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規範・権力・価値/否定と肯定ーー生まれてこない方がよかった……(2)(3)

前回:宇多田ヒカルと否定的なものーー生まれてこない方がよかった、いっそ死にたいという想いについて(1)


規範・権力・価値ーー生まれてこない方がよかった、いっそ死にたいという想いについて(2)


■規範と権力

ところで、反出生主義は「否定的なもの」である。なぜならそれは「反」anti という力を有しているから。しかし、「(一見)肯定的なもの」と「否定的なもの」は「有価値/無価値」の図式にはスライドされえないということを(1)の記事で触れておいた。有価値/無価値とは、例えば、出生を言祝ぐことは良いこと(価値のある事)であり、出生を呪うなんてひどいこと(無価値な事)だ!というような二項対立で考える思考様式の在り方である。
 ここでは、価値/無価値の二項概念をいったん忘れ去ろう。僕たちは否定的なものそれ自体の本質を見極めなければならない。

 現代社会においては、(一見)肯定的なものは、《規範》へと姿を変化して、否定的なものを抑圧してしまう。それはとりもなおさず(ミシェル・フーコーを想起しよう)「権力」という力の作用のなすわざである。この際の権力は、国家権力とか家父長的権力と呼ぶ際のものというより、人々の「考え方の傾向性」や「行動様式」に微細にわたって影響を及ぼす力なのである。それを《権力》と表記しよう。ところで《権力》はマジョリティ(大多数の)権力でもある。《規範》――なんでもよいが、「歯はこまめに磨きましょう」といった常識的な指令や「清く正しく美しく」といった標語などもそれにあたる――は、世間の「空気」を形成し、もしくは大多数の人々の行動様式を決定する。《規範》はマジョリティの人々を作り出すのである。
 この《規範》という概念をもっと他から区別するために、《法》という概念と対比させてみる。
 《法》とは、実際の刑事罰・民事法などの法令のほか、慣例やマナーといったものの総合名称である。さて、《法》の実体は、(根本的には)社会のルールとして働く「機能」であり、そこに権力作用であるところの《規範》との最大の違いがある。《法》は単なるルールである。「人を殺した者は死刑または無期若しくは5年以上の懲役に処する」という殺人罪の規定は、他者を殺めてしまった人は司法手続きによって罰するし、そうでない者は殺人罪の規定から外れるという(ごく当たり前の)プロセスである。要するにふるい分けである。
 もちろん、《法》も大きく人々の行動様式に影響を与える。殺人罪の規定があることによって「人を殺したら自分も酷い目に遭う」という意識を働かせて未然に罪を犯そうとする意志を摘み取る。しかし、日本においても法令は延々と改正され続けることからして可変性を有する。《法》は常に可変的である。ルールは突然変わることがある。たとえば、二車線道路の左側を通行しなければならないことに、あまり大した意義はない。右でもいいのである。慣習で左側通行となっている。別に、それは右側通行でもいいはずである。ただ慣習は突然には変えづらいので、左側通行と定められているだけで、このときの道交法は単なるルールとして働いているだけである。
 それに対して、マジョリティを形成する《規範》は不可変的である。《法》の実体は「ふるい分け機」であり、f(x)のような「処理ボックス」(xに任意の値を代入すると答えが出力される)にしかすぎないのだが、《規範》はいつの時代でもつねに同じような考え方と行動様式を有する(傾向性のある)大多数の人間=マジョリティを形成するのである。そういう意味で、《規範》とはマジョリティ(を形成する)権力なのである。
 ここまでまとめると、現代社会において「(一見)肯定的なもの」――明るい性格を標榜する空気、綺麗ごとを良しとするテレビの世界、お金はたくさんあるほど幸せという考え方等々――は、《権力》を手にする。若しくは手にしてしまっている。そして、それはとりもなおさず現代社会の《規範》の姿なのである。

