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生まれてこない方がよかった、いっそ死にたいという想いについて(1) 宇多田ヒカルと否定的なもの

 再掲記事になります。過去のものを手直ししました。本記事で触れる「反出生主義」というキーワードは確かに流行ったし、シオランの名前も現在に至るまでちょくちょく見かけます。元となったnote記事は2019年の終わりごろに発表しました。

 本記事は、ある人にとっては刺激の強い内容になっていると思います。死や自殺のことを言説上扱うのには非常な注意が必要です。だから、noteにあげてしばらくして、非公開にしていました。
 死や自殺への、思考上の、そして言説上でのアクセス。具体的にそれらのことを考え発言することの是非。むやみに発表することの是非。
 一方で、死をひたすら曖昧に、抽象的に思考するのもどうなのか。僕は、自分の中にある「承認欲求」や「希死念慮」といった、いまや人口に膾炙している概念と直接結びついた想いを、徹底的に思考し、見出したいと思いました。

 だから以下は、すべて自分独りの、身勝手な、雑文です。
 それでも本論に入る前に自分が伝えたいことをあっさり述べておくなら、

善く生き、善く死ぬ。生きることについて善く考え、死ぬことについて善く想いをめぐらすことが、きっと自分の人生にとって、大切な糧となる。
 ということ。間違っても人に向かって「死んでもいいんだよ」なんて僕は言わないし、むしろ、むやみに「頑張って生きようよ!」とも言わないです。
 そうではなく、生き急ぐ前に、死に急ぐ前に、深呼吸して、自分のなかに哲学を持ちこむこと。立ち止まって考えてみること。

"死にたい"という気持ちはごく自然なものであり、必要以上に否定的に捉えるのは間違っているんじゃないかという思いがあります。それが否定的なものだとしたら、否定的なもののもとへ滞留すること(スラヴォイ・ジジェク)もまた、積極的な生として捉えられるべきではないか。
 当時の記事は(2)で終わっており、続きは草稿の通りカフカやショーペンハウアーについて検討しつつ、結論をまとめるといった作業を残していました。今回、最後まで書きたいなあと思い、勉強しながらではあるけど、無事完遂できることを密かに自分に期待していました。そしてつくづく残念なことに、結局今回も論を締めくくることはできなかった。だけど、あーだこーだと悪戦苦闘しつつ考え抜いた過程を、身勝手な雑文として残しておくのも悪くはないだろうと思い、ここに載せます。(2024年5月)


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▶はじめに

 僕の周りでの、特に「反出生主義」という言葉・概念をめぐる言説は、一定程度のインパクトを残し続けている。曰く、「反出生主義などつまらない」「思想に足りない」「反出生主義はあのシオランもその系譜を持ち……」「出生を呪う気持ちは世界中の人間に偏在しているはずだ」等々。僕は特にTwitterで反出生というキーワードを見かけるのだが、おそらく今年の秋に出版された青土社の月間雑誌『現代思想』に、反出生主義に関する特集が組まれたことが、Twitterでもそれなりに反響を呼んだことにつながったのだろう。

 初めに僕のことを述べておくと、僕は反出生主義の立場ではない。生まれてこない方が良かったとは個人的には思っていないし、なんとかこの人生の中で一度二度大きいことをやってから死にたいと思っているのでそれまでは死にたくないのが僕の正直な気持ちである。しかしそれは「僕個人に関する」出生のごく私的な思いであって、反出生主義というのが、ある個人のその人自身の出生に対するアンチ=否定的な呪詛を指すわけではなかろう。おそらくそれは、人類そのものに対する呪詛だ。

人類というのは、再生産活動(子を産みその子が成長したのちまた子を産み……)によってその約一万年にわたる歴史を築き上げてきた。ところで最近、「地球環境は漸次的に破滅していく」とか、「ディストピア文学が描くまでもなく、人類は衰退に向かっている」「日本では子供の数が相対的・絶対的に減っていく」「そもそも恋愛=性愛活動を志向しない若者が多い」などの言説が飛び交っている。これらは本当に実際にそうであるような気がするし、全部が全部歴然とした事実というわけでもなかろうが、「なんとなく世界が破滅的で、消滅する方向に向かっている感じ(あるいは、向かってくれという私たちの、まるで無意識から立ち上がるかのような欲望の向き)」というのが現代文明の、特に21世紀に入ってからの大きな特徴の一つだと僕は思っている。

 この「人類=世界が衰退していく」という「感覚」の中に、反出生主義の思想は確実に連関している。それはごく当然なことだと僕は思っている。生まれてこなければよかった……人生は辛いことばかりだし、社会は悲惨な事件や過酷労働などの話題で埋め尽くされているし、国家や国際情勢はメチャクチャだ……生きていることに何の「意味」があるだろうか……? この悩みを僕も持っている。人生は辛い。繊細な感性の持ち主ほど、辛さは増すであろう。その結果、自傷行為を繰り返したり、自殺の一歩手前までいったり、もしくは本当に自死する人はけっして珍しくない。

