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自己欺瞞とニヒリズムについて/否定的なもののもとへの滞留ーー生まれてこない方がよかった……(4)(5)終

生まれてこない方がよかった、いっそ死にたいという想いについて(1)「宇多田ヒカルと否定的なもの」
生まれてこない方がよかった、いっそ死にたいという想いについて(2)(3)「規範・権力・価値」「否定と肯定」


(4)自己欺瞞とニヒリズムについて


■自己欺瞞と自己肯定感、あるいは承認欲求

 承認欲求という言葉を僕が最初に目にしたのは、精神科医の斎藤環の『承認をめぐる病』という本である。この本は、現代のネット社会においてはびこる「承認欲」なるものの本質を、ヘーゲルやラカンの理論を参照しながら探求するといった内容であったと記憶する。しかし、「承認」という言葉は、やがて発達するSNSにおいて”承認欲求”という言葉に変質した。そこにヘーゲルの哲学は介在していないだろう。それは単に、サルトル哲学的な自己欺瞞、自己をゴテゴテに装飾し、自意識過剰となった自分自身をあげつらうために、ネットのシステムに対して奴隷と化したような人間の実姿である。

 かくいう僕も、ほとんど毎日のように承認欲求に囚われざるをえないという恥ずかしい告白をしなければならない。どうしてもいいねの数を気にしてしまう。これはおそらく、SNSのサービス運営側が、いやがおうでも気にさせるように、システム・構造としてそうさせているという側面が強いと言うことはできる。たとえば昨今のTwitter(※2023年にXという卑小な名前に代わってしまった)では、ツイートに対する反応の数を「インプレッション数」として可視化している。要は、自分の投稿したツイートに対して、どれくらい見られたのか、そしてその総数において、どれくらいの割合の人が「いいね」を押したかが、否が応でも分かってしまうのである。

 これは自意識過剰を促進させているといってもいい。あるいは自己欺瞞である。自己欺瞞が起こるのは、サルトル哲学にならっていえば、自己はまず”無”として現れるからである。
 自己は無である。虚無である。それがおそらく主体論の本質であり、真実であろうとも言えよう(このことがただちにニヒリズムへの傾向を誕生せしめるわけではない)。そうした本質的な自己が抱える無をごまかすために、ごてごての装飾、もしくは「自己肯定感」を被せることで、無理して自己を保っているのだ。
 こうした意味における自己「肯定」感は、もはや肯定でもなんでもない。欺瞞である。すなわち、即自的でしかあらない自己-存在を意識によって色づけるための道具である。
 現代人は、ネット関係で自己中心的になる。それは構造的にそうなのだ。そして、それは、自己肯定の欠如にすぐさま反転する。充足と欠如の間をいったりきたりする。
 一切は虚無だ。こうして、ニヒリズムは一つの完成を魅せる。

話が加速してしまった。そろそろ本題に入りたい。


■ニヒリズム論

 「生まれてこない方がよかった、いっそ死にたいという想い」は自己肯定感の逆、「否定」の観念であって、常識の範囲でいうとそれはやがて虚無主義をもたらし、虚無主義はやがて希死念慮か自殺願望を生むだろう。しかしこれでは、方向はひとつ、すなわち「死」にしかいきつかない。部分的には正解だと思うが、それでは哲学は必要ないことになる。

 本論を進めるにあたり、現代思想家(といっても四半世紀以上前に亡くなっているわけだが)ジル・ドゥルーズの『ニーチェと哲学』という本をパラパラと捲ってみた。そこからは、ニヒリズム(虚無主義)や、肯定と否定という問題について徹底的な考察が展開されているので、本論とは大いに関係がある。そういった部分を今回自分なりに精読してみた。
 ドゥルーズは、「否定的なもの」を三つの区分に従ってまとめている。それが「否定的」、「反動的」、「受動的」という三つ組みの概念だ。このうち、「受動的」、受動の状態が一番分かりやすいかと思う。少し引用してみよう。

彼はこの道をどこまで進むのであろうか。大いなる嫌悪にいたるまでだ。優越的諸価値よりは、むしろ諸価値などまったくない方がマシだ、むしろ意志などまったくない方がマシだ、無への意志よりは、むしろ意志の無の方がマシだ。むしろ受動的に消滅する方がマシだ。

ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』(江川隆男訳、河出文庫、2008) pp.295

 受動的な消滅。消滅願望である。「消えてなくなりたい」。これは、一般的に希死念慮とは区別されるべき状態ではなかろうか。死にたいとは思うのだが、それを実行に移す自殺願望まではいかず、もっと違う、自分自身の存在を消去したいという小さい願いである。それをドゥルーズは「受動(的)」という概念でまとめている。

