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平成のはじまりに東京で何が起きていたのか:90年代美術論(前編) 筒井宏樹

「アーリー90’S トーキョーアートスクアッド」展

「1990年代前半、東京で何が起きていたのか」。フライヤーのこの文言が「アーリー90’Sトーキョーアートスクアッド」展(以下、「アーリー90’S」展)の企画趣旨をよく示している。会田誠、飯田啓子、伊藤敦、岩井成昭、宇治野宗輝、大岩オスカール、オクダサトシ、小沢剛、鈴木真吾、曽根裕、竹内やすひろ、中ザワヒデキ、ナカムラクニオ、中村政人、八谷和彦、ピーター・ベラ―ズ、福田美蘭、松蔭浩之、MOJO WORKが出展作家に名前を連ねており、彼らが90年代前半に制作した作品を中心に本展は構成されている。

1F展示風景_1

1階 展示風景


加えて、「中村と村上」展、「ザ・ギンブラート」、「新宿少年アート」の記録写真や記録映像等も展示されることで、イベントやシンポジウムの様子、路上でゲリラ的に展開されたパフォーマンスなど、出展作品だけでは伝わりにくい当時の熱気が補われている。また、地下の会場は90年代資料室となっており、中ザワヒデキの保有する当時のマッキントッシュ・コンピューター群がひときわ目を引く。『美術手帖』や月刊漫画『ガロ』といった雑誌、「アノーマリー」展カタログや細見画廊で開催された展覧会冊子、フロッピー・アート・マガジン『JAPAN ART TODAY』等の資料が置かれている。そして特筆すべきは、本展キュレーターである西原珉(みん)が新たに関係者たちへ実施したインタビュー映像やその書き起こしが閲覧できることだろう。本展の取材協力・資料提供にはアズビー・ブラウン、池内務、神谷幸江、黒沢伸、小山登美夫、シェリン、白石正美、高石由美、林保太、パルコ木下、眞島竜男、米山馨が名を連ねている。一般からの資料提供を受け付けることで、展覧会を通じてアーカイブのさらなる構築が目論まれており、本展そのものが90年代前半のアートシーンで「何が起きていたのか」を再検証していくための布石といえる。

B1F 90年代資料室 展示風景

地下1階 90年代資料室


近年、具体美術協会、もの派に続く戦後日本美術として80年代から90年代を対象とした展覧会が国内外で相次いでいる。「起点としての80年代」(金沢21世紀美術館、高松市美術館、静岡市美術館、2018〜2019年)、「ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代」(国立国際美術館、2018〜2019年)、「バブルラップ」展(熊本市現代美術館、2018〜2019年)、「パレルゴン」展(BLUM&POE、ロサンゼルス、2019年)等である。「アーリー90’S」展は、こうした動向のひとつともいえるが、90年代前半のアートシーンの検証という観点からすれば(同じくアーツ千代田3331で開催された中村政人個展「明るい絶望」(2015年)で一部扱われていたものの[1])、正面からこのテーマに取り組んだ初めての展覧会といえよう。

展示作品および諸資料からはさまざまな発見があり、極めて貴重な展覧会である。しかしながら、ここで扱われている90年代のアートシーンを共有していない場合には、鑑賞の糸口を掴みきれない者も少なからずいたのではないか。本論は、90年代アートシーンの文脈の読解を通じて「アーリー90’S」展に物語を付け足す試みである。


90年代をいかに語るか

90年代前半とはどのような時代だったのだろうか。90年代前半を起点とする当事者たちの多くがアートシーンの第一線で現在も活動している一方、この時代の美術を対象とする言説はいまだ多いとはいえない[2]。またインターネット普及以前のため、アクセス可能なリアルタイムの情報が現在よりも格段に乏しい時代でもある。このように近いようで遠くにも感じられる90年代は、しばしば語りにくい時代とされる。

黒瀬陽平は「なぜかくも90年代は語りにくいのだろうか」という問いに対して、その時代が大きな「過渡期」だったからだと述べている。「椹木野衣によれば「ネオ・ポップ」は、オタク文化などの新興のサブカルチャーを参照した作品がその特徴であり、中原浩大、村上隆、ヤノベケンジら、1960年代生まれのアーティストがその中心的存在であった。彼らは、70年代から80年代にかけて日本のアートシーンで覇権を握っていた「もの派」「ポストもの派」の流れを切断するかたちで登場した、ということになっている」。それに対して黒瀬は、「もの派」「ポストもの派」の影響力が衰えていなかったのは一部のイデオローグたちによって形成された時代錯誤な言説の効果にすぎず、むしろサブカルチャーの台頭は80年代からすでにはじまっており、「ネオ・ポップ」をポストモダン化の延長として連続的に捉えることを主張しているのである[3]。