 もう一度だけ、僕の反出生主義に対する「立場」を確認する。それは、(1)僕個人の人生におけるアンチ・出生の考えは無いが、(2)アンチ・出生/アンチ・生の立場は非常に共感できるし、その矛先が人類全体に向かって、「じゃあ、人類が滅びの方向に向かってしまえばいいんじゃないか?」という風に変容していくのも非常に納得できるというものである。(1)についてはすでに述べたので、(2)についてもう詳細に付き合っていただきたい。


▶宇多田ヒカルと「否定的なもの」

 僕は一部の流行歌が苦手である。彼ら/彼女たちは何年も何十年も、綺麗事に塗れた底の浅い歌詞の数々をたれ流し続けている。そのくせ、「僕たちの音楽のチカラで少しでも聞いてくれるみんなに元気を与えられれば……」などと宣っているからやりきれない。J-POPの世界では、「否定的なもの」の存在とそれに対する肯定は基本的にご法度だ。どんなに暗い歌でも、帳尻を合わせて「まぁそれも人生」「明日があるさ」等と何の足しにもならないような凡庸な言葉を付け加えている。

 ところで反出生主義と聞けば、たとえばある世代の人々にとっては鬼束ちひろの「月光」が想起されるのではなかろうか。

「この腐敗した世界に堕とされた/こんなもののために生まれてきたんじゃない」[1]

凄まじい形容である。デビューと同時に大ヒットの道を歩んでいった鬼束ちひろ自身もJ-POP文化の洪水と濁流に悉く飲まれていたのだろうが、それにしても彼女の歌う世界観はあまりに特徴的だ。鬼束ちひろは「否定的なもの」をそのままの形で美しく歌い上げる。彼女は綺麗事を書かない。むしろ、それに対する反旗を掲げる。

 否定的なものを否定的なもののまま、歌詞(詩)に書きつける――僕はとりわけ宇多田ヒカルをその代表格に上げたい。「誰かの願いが叶うころ」は、世界における虚無的な無秩序を歌っている。

「誰かの願いが叶うころ/あの子が泣いているよ/そのまま扉の音は鳴らない」
「あなたの幸せ願うほど/わがままが増えていくよ」[2]

世界は綺麗事(「一見」肯定的なもの)ではない、合理的ではないし、むしろ誰かが幸せを手に入れたときに隣人は絶望の淵にいるほど、無秩序で虚無的でもある。
 直接的な「反出生主義」ではないかもしれないが、宇多田ヒカルでいえば「Be My Last」も素晴らしい歌である。

「母さんどうして/育てたものまで/自分で壊さなきゃならない日が来るの?」
「Be my last/どうか君が/Be my last」[3]

 この歌は、例えば飼っていた動植物を死なせてしまったという風に連想したり、あるいは母が育ててくれた自分を、自身の手で破滅させなければならない、といったりしたような事を言っているようにも読める。どちらにせよ、思わずぞっとするような深淵が哀しいメロディに乗って見え隠れする。宇多田ヒカルもJ-POPの歌手とは次元の違う存在である。

 ここまで歌の話を書いてきたが、要するに反出生主義も、「否定的なもの」の概念に絡めとられている。そして、否定的なものは忌み嫌われる。反出生主義も、「人生って楽しい。生まれてこなければよかったってなんだよ。人生はこんなにも素晴らしいじゃないか!」という言葉に気圧されるであろう。

 しかし、僕が主張したいのは、「否定的なもの」は「無価値」などでは決してないということである。むしろ、肯定的なもの/否定的なものという二項対立は、価値/無価値の図式に当てはまらないのである。しかし、実際には「肯定的なもの」――ポジティヴな性格、社交性を持っていること、財産があること、恋人やパートナーや子供がいることなど――は「価値のあるもの」とされている。これを《規範》と呼ぼう。……ポジティヴになろう! 婚活してパートナーを持とう! もっと社交的になろう! などといった言説は、強力な「力」を持っている。それはある人々たちをうんざりさせたり、抑圧したりする。
 しかし、繰り返し述べるように、「否定的なもの」は全く「無価値」ではないのである。むしろ、「否定的なもの」は「(一見)肯定的なもの」以上に「力」 power を有している。 反出生主義や宇多田ヒカルの”Be My Last”が「否定的なもの」だとするのなら、それらは強大な力を有しているのである――。

(2)に続く


[1] 歌詞はUta-Netによる。鬼束ちひろ/月光 https://www.uta-net.com/song/12541/

[2] 歌詞はUta-Netによる。宇多田ヒカル/誰かの願いが叶うころ https://www.uta-net.com/song/18983/

[3] 歌詞はUta-Netによる。宇多田ヒカル/Be My Last https://www.uta-net.com/song/31252/

セリーヌ、カフカ、アルトー、大家健三郎、そしてカフカとブランショのように。