■力という概念もしくは価値について

 なぜ「(一見)肯定的なもの」は《権力》を手中に入れ、《規範》へと化してしまっているのだろうか? ここではもう一度立ち戻って「否定的なもの」について筆を進めてみよう。

 否定的なものは、《反》という純粋な”力”をもつ。何に対してアンチなのか? 《規範》《権力》作用に対してである。純粋な力は世間を統制する《規範》と、大多数の人々=マジョリティの《権力》に対して「抵抗」する働きを持つ。権力と抵抗の主題である。
 本当は、真実とは、否定的なものをこそ「肯定」しなければならないのだ。 ありとあらゆるものは逆さまになっており、一見肯定的に見えるものをこそ否定し、否定的なものをこそ肯定しなければならないという思想が必要なのではなかろうか。あらゆるものは転倒しているのである。だが、僕たちはニーチェに倣って、全てに対してYes!と言うのが最善なのであろうか……。しかしそれは実際にはあまりにも難しい。
 ……以上少し述べたように、もちろん「肯定的なもの」も力を有するのである。「否定的なもの」も「肯定的なもの」も力であり、「価値ではない」のである。僕たちは、価値という概念を捨て去り、力という概念をこそ信望しなければならないのだ。

 そして、《規範》とは、「有価値/無価値」の概念を形成するシロモノなのである。そこで、同じ「力」という産物を根っこにする「肯定的なもの」と「否定的なもの」は価値あるもの/無価値なものというレッテルを貼られてしまう。こうして、「肯定的なもの」は見かけだけの「(一見)肯定的なもの」へと転換し、無価値のレッテルを貼られた「否定的なもの」は抑圧されてしまうというわけである……。
 僕たちは、《価値》《規範》の概念こそを批判しなけれならない。そして、それらを乗り越えねばならない。


否定と肯定ーー生まれてこない方がよかった、いっそ死にたいという想いについて(3)


■否定の否定、肯定の肯定

 (一見)肯定的なものとは、マジョリティ権力が作り出した、「価値のあるもの」であり、それがゆえに肯定的である。自画自賛である。そしてその価値観は、反対の極を「否定的なもの」として押し込め、それに「無価値」なものというレッテルを貼る。
だから、最初から「否定的なもの」の中に絡めとられた自殺願望、消滅願望、無気力、怠惰、鬱などは、(一見)肯定的なものに勝利することができない。
それか、むしろ、ある自己を取り巻く外的な状況(突然裕福になったとか、心配事が予想外にも消えたとか)の変化によって、やはりその人は(一見)肯定的なものの世界に戻ると思われるのだ。そして、その場所から、鬱の時期や、自分の無気力な状態を、「一時的なもの」、「例外」として捉えるであろう。そして、また外的な状況が変化して、ふたたび鬱や自殺願望に囚われたとき、その人はそれらの状況の中から自発的に、内的に脱出することができない。
否定的なものを「肯定」することは、難しい。それは結局、否定し続けること、「否定の価値」が、肯定に抗えないからではないか。だとすれば、否定の地位を復権させることが、とりあえずこの考察の目的である。《規範》、マジョリティ権力に絡めとられた人は、否定的なものを否定することしかできない。肯定的なものを(一見)肯定することしかできない。「能」がない。

あとあと探求の対象になるかもしれないが、それでも「能ある人」になるのは難しい。しかし、(一見)肯定的なものを(一見)肯定することしかできない人、否定的なものを否定することしかできない人、つまり外的な状況に左右されるしかない人は、自ら「思考する能力」を放棄している。まずは、この思考する能力を目指して、考察を完遂したい。そのために必要なことは、否定的なもの、ひいては概念としての「否定」をある方向から徹底的に考え尽くすことである。

■自己否定感の現象学

 本稿では後にドゥルーズのニヒリズム論・否定論を足掛かりとして考察を進める。ドゥルーズが希死念慮や自己肯定感について直接的に(かつ分かりやすく)定義してくれていたならば、一番話が手っ取り早いのだが、辛くもそのようなキャッチーな概念はドゥルーズの時代にはない。したがって、ここでは橋渡し的な考察を加える。