 引用文で、無への意志や、意志の無という言葉が出てきた。ここは僕の独りよがりな解釈になるのだが、さきほどの三つ組みの状態概念や、自殺へと至る心理状態を、(ニーチェを解釈する)ドゥルーズは「意志」というこれまた哲学的には半永久的に注釈をつけることのできそうな用語で整理している。以下はドゥルーズの議論を読んだ僕が、雑な頭の中でなるべく分かりやすいようにまとめたものである。

無への意志……(否定的)ニヒリズム
否定への意志……反動(強)
意志の無……受動(弱)
死への意志……自殺願望(弱~強)
力への意志……肯定(?)

 この際、「意志」は志向、~に対する意識くらいの理解でいいと思われる。[1] 無は「虚無」と同義と考えてよいだろう。ニヒリズムは(虚)無の境地を志向することであると言う。先ほどは自己-否定感という言葉を出してみたが、これでは「否定」と「無」とが同一地平においていっしょくたに議論されてしまうようにも思われる。(自己)否定と無の違いを見極めることは本論を有効に進めるにあたってもとても大切なことだと僕は思う。
 
先ほど「受動」の説明をした。「受動」の正体は”消滅願望”である。ドゥルーズは、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の第二部の「予言者」の言葉を引く。

……本当に、われわれはすでに死ぬにはあまりに疲労しすぎている。

ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』

 死まではいかない、そこにいきつくエネルギーもない状態[2]。何もかもが嫌になる、死ぬことも、生きることも……大いなる嫌悪に囚われた人間の末路。ドゥルーズはニーチェの哲学概念を引いてこの受動を”最後の人間”のことだとも言っている。
 そして、受動は「意志の無」なのだ。意志、志向性が無い。何にも向かっていかない。一切が受け身。全ての意味において停止状態である。
 それに比べると、一般概念としての「ニヒリズム」は、無への意志、すなわち積極的とも言えそうな態度、志向性を持っている。僕は、これを極限化したものが「反動」、すなわち「否定への意志」なのだとドゥルーズを読みながら思った。それにドゥルーズは他の個所でわざわざ否定的ニヒリズム、反動的ニヒリズム、受動的ニヒリズムと、三つに区別されたニヒリズムを用語として使用している。
 ニヒリズムは虚無への意志であるが、それを全面的に支えるものは「否定的なもの」というカテゴリーとしての概念である。そこからは見事に、否定、受動、そして自殺といういかにも(一見)否定的なイメージにつきまとわれた概念しか出てこない。しかしここにも鍵はあるのだ。


(5)否定的なもののもとへの滞留


①    無への意志……(否定的)ニヒリズム
②    否定への意志……反動(強)
③    意志の無……受動(弱) 消滅願望
④    死への意志……自殺願望(弱~強)
⑤    力への意志……肯定(?)

■反動とは何か 

 ことは①と②に関わっている。ニヒリズム、虚無主義は「無への意志」であるが、これは始まりとしてのニヒリズムというか、この虚無主義はいくつかのヴァージョンへと変遷していく。ドゥルーズのニヒリズム論は、各論へと発散していく。結論から言ってしまうような言い方になってしまうかもしれないが、この番号でいうと⑤の力への意志は、ニヒリズムを徹底することによってでしか発生しないというようなことを述べている。僕はここで力尽きた。それじゃあなんのことかさっぱり分からないからだ。無への意志から産まれるものが「力」への意志、肯定だって? しかし、その手前の、「否定」の変遷論をドゥルーズはじっくりやってくれている。
①    の無への意志はあくまでスタートとしてのニヒリズムである。始まりとしての自己否定感と同義だと言ってよかろう、その方が考えやすい。そしてドゥルーズはまず、①→②の移行を議論する。無への意志から始まって、次に変成するのは「否定への意志」、反動なのだ。

ドゥルーズの「反動」の定義を読みながら、僕は具体的なものとして作家のセリーヌの文学作品のことをすぐさま思い浮かべた。セリーヌは確かに反動的な作家である。ありとあらゆることに「Non!」をつきつけるのであるから。セリーヌは矛盾に満ちた存在であった。そのことは彼が自分の文学にかこつけていう彼自身の「人類愛」にも言える。その人類愛は、「ただしユダヤ人を除いて」ということだろう。しかしそれは、普遍的なユマニスムとは程遠い。 
 反抗の精神は権利意識であり、抵抗権であり、一貫した論理に基づいたロゴスの世界の言葉だと思う。がいして反動は、矛盾しており、その強烈な力の魅力だけが輝いており、感情・感性の世界の概念としてあるだろう。
 セリーヌの反動にも分かりやすいほどの限界があった。ニーチェを読むドゥルーズは、この②反動=否定への意志の行くつく先は、③受動、死への意志だと述べている。消尽した否定の力。

