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翳に沈く森の果て #5 家

 「数十年。人生の中で古い時代のことは正直言ってはっきりと覚えていることが少ないかも・・楽しいことが少なかったのか、いつの間にか重苦しい記憶が楽しい記憶の上に堆く積み上がってしまったから埋もれてしまったのか・・?」璃乃がそう言うと、

「古い記憶、思い出せることはある?」繭は肘を膝に乗せ足元を見ていたが、少し顔を上げて星々のような幽光が映し出すまるで蛇の大群のように重なり合っているうねりや枯れ草を見つめて言った。


「とにかく・・父親がね。なんかめちゃくちゃだったね。」と言う璃乃の言葉を繭は聞いて少し口を結んだ。


 父は璃乃が小学一年生の時に、会社に入ってからそう時間も経たないうちに独立したと母に聞いていた。たしかに、入社して数年で独立など簡単なことではないし家も買って小さな子供を抱えるという状況なら、大人になった璃乃にも父の大変さはいくらか想像はできる。けれど今のように父の苦労を想像できる年齢になるまでは子供にとっての親は信じるべき唯一の大人だった。ところが記憶の中にある小さな璃乃にとって、当時の父という人は頻繁に母に大きな声をあげている人だった。璃乃は言った。

 「よく憶えている光景がある。小学生の頃、父が大きな声でよく母に怒鳴っていて、それでも母が反論するようなところは見たことがなかった。母はいつもそれ以上父が気分を害さないように、ひたすら受け止めていたのか受け流していたのか、長く耐えていたっていう記憶。本音はあっても口ごたえ、みたいなことは記憶になくて。一方的に父が大声を出し続けるという状況が頻繁に起こる日常の中で、幼かった自分はこの場を収めるにはどうしたらいいのか、何かできることを探してた頃があった。子供だったけど、なんか心臓が軋むような感じで、辛くて父が同じ空間にいる間は常に張り詰めてた。小さい頃の大半は恐怖とか圧力に苦しんでいた記憶で埋められてる気がする。」

 繭は璃乃の話を聞きながら少しも動かなかった。

 璃乃は続けた。

「それで、ある時父があんまり怒鳴って『お前は2階に上がってろ』と言われたのか、自分の部屋に行ったけど聞こえなくなるわけでもないし、心が痛かった。聞こえないようにすることもできたけど、それは逃げるみたいで嫌だって少し迷った。『罪悪感』だった。母が一人で怒鳴られているのが申し訳なくて。そのとき自分に出来ることは一緒に聞いてあげることしかないと思ったから、父が怒鳴る声を階段で聞くことにした。階段の上から5段ほど降りるのが限界だったけどね。それで、そこに座って母が怒鳴られている声に、耳を塞いで身体に入る量を調整しても聞こえてくる父の大きな声に耐えながら泣いてたな。自分の存在が悟られないように、リビングに届かないように声を殺しながら。あの時はまだあのままそこで止まってる感じがするよ。」

 そして繭は言った。

「それは、最初にできた大きな繭かな。当時の自分にとって酷い日常だったのに誰にも頼れなかった。確か母には相当甘えたけど、母は綺麗なひとだったのに表情はいつも眉間に緊張感があって怖かった。色んなことでよく叱られたし、何が正しいのか何をどうすれば正解かわからない未熟な自分の存在そのものが申し訳ないと思いながら親の顔色ばかり見ている子供になってた。逃げ場とかそんな概念すらない幼い自分にとって家は牢獄だった。そしてそれは始まり。その時から自分がここでこの先の自分を守らなければって、必死に、生きてきた。」