90年代を80年代からの連続として捉える黒瀬のこの視点は、90年代前半を活動の起点とする当事者のひとり、村上隆の現在の認識とも共通している。村上は「バブルラップ」展の長大な正式タイトル名を「「もの派」があって、その後のアートムーブメントはいきなり「スーパーフラット」になっちゃうのだが、その間、つまりバブルの頃って、まだネーミングされてなくて、其処を「バブルラップ」って呼称するといろいろしっくりくると思います。」と銘打っており、70年代の「もの派」から2000年の「スーパーフラット」までの間をひとくくりに捉える視点を提示している[4]。

このように90年代を、ポストモダン化の延長、あるいはバブル経済による消費文化の延長として連続的に捉える言説がある。大局的な視野に立てば、この見解は妥当であると考えるが、それよりも本論では、90年代初頭、いや、むしろ本当のポストモダンが到来した「平成」の東京で美術になにが起こったかを目撃し、先行世代との切断を強調する椹木野衣の見解を詳細に確認していきたい。椹木は90年代前半の美術についてもっとも多くの言説を残している語り手である。現在のところ、「「レントゲン藝術研究所」という時代」という論考、そして同タイトルの連載第1回がすでに発表され、その書籍化が予告されてはいるものの、椹木はこの時代について充分に語り尽くしているとはいえない[5]。とはいえ、これまで発表された文章でも、先行世代からの切断を唱える椹木の意識は随所に示されている。

先述の黒瀬の記述のように、椹木はまず「ネオ・ポップ」を「もの派」「ポストもの派」の流れを切断するかたちで登場したものとして捉えている。彼は先行世代の美術、つまり画廊パレルゴン周辺で活動した美術家たちから「美術の超少女たち」として喧伝された女性美術家たちに至るまでの諸動向は、西武流通グループの文化戦略の中心を担っていた西武美術館で開催された展覧会「もの派とポストもの派の展開 1969年以降の日本の美術」(1987年)で、最終的には「ポストもの派」の名のもとに束ねられることになったと指摘している[6]。そして、「これとは決定的に異なる美術がありうるのではないか、こうした文脈に挿入しようとも、そのことで文脈自体を壊してしまうような切断力を持つ動きが、いまの東京のなかから出て来ないはずがない」と強く感じたという[7]。当時『美術手帖』の編集者であった椹木は、同誌で「ネオ・ジオ」(87年12月号)を端緒に、「シミュレーション・アート」(89年1月号)、「シミュレーショニズムの女たち」(89年8月号)、「サンプリング・アート」(90年3月号)などの一連の特集を仕掛け、91年6月には『シミュレーショニズム ハウス・ミュージックと盗用芸術』(洋泉社)を上梓する。そして、椹木の待望をまさに現実化するように、1990年代初頭に村上隆と中村政人らを中心に「東京シミュレーショニズム」(中ザワヒデキ)とも言うべき新たな動向が起き、『美術手帖』(1992年3月号)の「ポップ/ネオ・ポップ」特集によってのちに「ネオ・ポップ」と呼ばれるようになっていった(椹木は当初、「ロリ・ポップ」と呼んでいた)[8]。

ここで重要な点にふれておきたい。当時の椹木や村上が仮想敵としていたのは、「もの派」「ポストもの派」の流れだけではなく、むしろ三上晴子であった[9]。三上は彼らとほぼ同世代ではあるが、84年から鉄くずやコンクリート片といった「都市の骨」を素材に制作を開始し、「ナムジュン・パイクをめぐる6人のパフォーマー」(ピテカントロプス・エレクトス、原宿)に、ナム・ジュン・パイク、坂本龍一、高橋悠治、髙橋鮎生、立花ハジメ、細野晴臣とともに6人のパフォーマーのひとりとして出演している。また、85年には初個展「滅ビノ新造形|New Formation of Decline」(サッポロビール恵比寿工場研究所跡地)を開催して「鉄ノ立体三部作」を発表し、『朝日ジャーナル』における筑紫哲也の対談シリーズ「新人類の旗手たち」や季刊誌『WAVE』(ペヨトル工房と西武百貨店の共同製作)に登場するなど、いち早く脚光を浴びていた。80年代は、浅田彰や中沢新一らニュー・アカデミズムが文化シーンを牽引した時代であったが、「ニューアカ」の機関誌といえる『GS たのしい知識』(Vol.4「特集:戦争機械」)でも三上の作品が取り上げられた[10]。