 そもそも、「生まれてこない方がよかった、いっそ死にたい」という想いは哲学的にはどんな態度なのだろうか。それはとりもなおさず主体性の危機、消滅の始まり、あるいは減少や欠如に関することなのではないか。自己-肯定感という言葉が膾炙しているのならば、ここでは「自己否定感」とでも呼ぶべきものである。
 自己肯定感や自己否定感はとりもなおさず”主体”という概念と関わっている。自己肯定感は、自分が社会や周りの人間にうまくフィットしていることを土壌とするように思われる。そうした土壌(立場)の安定性に支えられて、さらに自己が自己実現に向かって目覚ましい活動を魅せているとき、その人の「肯定感」は最大値を打ち出すのではなかろうか。
自己-否定は、おそらく、自己と社会(あるいは半径〇〇メートルの世界)との間に心理的な齟齬が生じ、自身の立つ場に不安定性がもたらされることから始まる、と言えそうだ。そしてその中で、次第に自分自身を追い詰めていくのである。周りと調和できない自分はなんてダメなやつなんだと。

 主体性というものは、《哲学》なしではほとんど葦のようなものに過ぎない。主体とは空虚であるという逆説から議論を始める哲学者もたくさんいる。そこで、周りの人間やモノ、ひいては社会や共同体といったものとの関係性の中で、主体にかかずらう手間暇を忘却させる。調和がとれている間は、自己肯定感は問題にならない。これは、単なる肯定、(一見)肯定的なものに追従する”普通”の人間の価値観だ。まず人間の諸々の価値観があって、それから主体性が生まれるのではなく、主体というものを半ば忘却される形で単に肯定(あるいは判断停止)することで、そこから(一見)肯定的っぽい諸々の道徳観念が生まれるものだと考えられる。
 (一見)肯定的なもの、具体的には親孝行という概念や、清く正しく美しくといった標語は、単なる自己肯定感に根差している。自分の存在を単に肯定しているからこそ、そうした美徳が生まれる。「悩まない人」と言ってもいいかもしれない。
 自己肯定感の欠如や否定を抱える人は、「悩める人」である。ここに、鍵というか、希望がある。しかし、その希望は、危険なものだ。希望とその限界については、ドゥルーズを参照する際のほとんど最後に述べられるだろう。
 自己否定感に悩まされる人は、何らかのきっかけで周りや社会と調和がとれるようになった途端、自己否定という観念自体を忘却するかもしれない。しかし、周りとの関係性は現代においては特に不安定なものだというのが、現代社会の真実の一つではなかろうか。主体を外部との関係で自律させるのだとしたら、それは偶然性のもたらす契機にすぎない。その人は、またなんらかのきっかけで不調和を起こすと、ふたたび自己否定に囚われるだろう。原因(理由)なき自己-肯定と自己-否定の繰り返し。本論はそうした哲学抜きの半出生主義の暴走にひとまずのストップをかけたい。

 さて、自己否定感は主体性の欠如、一般には「否定」の観念に含まれることが分かった。ところで、虚無主義ニヒリズムとはなんだろうか。主体性が空っぽ、自分自身には何もないという空虚感をおぼえた今、それを世界観に逆反射させる装置あるいは考え方である。一切は虚無だ。しかし、ニヒリズムという人口に膾炙した言葉だけでは、考察は十分に進まない。自己-否定はニヒリズムにつながり、やがてそのニヒリズムは希死念慮や自殺願望をもたらすだろう。これではあまりに通俗的すぎる。
そこでドゥルーズのニヒリズム分析に登場してもらいたいのだが、ここで述べた「自己肯定感」について少しばかり執拗に繰り延べなければならない。


(4)につづく

セリーヌ、カフカ、アルトー、大家健三郎、そしてカフカとブランショのように。