 そう言い終えた繭の顔を横目で少し見てみると冷たくてとても怖い目をしているのが璃乃にはわかった。


 しばらくの間ホタルたちは沈黙を照らしていた。


 「ここは、随分暗いね。」

 「ほぼ光が届かないからね。」

 「地上がある?」

 「・・ここは璃乃が想像するよりたくさんの繭があるのは分かるね?」

 「う、ん。」

「人は怪我をすれば手当するし手に負えなかったら病院に行く。でもゲームと違ってダメージを受けるたびに人生をリセットできる訳じゃないし現実では次のシーンに行かなくちゃならない。そうして流血も骨折もしていないダメージなら当然手当されない。ときには消化できずに自分自身でさえ見て見ぬふりをして進むしかない。そうして動けなくなった自分をここで預かってきた。だからもし本当に璃乃がここに来るのが最後だと思って来たのだとしたら、この先に行くといい。これでもここは今夜が一番明るくなるからね。『根の世界』がどれほど大きいか、覚悟が必要だけど。今は知らなくていい。」

 そう言って繭は1メートル上がもう真っ暗で想像できない天井を見上げた。


 璃乃はこの場所に来るまでに未処理の案件たちに対して何年もどう向き合えばいいのか考え、何度も立ち上がりたくて再スタートしようと挑戦してきたけれど、あまりにもエネルギーを消耗するので挑むことにももう疲れてしまっていた。だからこれ以上疲弊することはないだろうし、もしまた砕かれるようなことがあったとしても、この先余程のことがない限りこの場所にはもう来たくない、「終わらせたい」という気持ちの方が大きかった。


 ただ、父という人は母と璃乃を時々旅行に連れて行ったのだった。どういう気持ちでどういう目的で「家族旅行」というイベントを開催していたのかは分からないけれど、知らない土地を知るということについて璃乃は楽しみを感じていたので、その度にひたすら何も起きないことだけを願っていた。多分母もそうだったはずだ。渦森家はほぼ車移動だったが、運転の荒い父のせいで璃乃は車酔いし、だいたい後部座席で寝ていた。そして各事件の詳細は記憶から抹消されているが、父の怒りのトリガーが多い上にわからなかったので、やはり行く先々で父の地雷に触れる出来事があると瞬間的に沸点に達して言葉を荒げ、母も私も毎度ただ萎縮し周囲の人の目を集めることが恥ずかしくて地獄を味わう、そんなスタイルが日常だった。家の中も外も旅行も、父がいる時空は緊張度の高い罰ゲームだった。


 活発だった自分を失った幼い璃乃は、小鳥のように小さく息をしている時間が多かったような気がする。実際父と接する絶対時間はそれ程なかったのかもしれないけれど、遠い記憶の大半は小さな鳥籠の中で押しつぶされるような空気に耐えていたという感覚だ。


 それに、璃乃には兄弟、姉妹がいなかった。

 だから誰かとのコミュニケーションを取るということにずっと慣れることができなかった。家にいて兄弟とふざけあったり喧嘩することもないからだ。自分の部屋の中でひとり絵を描いたりピアノの練習をすること以外はリビングでテレビを観たり親の顔色をみていた。小さい頃からひとりでいることは苦でもなかったし寂しくはなかったのだけれど、公園で遊んでから夕方に家に帰ることと、祖父母が遊びに来てくれて帰ってしまう時だけはとても辛かった。公園で一緒に遊ぶ子たちには夕方家に帰っても兄弟がいることがとても羨ましかった。そうして周りの子達とどう仲良くするのが正解なのかもよく分からないという思いがずっと溜まっていって、母に八つ当たりしたことがあったのだった。

「どうして兄弟がいないんだ!」と。


 兄弟がいなかった璃乃の母は優しくて怖い人だった。甘やかして育ててしまうから厳しく育てなくてはという愛情と、子育てそのものの難しさもあったはずで、そんな父のもとで、自分までとても苦労をかけてきてしまったなと反省している。

 そんな母からはいつ聞いたのか忘れてしまったけれど、璃乃にはふたつ上の姉がいたそうだ。確か分娩の段になって母体の体調が急変したのにその訴えを看護師が聞き流したために母は死ぬところだったということと、その時生まれてくるはずだった姉はそこで人生を終えたんだと。

 璃乃は大人になっていなかった自分にはそれがどれほど辛い出来事だったか、当時は今以上に想像することができなかった。計り知れない悲しみは、本人以外誰にも感じることはできない。姉の名前も決めていたし、親達が母にその子の顔を見せるのも、見せないのも辛いだろうと相当迷った末に、母と姉は対面することがなかったということを、さらに後になってから聞いた。