椹木は、「ニューアカ」から身を引き離すためには思考の速度が必要だと主張している。ドゥルーズ=ガタリ、デリダ、フーコーが形成した思考を薄めて反復する不毛さに終止符を打つべく、「日本の文脈では消費社会論といった形で牙を抜かれていたボードリヤールの思想を“最終形態”の次元にまで加速してみること」、これこそが『シミュレーショニズム』の戦略であった。そして次に、椹木や村上が自分たちの思想や美術を立ち上げるうえでベースに据えたのは「かっこわるい日本」、つまり「時代遅れの権威であり遺物でもあるような「日本」が破綻し、その瓦礫のなかから建ち上がった、いわば「怪獣」としての日本」であった。すなわち、軽やかな「ニューアカ」の言説や80年代の三上の「カッコイイ」作品とは決定的に異なるものだったのである[11]。

のちに椹木は、円谷プロダクションで「怪獣」のデザインを手がけた彫刻家の成田亨を「日本ゼロ年」展(水戸芸術館現代美術ギャラリー、1999年11月〜2000年1月)に召喚している。ここで「怪獣」は、アメリカのエンターテインメントの巨大生物のような社会脅威の象徴ではなく、日本の近代化の矛盾そのもの、日本の似姿として位置付けられている。そして、成田亨や「怪獣」の着ぐるみを制作した画家の高山良策は、「純粋芸術」と「大衆文化」の危うい境界線上の存在として「ネオ・ポップ」の先駆者ともいえるのである[12]。


レントゲン藝術研究所という異種混交の闘技場

90年代前半のアートシーンを語るときに最も重要なスペースとして挙げられるのは、レントゲン藝術研究所(以下、レントゲン)である。1991年6月6日に池内務によって大田区大森東の3階建て63坪の須山第二倉庫を改造して開かれたオルタナティブ・スペースで、村上隆個展「WILD WILD」、椹木野衣企画の「アノ―マリー」展、そして西原珉企画の「fo(u)rtunes」展など95年12月まで数々の展覧会とイベントが開催された[13]。だが、レントゲンは当初より一枚岩ではなく、椹木によれば、「池内+飴屋、村上+藝大(=東京藝大)、椹木+アウトバーンからなる3つの動きが合流したかたちを取っており、後二者が一種の共同戦線を張っていたのに対し、前者はそれとはやや距離を取っていて、両者のあいだには一抹の齟齬があった」[14]。

もともと演劇畑出身の池内は、オープンに先駆けて予め飴屋法水に発表を依頼しており、さらに第1回展「機能―記号」で自身のコレクションから展示したのは、ヴォルフガング・ スティラー、ハンス・ヘルマン、ヨーゼフ・ボイス、宮島達男、津田佳紀、そして三上晴子であった。椹木は飴屋法水が結成した「テクノクラート」が1990年に開催した「WAR BAR」展(青山246Club)に対して批判的で、当時目指していたのは「こうした一連のニューアカ以降の流れを一掃すること」だった。それゆえ、池内が「飴屋の熱烈な支持者で、なおかつ三上のオブジェ彫刻のコレクター」であったことは、椹木にとって「たいへんな皮肉だった」という[15]。

こうした仮想敵に対する「最初の一撃」が、椹木の初企画となる「アノ―マリー」展(1992年9月4日〜11月4日)である。参加作家は『美術手帖』(1992年3月号)「ポップ/ネオ・ポップ」特集の「ポスト・ホビー・アート・ジャパン」座談会メンバーの村上隆、中原浩大、ヤノベケンジに、椹木と同じ編集者集団「アウトバーン」のひとりでもあった伊藤ガビンを加えた4名であった。さらにオープニングでは、小沢剛が天皇パフォーマンスを行い、「実験テレビカンパニー(八谷和彦+松尾晴之)」がゲリラ的に参加したという。椹木がこの企画で試みたことのひとつは、日本にいることで怪物化しつつあるわれわれの感性を「オタク」と「帰国子女」の混合した次元として提出することであり、のちに『日本・現代・美術』(新潮社、1998年)で提起された「悪い場所」へとつながる問題意識がすでにこの段階で顕在化していた[16]。

