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図書の国

 そこは古い和紙と墨の匂いに満ちていた。
 図書の国、謡本地区――驚くほど小さく特殊なこの地区は日本という国の能文化のためだけに存在する。謡本は能の声楽部分の稽古用の本で謡曲の詞章や節付を記した本だ。
「謡本の存在すら知らなかったのに何でここなんだ」
 男は眉間に皺を刻みながら抑えられない気持ちを吐き出すように悪態をついた。恐ろしく早足で颯爽と歩く不機嫌そうな気配に近くにいた和装の人々が一斉に道をあける。
「管理局の人間も作家と名乗った途端ねほりはほり詮索し過ぎだ。おかげこんな遠回りをする羽目になった」
「身分詐称がバレて足止めされるよりましですよ」
 どこからか聞こえる声に男が立ち止まる。
「確かにそうだが。せめて民俗学や宗教学地区なら魔術に関連する本があったのに」
「物欲センサーが働いたのかもしれませんね」
「物欲センサー?何だそれは。新手の魔術か?」
 何もない空間に話しかける男。己に向けられる好奇の視線を全く気にせず彼はワスレナ草色の瞳を輝かせて続けた。
「名前からして感知魔術か?もしかしてあの魔女と鏡と林檎をいっぺんに――」
「し!」
 男の外套の胸元がごそごそと動き小さな顔が飛び出すと空を仰いだ。
「この香り……ゲンジュの樹だ。王子、できるだけ息を止めて風上へ!急いでください!」
 言葉の途中で既に走り出していた男は辺りを見回し舌打ちする。さっきまで彼を遠巻きに見ていた人々が次々と地面に倒れ深い眠りに落ちていた。
「あいつか」
「おそらく。乾燥させたゲンジュの粉末は火にかけると強力な入眠作用を持ちます。使い過ぎると幻覚症状が――」
 振り落とされないように外套にしがみ付き説明する小人の言葉をさえぎる、ビュンッと空を割く音。男の鈍く輝く灰色の髪をかすめ飛んだ矢は地面に深々と突き刺さっていた。
「邪魔だから眠ってもらったんだ」
 男の右斜め前方、屋根の上から声と共に一つの影が降り立つ。
「意外と早かったな」
「文化圏の違う地区ってのは便利で良いね。あんたみたいなよそ者はどこに居てもすぐ分かる」
「育ちの良さがにじみ出てると言ってくれ」
「ぬかせ」
 軽口を叩きながら距離を取る二人の間には冷たい緊張感が張り巡らされていた。辺りに動く者の気配はない。息を飲む音すら響きそうな時間に終止符を打ったのは襲撃者の方だった。
「王子、白雪の死体をどこに隠した」
「言うと思うか?」
「そういえばあんたは昔から強情だったな」
「お前にだけは言われたくない」
 ふと悲しそうに微笑んで、王子は一気に間合いを詰めた。どこか踊るような滑らかな仕草で抜かれた剣はその動きを読んでいた相手の宙返りにかわされ空を切る。着地と同時に短剣を投げる襲撃者、返す剣でそれを叩き落とす王子。
「なぜ王妃についた」
「……」
「応えろ!」
 相手に気持ちを叩き付けるような声だった。それは王子が感情の揺れに支配された一瞬。襲撃者は彼の外套を力いっぱい引き寄せるとその勢いと自分の力を合わせた掌底打ちを王子の鳩尾に叩き込んだ。同時に走るビリビリした激痛に、王子はこれがただの体術でない事を知る。
「ぅぐっ」
「そういう所、本当に変わらないね」
「王子!」
 痛みに顔を歪ませたまま声の方へ視線を向ける王子は、そこで自分の胸ポケットに潜んでいたはずの小さな友人を見付ける。
「こいつは預かっていくよ。少し頭を冷やして考えるんだ」
「待、て……」
 世界が揺れている。そう感じたのを最後に王子は意識を手放した。

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