 そしてそのもっと後になって「本当は弟もいるはずだった。でも流行病のせいで生まれてくることが出来なかった」と母が言った。

 璃乃はそんなことがあるのかとその時は耳を疑った。母は母でひとり言葉にはできない程の悲しい記憶を抱えて生きてきたということを知った。そんな悲しみは何年たったところで消えるものではない。

 そうすると、急に新しい角度からいま生きていること、生かされていることについて表現し得ない思いがいろいろ湧き出るのだった。とにかく、璃乃はその話を聞いてなんで兄弟がいないんだと過去に母を責めたことをとても悔やんでいる。怒りをぶつけたとき、母は何も言わずに聞いてくれていたから。そのとき何となく母が「ごめんね、かわいそうなことしたね。」と言っていたような気がする。




 父がそんな性格になってしまったのは独立してからのことで(素質はあったのだろうけれど)、父は母に手をあげたこともあるらしく病院に行くと鼓膜が破れていたこともあったと聞いたときには、母にそんなことをするということが本当に理解できず、璃乃は父親を恨むようになっていった。


 父は会社から今晩の食事のメニューの指示をファックスで自宅に送るようになり、まだマニュアル車しかない時代、送り迎えをさせるために母は四十代で運転免許を取るために教習場へ通わされていた。そんなことは見るからに苦手なタイプの人なのに、今考えても気の毒すぎる。そうした苦労も虚しく駅に迎えに着く時間が父より後だった時はタイヤを蹴って怒鳴られた。

 璃乃が中学生の頃くらいには、母と璃乃を前に座らせてテーブルを叩きながら何時間も大きな声で説教のような話を延々とを続けるようになり、近所に対してもとても恥ずかしい思いをしたものだった。


 そんな家庭環境で、母も璃乃からも笑顔らしいものはさらに減って行った。璃乃は以前にも増して考えや感情を表に出せなくなり、人と関わることもしんどくなりますます難しい課題になっていってしまった。鳥籠から逃げたいという本能と、足りなかったものを少しでも早く克服して強く生きていかなければという強迫的思考とが激しくぶつかりあったままで、現実の学校生活というものは息苦しくなっていった。中学生になってからも璃乃は小さくて大きな世界の中で出口と答えを探し続けるも見つからず、何がしたかったわけでもないけれど、苦労して通わせてもらっていたはずの塾を時々さぼったりすることでしか足りない酸素を補給することが出来ない感じがしていた。


 中学のある美術の時間、水彩で色紙に自画像を描くという授業があった。

 手鏡を見ながら自分の顔を細かいところまでまじまじと見ながら色紙に書き写していった。絵は好きな方だった璃乃は思いのほかそっくりだな、と思ったと同時に「なんて暗い顔だ」と絶望したのを憶えている。ひどい顔だった。「アルバムの幼少期の無邪気な笑顔からたった数年でこんなにも暗い顔になってしまったのか」と。

 吹奏楽で音楽に触れて音の世界に集中している間は嫌なことを忘れることができたものの、人と関わることはずっと慣れないままで、暗いままに終わった。


 璃乃が高校生になっても家庭環境は変わらず、父が車で帰ってくる音がすると部屋の電気を決して息を潜めるようになっていた。それでも階段の壁を何度も叩いて降りてこいというのだった。その後食卓で説教?された内容はひとつも憶えていないし、時間にしてこの人生で無駄にした(耐えた)時間はどれくらいだったのだろうと考えると、もはや感情も分からなくなっていた。ある夜「誰のお陰で学校に行ってると思ってるんだ!」というようなことを言われたので、回答としては不正解で、倍返しがくるのを承知で「お母さん」と史上初のキレるという小さな事件を起こしたのだった。やめておけばいいのに。そうして母と璃乃は再び何時間か怒鳴られ続けた。