村上はこの展覧会で、シャッターが開くと総電力数16000ワット分の光と熱が放たれる巨大な立体物《シーブリーズ》(1992)を出展し、「対中原、対ヤノベ」という風に「プロレスやってたような気」で、「対戦するための武器造り」としてこの作品を制作したという。原子爆弾の光をも想起させるこの作品について、村上は1993年8月に収録されたインタビューで制作当時の心境を率直に語っている。「僕はアノーマリー展の作品をやっててアートって何だって真剣に考えてて、シーブリーズをやってたときすごく不安だったんです。何でこんなにわけのわからない事やってて、タイヤにカバーつけたりとか、何なんだろうこれはって分からなかった。何でこの形になったのかとか何でシャッターがあったのかも分からないんですよ」。また、村上は、「友人の中村政人とか太郎千恵蔵とか、その前に出た柳(幸典)さんとか、川俣(正)さんとか、アートっていう表現を信じてる幻想派っていう流れがある」のに対して、そこから外れた「アウトロー」として自分自身を位置付けていた[17]。《シーブリーズ》についても村上は、「不安」であるいっぽう、「わけのわからない事」をやっているという自負を持っていたといえる。

当時、美術批評家の倉林靖が『日経イメージ気象観測』誌上で、森村泰昌、柳幸典、内藤礼といった作家たちには「概念的にどんなにラディカルであれ、最終的にはそこにはある表現の一定の「質」が感じられる」のに対して、村上やその世代の作品は表現の「質」さえ徹底的に踏みにじっていると批判していた[18]。こうした批判に、かつて「質」だけで勝負する日本画の世界から「冗談じゃない」と飛び出した村上は、既存の現代美術の世界にも同じ構造を見て、中村政人や太郎千恵蔵といった同世代の誰よりも表現への信仰を捨て去ることで、現代美術における「質」という評価軸からは「わけのわからない事」を積極的に実践していったといえる。「質」の代わりに村上が見出した「プロレス」という文脈は、のちに再び《シーブリーズ》が出展された「日本ゼロ年」展で全面的に主題化されることとなる[19]。また村上は当時、「情感的な部分に引き取られてしまうアーティストの行為をビジネスの構造にも合致させたい」とも述べており、アートの「質」を支える構造そのものを変化させることを企図していた[20]。

村上は、1991年8月に個展「ワンナイトエキジビジョン 8.23」を、1992年2月に個展「WILD WILD」をレントゲンで開催しており、「池内君と合体して、彼と一緒に事業を興した気持ちがあった。サブカルとオタクとアートの境界がわからずに、ぐちゃぐちゃしている状況で、すごい音を出してパーティーをやったり、1年間、大騒ぎを続けた」。しかし、村上は「アノーマリー」展への参加を最後にこのシーンからは距離をおいたという。その理由について、「猫も杓子もとアーティストが集まり、椹木さんがイニシアチブをとって新人発掘みたいなことをするようになってから、僕はレントゲンと距離をとった」と述べている[21]。だがいっぽう、椹木もまた「藝大閥の投入は新鋭の評論家、西原珉が担うようになり、自身の企画展を通じ小沢剛、会田誠、曽根裕らを紹介していくことになる」と述べているように、「アノーマリー」展以後に藝大第二波とも言うべき新たな流れを感じていた[22]。

後期レントゲンの立役者といえる存在が西原珉である。西原は、1993年1〜2月に「fo(u)rtunes」展(第1期:小沢剛、中野渡(佐藤)尉隆、第2期:会田誠、鳴海暢平)、1993年12月から1994年にかけて三上晴子と福田美蘭の二人展「ICONOCLASM」展、同時期に女性作家4名の「G-Girls」展(浅生ハルミン(アサオハルミ)、田代モモコ、花代(中島花代)、米津万里)、1995年9月に曽根裕と眞島竜男の二人展「Departures」展と立て続けに展覧会を企画した。こうした流れに対して椹木は、会田の本格的デビューとなった「fo(u)rtunes」展には歴史的な意義があるとしながらも、東京藝大出身者たちによる「藝祭」的ノリとは異なるアートの動きを起こすべく、「909/アノーマリー2」展(コンプレッソ・プラスティコ(松蔭浩之+平野治朗)、テクノクラート、根本敬、山塚アイ(EYE)、大友良英、灰野敬二、暴力温泉芸者(中原昌也)、1995年2月9日〜3月31日)を企画し、ノイズ・シーンという美術の外のカルチャーをレントゲンに持ち込んだ[23]。宇川直宏もこの展覧会に映像で参加していたという。また、「テクノクラート」の飴屋法水はこのとき以来、当初の齟齬にもかかわらず、のちに「グランギニョル未来」(2014年〜)を共に結成するなど椹木にとって重要な作家となっている。だが、西原の果たした功績はやはり大きい。藝大第二波を担ったことに加え、レントゲンにおいて「ICONOCLASM」および「G-Girls」という女性作家主体の展覧会を企画したことも意義があるといえる。これらの展覧会における西原の問題意識はその後、前衛美術にかかわる女性アーティスト研究に引き継がれた[24]。

