子の心情にも踏み込むことができてしまい、その魅力が失われてしまう。たとえ三人称小説にしても、華子だけの心情には踏みこまないことももちろんできるが、それでは不自然さがどうしても出てきてしまう。利果や登場人物たちが抱いている華子への気持ちを追体験させるためにも、
 「華子について考えている人」の一人称で物語を語る必要があったのだ。したがって、小説中の視点は利果から見た華子といったものが多く、他の人物-例えば健吾-を利果が見ていても、「利果が見た健吾から見た華子」というように華子に焦点が当たっている。三人称だと視点がある程度ばらつくが、やはり一人称で恋愛小説となると、そこまでの視点の動きはないという印象だった。それが逆に恋愛の一つのことに固執してしまう性質を描きやすいという利点も一人称小説にはあるのではないか。
 一人称小説では語り手だけの視点に限定されてしまうという欠点があるが、江國はそれを周りの情景を細かく描写することで客観性を補っている。例えば、華子の服装や食べ物を残す癖、好きな音楽などを描くことで華子の性格やその時の気分まで描いているし、健吾が華子に恋をし、幸せではないことを頬がこけた様子などで表現している。
 直接表現するのではなくそういった情景描写の方がより繊細に心情を表現できることがある。例えば、華子が亡くなってしまった後の場面。
「冷蔵庫からセブンアップをだしてのむ。ごくごくと、喉に流しこむようにしてたくさん。華子はいつも半分しかのまなかった。まるでさっちゃんのバナナみたいに。冷蔵庫にはすきやきの材料が、半分腐ったままおきっぱなしになっている。」(p272)
このセンテンスを読むことで、セブンアップやすきやきを見ただけで華子のことを思い出してしまう切なさがすごく伝わってくる。
 同じように、空間を描写することで心情を表すこともできる。
「2日たち、3日たち、5日たったが華子は帰ってこなかった。おもてはどんどん春になり、華子の部屋には依然として旅仕度みたいな荷物が置いている。鞄に毛布、ヘチマコロンにトランジスタラジオ」(p259)
華子の死後も家にある華子の荷物を処理することが出来ない利果。文字通り心の中に住み着いてしまった華子を忘れることができない心情を、空間を用いることで表しているのだ。誰かに受けた影響が、部屋や持ち物、服装といったところに表出してしまうといったことは私たちの身の回りでもよく起こることである。心情を視覚化することで、客観性が増し、より切に感情が伝わるという手法なのだ。
 江國は内面よりも、こういった外部の情報を使って表現することが多い。普段私たちが見ているものも江國にかかればまた違った風に見えてくる。例えば月を「空にはピンクグレープフルーツそっくりの、もやもやと赤くまるい大きな月が浮かんでいる。」と表現している。普通、月がピンクグレープフルーツに見えることはない。そのすぐ後に利果が華子のいる部屋に健吾を誘うという大胆な行動に出るのだが、おそらくこれが普通の月ならばそういった行動は取っていないだろう。「ピンクグレープフルーツそっくりの月」を見たという描写をすることで、大胆な行動が不自然ではなくなる効果があるのだ。
 『落下する夕方』は映画化(1998年 監督 合津直枝)もされている。映画では小説では表現しきれない映画ならではの表現がされていた。
 例えば、「色合い」。小説では瞬間の色合いは表現できるが、全体を通しての色合いを表現することは難しい。たとえ時間帯を常に夕方に設定したとしても読者がそれを想像し続けられない。しかし、映画はそれがとてもしやすい。この映画『落下する夕方』では、画面がうすくオレンジがかっており、夕方の空気感が全体を通して表現されていた。そうすることにより、登場人物を演じる役者たちの表情に意味が付与され、失恋のぼんやりとした憂鬱が映画という媒体独自の方法で上手く表現されていた。
 『落下する夕方』のように小説原作の映画では物語の編集が大事になってくる。原作とは時系列を変えたり、一部物語を省いたりする、その選定が重要なのだ。この『落下する夕方』で一番描かなければいけないのは、「人のなんともいえない苦しさ」だろう。失恋した利果や報われない恋をしている健吾、自由気ままに振る舞っているが最終的に自殺してしまう華子など、皆が真夜中のような「真っ黒」ではない、どこか靄がかかったような「苦しさ」を抱えているのがこの物語のポイントである。小説では内に秘めている言葉を使うことでそれらを表現できるので比較的描きやすいが、映画ではそれが難しい。泣くや怒るといった分かりやすい感情ではないからだ。
 この映画ではそれを映画らしい手法で表現していた。例えば、映画冒頭のシーン。利果(原田知世)が水中で沈んでいき-言い方を変えれば落ちていき-学生時代の先輩柴田がパラシュートで落下してしまった時のことを回想するシーンから始まる。どんな物語でもそうだが、冒頭は「自己紹介」であり、その物語を象徴する場面から物語は始まる。短い時間で物語を描く必要がある映画は冒頭がより重要である。この映画の冒頭のシーンは、題名とかけて、落下するというシーンを描くことで様々な人達が落ちていくということを示唆している。恋に「落ちる」利果や健吾や直人君の父や直人君。どんどん人として「死」に落ちていく華子など。まさに映画を象徴するシーンを冒頭に持ってくることで物語の「自己紹介」に成功していた。小説ではなかったシーンで、映画という媒体をうまく利用した手法といえるだろう。
 小説とは違い映画は登場人物たちの表情が見えるので、よりダイレクトに感情が伝わってくる分、感情移入がしやすいという利点がある。だが、小説では江國の見事なレトリックで普段見ている物や人が様々な形に変わって見えそれもまた面白い。それぞれの媒体の活かし方があり、手法がある。物語という素材を調理するために様々な調理方法を駆使しているのだ。

参考文献
『落下する夕方』(江國香織 角川書店)
『号泣する準備はできていた』(江國香織 新潮文庫)
『きらきらひかる』(江國香織 新潮文庫)
『薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木』(江國香織 集英社文庫)
映画『落下する夕方』(1998年 監督 合津直枝)

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