 璃乃は昔から低血圧症で朝は血がめぐるまでとても動けなかったが、関係のない父は大きな音を立てながら階段を上がって来て、何か言いながら畳んだ新聞で璃乃は頭を叩かれたこともあったし、頭皮が痺れて来たことがあって母に脳神経外科に連れて行ってもらったこともあった。


 ある時、きっかけは何だったか、また父の言動によって璃乃の限界を越えさせた時があった。璃乃は自分の部屋の窓ガラスを何かを投げて割ってやろうと思ったけれどさすがにやりすぎだと感じて、すぐ横にある部屋の扉に埋め込まれていた磨りガラスを右手の拳で割った。瞬間的に手を切るなと思ったので左手で少し右の袖を伸ばして庇ったつもりだったけれど足りなかった。正直怪我するならそれでもいいと思った一瞬の感情を憶えている。案の定親指の関節の皮膚を切ってしまい、アルバイトに出かける時間だったのに出血で休まなければならなくなり、バイト先に迷惑をかけた挙句父に病院へ連れて行かれるという、二度目の反乱は情けなく大反省する結末となった。その傷は関節ということもあって何度縫っても半年以上完治しなかった。ふやけて白くなっている皮膚はもうくっつかなくなり、このまま朽ちて治らないのかもしれないと長い間恐ろしい思いをしていた。どうやって治ったかは記憶にないけれど、今でも天気が悪い時に、特に梅雨時期には傷跡が鈍い痛みを発してくる。

 それにしても、感情を爆発させる「瞬間」にいろんなことを考えているところは、我ながら笑えるほど小さい人間だと情けなく感じつつも、父のような人間にはなりたくないということを学んでもいるとも思えるのだった。

 ただ、地球の中心にマグマがあるように、璃乃は心の中心近くにまだその熱量が静かに留まっていることを感じていなくもなかった。



「じゃあ、もう少しすると多少は足元も見えるようになってくると思う。ただ、絶対に無理はしないこと。いい?それだけは絶対。」

「わかった。」

「ヒメボタルが行く方へ。」

「そっか。ここは、綺麗な場所ってことよね?」

 繭は答えなかったが、璃乃の目を見た。相変わらず暗くてはっきりとは見えなかったが多分さっきほど怖い目はしていないような気がした。



 璃乃は「とりあえず、行ってくる」と言ってヒメボタルが照らす足元を確認しながらゆっくりと歩き始めた。数メートル行ったところで振り返ったけれど、暗くて表情まではわからなかったが、後ろ姿を見ていることはわかった。璃乃はそのまま足を前へ進めて行った。また会える気がしていたから特に何も聞かなかった。


 璃乃は踏み込めば沈む根や蔓たちで出来た足場に意識を集中させながらしばらく進むとその道は途端に細くなり、下り坂になって縄梯子でできた坂を降りるような感じで両手も使いながら揺れる蔓を掴んで恐る恐る下りて行ったりした。するとまた道が少しずつ広くなって続いていて、あらゆるスペースが周囲のスペースと繋がっている。ここまで進んで来て、この空間が何となく脳細胞の集合体のように複雑な立体構造になっているんじゃないかと感じた。しばらくして足場の感触にも慣れて来たところで別の光が上からわずかに降り注いでいるのを感じた。璃乃は立ち止まって上を見上げると遥かずっと上の方から僅かに月光が届いているようで、それは暗闇の中にいる璃乃の周りに漂っている霧をホタル達と共に少しだけぼんやりと照らすので、璃乃は夢の中にいるような気がして、ようやくすっかり疲れてしまっていることに気がついたのだった。

 それは疲れていて当然だ、とため息をついて少し休憩しようと大きな根に腰掛け、歪な根の壁にもたれて何も考えずに目を閉じた。考えてはダメだ。そうして数分か数十分かが経過して目を開けると少し月の光が増している気がした。
 「やっぱりなにも景色が変わってない・・」
 そう心で呟くと淡い光の中をひらひらと花びらのようなものが落ちて来ているのに気づいた。璃乃は身を起こして少し先の大きな根の上に着地したそれが根の間に落ちてしまわないように手に取ると、それは紙切れだった。そこには「234」 、裏返すと「233」とあった。








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