このようにレントゲンは、村上がプロレスを仕掛けた「アノーマリー」展の際に限らず、つねにそれ自体が緊張感のあり続けた闘技場のようなスペースであった。「テクノクラート」に参加し、「スタジオ食堂」(1994〜2000年)のメンバーである中山ダイスケ、「YBAs」旋風只中の英国ゴールドスミス・カレッジ留学から帰国した眞島竜男など美術の後続世代も加わり、椹木が「新宿ホワイトハウスや読売アンデパンダンを兼ね備えたような場所」と形容するように、この時代のカルチャーの震源地としてその熱気は多様な人物を惹きつけた。当時ファッション誌『CUTiE』(宝島社)で連載されていた岡崎京子のマンガ『リバーズ・エッジ』に出てくる「大森のレントゲン藝術研究所でね おもしろいのやっているの いっしょに行きたいな」[25]というセリフが象徴的だろう。


「スクアッド」:起点としての「中村と村上」展

「アーリー90’S」展には、八谷和彦の《視覚交換マシーン》(1993年)や、「fo(u)rtunes」展オープニング風景の写真等はあるものの、レントゲン関係の資料は一部にとどまっている。いっぽうで、このシーンのひとつの起点といえる「中村と村上」展、そして「ザ・ギンブラ―ト」や「新宿少年アート」といった路上でゲリラ的に行われた活動の資料が充実している。

八谷和彦_視聴覚交換マシン

八谷和彦《視覚交換マシン》


西原珉は本展のタイトルについて「デジタルカメラもネットもなかったこの時代に手書き文字とファックスと手紙と直接対話でアートに向かい合い、自分たちの場所をつくろうと行動を続けた作家たちにリスペクトをこめて「スクアッド」と名付けた」という[26]。こうした集団に着目する視点は、社会学者エイドリアン・ファベルの著書『スーパーフラット前後(Before and After Superflat)』(2012年)とも通底している。ファベルは、社会学者なら知っているように「村中みんなで(It takes a village)」、つまり創造性が生まれるためには集団が必要であるとし、西洋のアートワールドで村上隆という固有名が突出するなか、むしろ村上が登場したその集団に注目している[27]。

ファベルは、日本における現代美術のシーンを築いたこの集団を「東京ポップ(TOKYO POP)」と呼んでいる。いっぽうで西原は、この作家たちの動向について「名前を持たず、未だに定義づけられていない」と考えており、今回の展覧会で「スクアッド」と名付けている。「東京ポップ」という名称の普及は、村上隆も参加した96年の「TOKYO POP」展(平塚市美術館)が端緒といえるだろう。だが、その参加作家は村上のほか、会田誠、太郎千恵蔵、中ハシ克シゲ、中村哲也、奈良美智、明和電機、森万里子などで、「アーリー90’S」展関連作家は村上と会田にとどまっている。さらにいえば、99年に『広告批評』(4月号)で「TOKYO POP」特集が組まれ、この名称は広く普及するところとなった。けれども、村上の「TOKYO POP宣言」から始まるこの特集の内実は、奈良美智のほか、GROOVISIONS、中川正博、HIROMIX、ボーメ、町野変丸といったデザイン、写真、ファッション、フィギュア、マンガ等、日本のカルチャーの各ジャンルのカッティング・エッジとなる人物たちを取り上げるもので(彼らは翌年に開催される村上の「スーパーフラット」展(渋谷パルコギャラリー)の参加作家となる)、90年代初頭のレントゲンの動向や、村上が登場した東京藝大を中心とする集団は含まれていない。つまり、「東京ポップ」ないし、それをフレームアップした概念といえる「スーパーフラット」は、90年代初頭の美術の動向とは一線を画するものである。それゆえ、以下本論では、「東京ポップ」ではなく、「東京シミュレーショニズム」あるいは「ネオ・ポップ」とも呼ばれうるもので、その中でも椹木がレントゲンにおいて「村上+藝大」と呼んでいた一動向こそが西原の命名する「スクアッド」のコアであると捉え、その形成過程を記述していきたい。この「スクアッド」は、レントゲンに深く関与しつつも、「アノーマリー」展から「fo(u)rtunes」展とほぼ同時期に別の場所で、各所において行われた「中村と村上」展(ソウル、東京、大阪、1992年7月〜12月)から「マラリア・アート・ショウ 」(東京、1993年2月)にかけて形作られていったといえるだろう。