 しかし、今の世の中にはこの「否定」の持つ力、反動を無様なやり方で行使するみっともない輩が案外多いようである。彼らは逆にそのことで安定した社会的地位を築いている。これは明らかにそんな彼らを許容するどころか崇め奉っている社会の方が「間違っている」のである。しかし、そんな強い否定への意志を持続させる者たちは、次第にはマジョリティ権力の方へと目指すことになるだろう。 
 反動は、本来その概念が有する否定という意味を脱却し、単に「力」というものの質量に拘り、やがて(マジョリティ)権力を志向する。「はい論破!」「それってあなたの感想ですよね」を繰り延べる彼らと、あくまでマジョリティ権力から遠ざかったセリーヌにはどんな違いがあるのだろう。
 ドゥルーズはこの意味での(マジョリティ)権力の分析には向かわず、むしろ②の「反動」から、これまで扱ってきた③の「受動」への移行過程を分析している。ドゥルーズによると、反動の行き着く先は受動らしいのである。それは本当なのだろうか。
 セリーヌは類にもまれな、「強い主体性」を最初から持っていた稀有な人間だったのではなかろうか。彼はあらゆることに「否定」の言葉を投げかけたが、ユダヤ性に関する発言を除いた彼自身の言葉は、一貫した感性的な態度は持っていた。それは呪詛の言葉である。そしてセリーヌの文学を読むと身に染みるように分かるのだが、そういった夥しい呪詛の言葉は、確かに彼の愛に深く結びついているのだ。セリーヌは優しい。ただ、その優しさも矛盾に満ちたものだ。そういった矛盾する愛や呪いに関する彼の変わらない感性は、特筆すべきものであることに間違いはない。

こうして、否定的ニヒリズム、無への意志は、様々なヴァリエーションを含む。反動、受動、マジョリティ権力、そして自殺。このうち最後の自殺については補論という形で最後に扱いたいのだが……


■暫定的結論――否定的なもののもとへの滞留

 ここまで探求してきたが、議論も錯綜してきた。ニーチェを読むドゥルーズを参照する際、彼(もしくはニーチェ)による「否定への意志」とか「無への意志」とかいうときの、”否定”や”無”とかいった、基礎的な哲学概念を僕は十分に検討していない。『ニーチェと哲学』を全般にわたって読めば書いてありそうな気もする。よって、本稿はこれ以上、ドゥルーズが書きつけた議論を参考にすることはできない。

 ただ、ドゥルーズは、該当箇所を読む限り、「反動」と「受動」は往復関係にあるのだと言っているように思える。すなわち反動は受動にいきつき、受動が自殺にいきつかないと、また反動に戻るといったような……。この往復関係に留まることは、否定的なもののもとへの滞留(スラヴォイ・ジジェクの言葉)である。これが大切なのではなかろうか。反動の地位に立ち、時に消尽する。しかし、自殺の手前で止まる。マジョリティ権力に靡くことも拒否する。

 ドゥルーズは、「ニヒリズムの外から抜け出るには、ニヒリズムを徹底させなくてはならない」と述べている。おそらくそこから、本物の”力への意志”が、肯定の哲学が導かれるのであろう。しかしそれを調べるには、本稿の範囲をあまりに超えている。しかし、否定的なもののもとへ留まり続けることは、何にもまして重要である。そして、ここから言えるのは、「受動」はなるべく避けるべきなのであろう。そして、反動と反抗の違いを意識しておくことである。
 反動を持続させていくために、抵抗者として強く生きていくためにはどうすればいいのだろうか。本稿の課題はここに尽きる。

次に、作家カフカの文学作品を想起することで、少し違った角度からこの「否定的なもの」との距離感を想起してみたいと思う。


(以下、中断)



[1] 意志とはなんたるかを『ニーチェと哲学』で精読することはかなわなかった。したがって、(権)力への意志を説いたとされるニーチェの議論を熟考したことにはならない。あくまでニーチェを読むドゥルーズの筆致から、彼が何をどう整理しようとしたかを理解してみたい。

[2] これは晩年ドゥルーズが中心テーマとした「消尽」という考え方にもつながっていきそうだが今はやめておく。

セリーヌ、カフカ、アルトー、大家健三郎、そしてカフカとブランショのように。