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歴史の謎に挑んで思う事

 ここ2年ほど歴史上のミステリと呼ばれるテーマに自然の流れで取り組むことになった。
 これについて筆者がとり得る武器は科学的に根拠を積み上げて合理的に説明できるか、であった。自分を説得できるか…このストーリで。この反復で精度を高めて行った。
 
 もちろん、歴史とはいえ、現実に起きたことであり、その起きた理由は必ずあるし、自然の法則に反するものでも無い。その意味では、根気よく丁寧に探求していけば必ず解に導かれるはずではある。
 しかし、経験的には謎解きが終わった時に思うのは、必ず解に至る道筋に導いてくれる切っ掛けと言うものがあることである。
 
 例えば、前著「千年後に迫り来る 大洪水」では、奈良天理市の石上神宮を訪れたことであった。珍しくそれまで真剣に読んだことも無かった「日本書紀」をめくった時に「石上」という語に目が留まった(本note掲載)。
 次は、知人が「鼻をへし折ったイルカの大量死」の話について語った。実は、この話は「古事記」に記されたものである。
 
 ことほど左様に、歴史を著した古代の書は、見事に背景の情報を教えてくれる。
 思わず、『温故知新』という中国古代の言葉を思い出した。
 実に臨場感のある情景が描かれていることに改めて驚くのである…そう、古代のリアルな情景を我々の眼前に見せてくれるのである…日本書紀や古事記は実に見事な記録・ドキュメンタリである
 
 これらを軽んじる風潮はいかがなものか…。
 
 もう一方で、
    謎は謎のままで、ミステリは解けないからミステリ…
と言った個々人の想像力まかせの楽しみを奪うような気もする。科学は説得力はあるが、種明かしされたマジックのように詰まらなくすることもある。
 
 神風ではなく台風だった…と言われても気象現象であると言っているだけに過ぎず、その瞬間になぜ台風が来たのか、それが問題だ、と言う主張も頷ける。
 ではなぜ謎を解き明かそうとするのか、人間は。うまくいけば機械に利用できる、失敗を減らせるなどの効用があるかもしれないが、それによって恩恵を受けるとは限ら無いような気もする。
 
 だから解を知りたい、というより、そこに謎があるのでチャレンジする…それだけでいいのだろう。
 手に入れた恋人とどう付き合っていくか?難しい問題である。


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