まず、本展キュレーターで、この「スクアッド」の当事者でもある西原珉の足跡からみていこう。西原は、東京藝術大学芸術学科出身で、キュレーターの長谷川祐子、批評家の上田高弘とは同級生であった。またこのシーンの関係者だけでもギャラリストの小山登美夫、「アウトバーン」メンバーで編集者の木村重樹、P-HOUSEの「岡崎京子」展(1994年)ディレクターを務めた批評家の布施英利、キャノン・アートラボのキュレーターであった阿部一直、東京都現代美術館で村上隆展(2001年)を担当した学芸員の南雄介、雑誌『BRUTUS』アート欄を担当した美術ジャーナリストの藤原えりみ等は同学科の先輩にあたる。在学中から雑誌『アトリエ』で働いており、当時の編集部には小倉正史、宮島達男、小西信之、長谷川祐子、黒沢伸らがいた。『アトリエ』は89年から現代美術の雑誌としてリニューアルしており、第8回シドニー・ビエンナーレの取材(1990年7月号)等、日本美術史専攻の西原にとって国内外の現代美術を体感する機会となった。また、この頃にゲント現代美術館館長でキュレーターのヤン・フートとの出会いがあり、フートの人を触発する能力に感化され、西原もキュレーターを志すようになったという[28]。その後、西原は独立して美術ジャーナリストとして活動し、雑誌『ぴあ』編集部を独立した著述家の湯山玲子とともに「湯山&西原事務所」を設立している。同時に、西山美なコ個展「♡ときめきエリカのテレホンクラブ♡」 (フォト・インターフォーム&インターフォーム・コンテンポラリー、大阪、1992年)、「具体1955/56 日本現代美術のリスタート地点」(ペンローズ・インスティチュート、1993年)等、展覧会のキュレーションを手がけていく[29]。西原が東京の同世代の美術家たちと関わるようになるのは、91年に村上隆と知り合ってからである。

村上隆は、東京藝大の博士後期課程日本画専攻在学中であった91年までに椹木野衣、小山登美夫、中ザワヒデキ、そしてレントゲンの池内務と相次いで知り合っている。村上は、「自分がキュレーションした展覧会の企画を見てほしい」と『美術手帖』編集部に直接電話したのを契機に椹木と知り合い、また、東高現代美術館の「デビッド・リンチ」展(91年1月)で「あ、藝大の方ですよね。プレスの人を紹介してくださいよ」と声をかけたことから白石コンテンポラリーアート(SCAI)のスタッフだった小山と知り合っている[30]。さらに、『近代美術史テキスト』(トムズボックス、1989年)を刊行し、個展「大ボケツ」(HBギャラリー、1990年)で初めて「バカCG」(「アーリー90’S」展にその3作品を出展)を発表するなど、すでに話題の存在であった中ザワに対して、村上は家へ直接たずねて行ったという[31]。椹木と一緒に出向いた1991年6月6日のレントゲン藝術研究所のこけら落としとなるオープニング・パーティーで池内とも知り合っている。加えて、村上は美術関係者やプレスに『アート三文ネタニュース(A.G.N)』と題したお手製のメディアをFAXで積極的に発信していた[32]。小山が村上を通じて同世代の若い作家たちと知り合っていったと語るように、村上のハブとしての役割は極めて大きかったといえる[33]。

中ザワヒデキ《大ボケツ・シリーズ》_2

1階 展示風景


そして、村上は大阪の青井画廊(1991年8〜9月)と京橋のギャラリーアリエス(1991年9〜10月)で本格的に画廊デビューを果たし、現代美術の世界に狼煙を上げる。青井画廊ではFAXを使用したときに残る通信の痕跡を使用して制作したドローイングを展示した。「アーリー90’S」展に展示された八谷和彦と松尾晴之による《SMTV 介入芸術》(1990-1993)の村上隆インタビュー映像では、初期の頃のことが率直に語られている。現代美術を学ぶうえで中村信夫『少年アート』(SCALE、1986年)と伊東順二『現在美術』(PARCO出版、1985年)の二冊を中村政人に紹介してもらったこと。87年に「大竹伸朗 1984〜1987」(佐賀町エキジビット・スペース)を見て衝撃を受けたこと。また、アートディレクターの石岡瑛子がその場で大竹作品を購入したのを目の当たりにして現代美術の世界を実感したこと。中村政人や廣瀬智央らとともにICA Nagoyaまで展覧会を見に遠征したこと。細見画廊の個展「賛成の反対なのだ」(1991年12月)のオープニング・パーティーに大人数のレーシングギャルを呼んだこと。「アノーマリー」展のパフォーマンスではシナリオと客集めを小沢剛に協力してもらったこと等。初期を知るうえで貴重なこれらの証言からも、村上が中村政人や小沢剛と密接な関係にあったことがうかがえる。

