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全解明編・国宝金印『漢委奴国王』…研究者たちが解明できなかった謎

 国宝金印『漢委奴国王』については、西暦1世紀の東アジア情勢を読み解くことによってほぼ全容が解明できた。
 実は、この金印が示すものは、日本の奴国と中国後漢・光武帝の間のヒューマン・ドラマであった。
 ここでの説明は、
1.『奴国』の読みについて
2.中国の西暦1世紀頃の情勢と社会的変化
3.奴国とはなにだったのか
4.恐るべき『奴国朝賀使節』のヒュューマンドラマとグレート・ジャーニィ
5.魏志倭人伝に示された多くの『奴国』達
の流れで説明しよう。
それでは、まず
★1.『奴国』の読みについて
 これまで国民的に暗誦させられたのが、読み【な(の)くに】であった。
明治時代に三宅米吉博士(東京教育大・現筑波大の初代学長)によって提唱された。
 それ以外にも『委奴国』で【いとこく】とする人達もいた。
 しかし、中国によって使われている漢字には『読み』があり、通常の『漢和辞典』には、古代からの中国各地の読みが網羅されている。
 それによれば、
 ・【奴】の読みは、ヌ、ドであり、ナとは読まない→『奴国』は、   
  【ぬこく】と読むべき
 ・【奴】の意味は、
  ①やっこ…奴隷、罪人、捕虜やその子女で役人に使役される人
  ②やつ。自分または他人をさげすんでいう語
  ③動物・植物・器物などの名の下につける語 
である。
 この奴国の場合の『奴』は、明らかに上記の①奴婢・奴隷の意味が正しい。
(もしそのほかの読みを主張されるなら、【な】【と】で良いとする根拠を示さなければ単なる思い付きであり、研究レベルの話にはならない)
 さて、こう考えれば容易に『奴婢・奴隷』達(が造った)国と考えるのが妥当であろう。
★2.中国の西暦1世紀頃の情勢と社会的変化
 西暦1世紀には、
 西暦8年ー23年 短い期間であったが、【新】という国が【王莽】とい 
 う国王(じつは王の血筋ではない)が支配した。
 王莽は極端な『復古主義』を持ち込み、国内で『奴婢・奴隷制』を固定し
 た。かれらの売買を禁止するなどである。
 しかし長くは続かずに
 西暦23年ー 光武帝が【新】を倒して『後漢』が成立する。
 光武帝は人口の減少もあり、
 ・光武帝は奴卑解放および大赦を数度にわたって実施し、自由民を増加さ
  せた
 奴婢を庶人とする詔は何度も出ている
   ・建武六年(AD30)十一月、『新・王莽』のときに奴婢に落とされた
    者のうち、旧法での罪に相応しない ものを庶人に戻した 
   ・建武七年(AD31)五月、
   ・建武十一(AD35)年六月、
    「天地之性、人為貴。(この世界においては、人であることが尊
     い)」で始まる詔を発し、奴婢と良民の平等を宣言しました。
   ・建武十二(AD36 )年三月、
   ・建武十三(AD37)年十二月、
   ・建武十四(AD38)年十二月   
 と詔を下しています。
 要するに積極的に『奴婢・奴隷解放』を推し進めたのです。
 ここからは、解放された『奴婢・奴隷』たちがどうしたか?です。
★3.『奴国』とは何だったのか?
  当然、中国各地で解放された『奴婢・奴隷』達は、新たに農業に従事し
 て生活を営まなければなりません。
  しかし人数が多ければ容易に農業用地を確保することは困難だったでし
 ょう。
  結果的には、『新天地』を求めて国外に出る人達もいたに違いありませ
 ん。
  中国から海を渡って船出した人達は、黄海を経て九州北部に到達した人
 達がいたのでしょう。九州北部は農業に適していたことは当時の遺跡が示
 す通りです。
  現在では、奴国が九州北部博多湾東南部に比定されており、ほぼ間違い
 ありません。
  そう、『奴国』とは、中国で後漢・光武帝によって解放された奴婢・奴
 隷たちの新天地・新国家
であったはずです。
★4.恐るべき『奴国朝賀使節』ヒューマンドラマとグレート・ジャーニィ
  さて、中国史書によると、
  — 『後漢書』光武帝紀第一下
   『建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武
    賜以印綬』
   【読み下し】「建武中元二年(西暦57年)、倭奴国が貢を奉り朝賀
    す。使人は自ら大夫を称す。倭国の極南界なり。光武は賜うに印綬           
    を以ってす」
   これは、解放された奴婢達が感謝の意を込めて新年の挨拶に洛陽まで
   赴いた。なお、【朝賀】参内して新年の寿詞を述べることです。
 ここで、奴国朝賀(正月に後漢の朝廷に赴いた)の足取りを見てみましょ
 う。 下図はその一つの旅程想定図を示したものです。

朝賀使節の足取り(想定図)

 なんと、九州北部を出発して中国大陸内部にある首都『洛陽』までの旅
(グレート・ジャーニィ)を正月前後(冬もあり)に行ったのです。
 おおよその距離は、片道3000㎞弱という当時としては信じ難いほどの旅であったのです。
 おおよそ、片道に60日は必要だったでしょう・
 朝貢だけであれば、『帯方郡』でも良かったのですが、何か特別な事情があったのでしょう。
 ここでは、想像を逞しくしてみましょう。
『光武帝によって解放された奴婢・奴隷達が感謝を込めて新たな国・奴国から報告と挨拶に向かった』
と考えられるのでは無いでしょうか。
 まさに当時の人達のヒューマン・ドラマがこの国宝金印『漢委奴国王』に隠されていたのです。
 微笑ましいホロリとさせるストーリーがあったと想像されます。
 金印が偽物とか、多くの議論もありましたが、歴史を丹念に調べれば、あまりにも浅はかなものっだたのでは無いでしょうか。
★5.魏志倭人伝に示された多くの『奴国』達
 魏志倭人伝には、実は『奴国』と名のついた国が多くあります。
『倭人伝』から、
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
   次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國  
   次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
   次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 
   次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國          
   次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
結構多くあります。
 これ以上は分かりませんが、当時の歴史・社会が垣間見えたように思えませんでしょうか。
 新しい国宝金印『漢委奴国王』秘められた謎を解明してみました。


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