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村上万葉の考え事

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美術作家、村上万葉の考えごと。過去作や制作について言葉にしてみようという試みです。
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記事一覧

「見えない身体」(10/21〜23)

「見えない身体」(10/21〜23)

2022年10月21日から23日まで、神泉のR for Dというお店で展示があります。今回の展示は∴ (therefore)というキュレーターコレクティブの丹羽惠太朗さんよりお誘いいただき、参加することとなりました。一緒に展示する成定由香沙さんは、建築を専門とする傍ら映像インスタレーションや写真作品を制作されています。

展示の詳細はこちら

「見えない身体」というタイトルは私と成定さん2人の作品

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存在の変容について(名字のはなし)

存在の変容について(名字のはなし)

私の作品にとっておそらく一つの重要な要素になっている話を少しまとめてみようと思います。

私は両親の離婚の影響で、高校生のころに名字が変わりました。
ひとつ前に書いたnoteで一人称の話とともに、他者からの呼ばれ方について少し触れましたが、名字は人から呼ばれる機会も多いためか、変わると特に自分を形成する重要な何かを奪われたような感覚に陥ります。
ある日を境に、公共の場で、知り合いに違う名前で呼ばれ

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わたしがぼくを呼ぶ

わたしがぼくを呼ぶ

一人称の話をします。
私の現在の一人称は「わたし」です。「わたし」という一人称は本当に便利です。特に気に入ってはいませんが。
さらに幼い頃、私の一人称は一時期だけ「ぼく」でした。

いつからいつまでそう呼んでいたのかは特に覚えていません。「ぼく」と言うことに関しては親から指摘を受けた記憶もありません。なぜ「ぼく」だったのかも分かりません。私にとって「ぼく」という言葉は不自然ではなく、多くの人が自分

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視線を、脱ぎ捨てて

視線を、脱ぎ捨てて

2020年10月31日から11月3日、虎ノ門にあるCurator’s Cubeというスペースで個展「脱ぎ捨てられた視線」を開催しました。ご来場いただいた方々ありがとうございました。

今回の個展で発表した作品は、愛媛のオズハウスにレジデンスで滞在していた際に制作した「オドラデク(”Odradek”)」というシリーズに引き続く形で制作したものです。

Odradek
「オドラデク」とは、カフカの短編

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ティースプーン一杯の水を — 差別と向き合うために小さな声をあげる

ティースプーン一杯の水を — 差別と向き合うために小さな声をあげる

アメリカで起こった事件を発端に差別に関する様々な意見や文章を目にするようになりました。私も自分なりに差別について考えてきた経験があるので、今考えていることや思ったことを文章にして残そうと思います。
この文章では差別意識について私が考えていること、また昨今の状況で直接会って対話できない人たちに伝えたいことを記します。

私は被差別部落の血を引いています。
上京して美大に進学し、大学2年生の頃受けた授

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距離、 見えないもの 見ていたはずのもの

距離、 見えないもの 見ていたはずのもの

3月20日、私と福田由美エリカは展示を見に行った帰りにハンバーガーを食べながら今後の制作について話し合った。会う数日前に彼女からアメリカの大学院に合格したことを聞いたため、「離れていても共同でできる作品作りとは何か」が私たちの会話の起点だったように思う。そこから「継続可能な制作の形」が最も大事だという結論に至り、二人が共通で毎日とっている行動について探し始めた。そうして私たちは互いに毎日川沿いを散

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男性作家にも女性作家にもなりたくない

今回の投稿は最近私がしばしば考えていることであり、気にかかっていることです。

私は自分自身のことを女性とも男性とも思っていません。このことに明確に気が付き周りにも話せるようになったのは最近です。
中高は女子校で過ごしたのですが、当時はジェンダーについてほとんど意識せずに過ごせていました。大学に入って久しぶりに共学という環境に身を置き、私は女として見られているのだなと感じることが増え、少しずつ、し

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鏡としての作品

鏡としての作品

前々回の投稿まで私の作品の変遷について語っていました。今回の投稿では私が現在作っている作品についての話をしたいと思います。 

私は全ての作品をなるべく素手で道具を介さずに作り、作品と呼ばれるものたちに自らの手の痕跡や行為の跡を直接的に残すようにしています。そうすることで私は目の前の物質に自分の身体の一部を分割します。
身体を「もの」に分割するということは、「物質」または「もの」の中の一部に別の形

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分かる / 分からない ということ

今回の投稿は最近起こった諸々のことから私が個人的に考えていることです。前回の投稿に引き続くものではありませんのでご了承ください。

2019年9月26日、文化庁があいちトリエンナーレ2019に対して「補助金適正化法第6条等に基づき、全額不交付とする」と発表しました。この件から「大衆が分からない美術に対して公金を使えないのは当然だ」「公金を使うのであれば大衆が分かるものでなければならない」という意見

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立体で表現すること

立体で表現すること

前回の記事の中で、絵の具という物質の流動性に着目しながら絵画制作をしていたと書きました。物質を扱う限り、私はその流動性を活用することができます。よってこの考え方は自然と立体制作にも引き継がれていきました。

立体作品の制作に移行し始めたばかりの頃は、任意で選んだ素材が手を加えることで別の質感を持ち、別の存在へと変化していくとこに興味を持ちます。
無機質な既製品としての素材を「有機的な生命体、または

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私にとっての絵画

私にとっての絵画

前回の投稿に引き続くような形で、今回は私にとっての絵画とは一体どのようなものなのかについてお話してみたいと思います。

一般論としての「絵画」は、キャンバスもしくは紙などの平面的な面を持つ支持体に「絵」が描かれているものを指していると考えています。具体的には、「絵」の内容は具象画・抽象画に限らず、平滑な面に絵の具が乗っていてかつ表面に乗った絵の具(または「絵」)のみで作品として鑑賞可能なもののこと

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絵を描くこと / 立体を作ること

絵を描くこと / 立体を作ること

大学入学当時、私は油絵作品ばかりを制作していました。絵を描いていた理由としては、大学受験のために長い間絵画制作のみに打ち込んでいたが故にその他の技法や形式に挑戦しないままになっていた。と言うのが正直なところです。こういった状態は大学に入学したばかりの美大生において多く見受けられるものかと思います。
かと言って私は絵画以外の何かに挑戦してみたい!という強い思いに駆られていたわけでもなく、ただ四角いキ

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美術をやること

私は小学生の頃から油絵を描いていました。
当時は美術や表現というものをほとんど理解していなかったと思います。幼い頃ならば問われないものの大学卒業後まで作品を作るとなると、どうして続けるのか、何のために続けるのかと問われるようになります。

なぜ私が美術をしているのか。美大を卒業してまで美術に関わろうとするということは、単純に趣味として物を作って売りたいわけではありません。小学生の頃の延長とも言えま

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美術作家になるために

前回の投稿からかなり時間が空いてしまいました。
このmistaken identityのページを運営している作家の一人である村上万葉です。私は今年の3月に武蔵野美術大学油絵学科を卒業しました。
現在は美術関係のアルバイトを二つ掛け持ちしながら、美術について考えたり、どんな作品を作ろうかと悩んだり、展示やトークショーに出掛ける日々を送っています。そんな中でこのmisataken identityのペ

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