中村政人は、専攻こそ異なるものの、村上隆と同じ東京藝大の学生で、美大受験予備校・立川美術学院(通称・立美)の講師仲間であった。他にも、廣瀬智央、東京藝大でも油画専攻同期の岩井成昭(「アーリー90’S」展に《養鶏所とサウンドアーティスト》(1994年)を出展)、「中村と村上」展に同行してパフォーマンスを行った池宮中夫、そして小沢剛らはみな「立美」つながりである。当時、中村らは立川の米軍ハウスから徒歩5分にある石田倉庫に共同アトリエを構えていた[34]。87年に韓国へ一人旅をした時にたまたま入ったギャラリーでイ・ブル、チェ・ジョンファ、コ―・ナッポンら彼と同世代のグループ「ミュージアム」の展覧会を見たことをきっかけに中村は韓国留学を決意し、ソウル・オリンピック後の89年から弘益大学大学院へ留学した。美術では中村が戦後はじめての韓国政府奨学留学生であった[35]。

そして、中村は92年7月にソウルのクラブで村上隆とともに二人展「中村と村上」(オゾン、1992年7月4日〜25日)を開催した。中村は自らの名字が韓国では好ましくない記号として、さらには笑いのキーワードとして機能していることを感じ、それまで「MASATO」名義で活動してきた[36]。だが、大日本帝国からの独立運動発祥の地であるパゴダ公園の向かいのスペースで開いたこの展覧会では、彼はむしろ「中村」を主題化した。ソウルで実際にアンケートを実施したところ、不快に感じる名前の第一位が「中村」、第二位が「村上」だったという。「アーリー90’S」展の出展作でもある中村の《床屋マーク》は、ソウル繁華街のビル屋上に逆さのシャンデリア状に設置されたが、オープン4日後に市当局から「美観を損ねる」と警告を受け、点灯中止となった[37]。赤・青・白のストライプマークは、西洋ではもともと外科手術をする場所という意味もあったのに対して、日本では床屋マークの意味のみが機能し、さらに韓国では性風俗的な意味合いが付与されているという。西原珉は「中村と村上」展パンフレットに寄稿した文章で次のように記述している。「ずたずたに断ち切られ、秘匿され、そしてその存続も確かには知らされぬまま、暗黒のうちに抱かざるを得ない日本の美術史への絶望と、みごとな整合性をもって遡行する西洋のコンテクストに従い、(ときにあまりに強引な解釈、またはとりかえしのつかない誤読を含んだ)膨大な輸入情報によって形成されていく日本の美術。中村政人と村上隆という2人のアーティストがたつ地点はそこにある。しかも彼らは、そのはざまにいるのですらなく、そもそもの初めから両者がすでに分かちがたく入りまじった奇妙な混合物の上に存在している」[38]。西原のこの日本美術の畸型的あり方という制度論的な視点は、2ヶ月後に開催される「アノーマリー」展における椹木の問題意識とも通底しているといえるだろう。

中村政人《床屋》_2_3331展示風景

中村政人《床屋マーク(BarberPole)》


小沢剛と会田誠も、この展示のために訪韓している。会田は次のように回想している。「友人の小沢剛が「知り合いの先輩アーチストがソウルで二人展をやるから、それを見がてら遊びに行かないか」と誘った。その二人とは村上隆氏と中村政人氏。村上氏の方は個展を一度見たことがあったが、中村氏の方はまったく知らない。二人はブレイク前夜であり、美術界でまだあまり名前が知られていなかった」[39]。このときの見聞が元になって、日の丸と太極旗を持った日韓二人の少女が対峙する《美しい旗(戦争画RETURNS)》(1995年)が制作されたという。小沢と会田は、東京藝大油画専攻の受験会場で隣同士であり、小沢によれば、「異様に汚い受験生」が会田で、これが彼らの最初の出会いだった[40]。同級生となった二人は、加藤豪の発案によってつくられた同人誌『白黒』に共に参加している。「アーリー90’S」展には、会田が『白黒』(1〜3号、1988〜1989年)に載せた「バカ」「お花畑」「潮風の少女」の原稿が出展されている。会田は10代後半まで小説家になりたいという希望を抱いていた[41]。また、『白黒』1号に、小沢は手製の小さな地蔵を世界各地の風景とともに収める写真作品《地蔵建立》を初めて発表している[42]。そして、ソウルの「中村と村上」展でも小沢は、池宮中夫のパゴダ公園におけるオープニング・パフォーマンス後に突如、池宮の額に地蔵を建立したという。同行した中ザワヒデキがその様子を《「中村と村上」展》(1992年)として「バカCG」作品にしている。

ソウルの「中村と村上」展には、中村政人、村上隆、西原珉、小沢剛、会田誠、中ザワヒデキ、小山登美夫、国持貴子、申明銀、池宮中夫らが集結し、この「スクアッド」のひとつの重要な起点となっている。村上(崖鷲喜葉)、西原、小山は9月の「アノーマリー」展に合わせて美術雑誌『アート・サミット・メンバーズ』を刊行し[43]、さらに中村、村上、小沢、中ザワは12月の「中村と村上」大阪展の際に「スモール・ビレッジ・センター」による「再現芸術」を開始した。西原、小沢、会田は翌年1月から「fo(u)rtunes」展をレントゲンで開催し、同時期の2月に中村、村上、国持は、原宿の空き物件等で連続イベント「マラリア・アート・ショウ」を開催している。小沢、会田、申は94年に「昭和40年会」を結成し、さらには中村を中心にこの「スクアッド」は「ザ・ギンブラ―ト」(93年)から「新宿少年アート」(94年)へと展開していく。

小山が日本の作家を紹介すべく白石正美を説得して表参道のマンションの一室に開廊したスペース「SCAIプロジェクトルーム」で、「中村と村上」東京展(1992年8月28日〜9月19日)は開催された。村上はここで「金文字プロジェクト」を発表し、中村は《床屋マーク》をマンション屋上に設置している。西原珉によれば、《床屋マーク》は、点灯を中止せざるを得なかったソウル展とは対照的に、「平穏なまでに街中で回転し続けていた」[44]。そして、この「中村と村上」東京展の開催から数日後、レントゲンで「アノーマリー」展が始まるのである。

[1] 中村政人のこの個展で開催された連続トークセッション〈シリーズ・検証、中村政人の視線 その1〉は90年代前半のアートシーンの検証をテーマとしていた。登壇者は村田真、中村政人、中ザワヒデキ(聞き手)、西原珉、原久子(聞き手)、新川貴詩、パルコキノシタ、八谷和彦(映像提供)、出原均、黒沢伸、小山登美夫、福住廉(聞き手)、会田誠、宇治野宗輝、小沢剛、楠見清(聞き手)、椹木野衣。
[2] 90年代美術を対象とした主な文献は以下参照。中ザワヒデキ『現代美術史日本篇 1945-2014』アートダイバー、2014年。北澤憲昭+佐藤道信+森仁史編『美術の日本近現代史 制度・言説・造型』東京美術、2014年(第八章[北澤憲昭]、第九章[暮沢剛巳])。中村ケンゴ編『20世紀末・日本の美術 それぞれの作家の視点から』アートダイバー、2012年。Adrian Favell, Before and After Superflat: A Short History of Japanese Contemporary Art 1990-2011, Blue Kingfisher Ltd, 2012.
[3] 黒瀬陽平「90年代アートにとって「情報化」とはなんだったのか」『1990年代論』河出ブックス、253頁。
[4] 展覧会タイトルの全文は以下。「バブルラップ:「もの派」があって、その後のアートムーブメントはいきなり「スーパーフラット」になっちゃうのだが、その間、つまりバブルの頃って、まだネーミングされてなくて、其処を「バブルラップ」って呼称するといろいろしっくりくると思います。特に陶芸の世界も合体するとわかりやすいので、その辺を村上隆のコレクションを展示したりして考察します。」
[5] 椹木野衣「「レントゲン藝術研究所」という時代」『美術手帖』2005年7月号、188-195頁。椹木野衣「「レントゲン藝術研究所」という時代 マンですか?それともセブンですか? 」『mazurek』、vol.02、有限会社しおさい、45-55頁。また、椹木が企画・監修を務める展覧会「うたかたと瓦礫(デブリ):平成の美術1989-2019」(京都市京セラ美術館)が2021年1月から開催を予定されているが、90年代前半の美術も時期的に含まれている点からさらなる言説が期待される。
[6] 椹木野衣「「アール・ポップ」から始める 80年代の美術をめぐって」『美術手帖』2019年6月号、112頁。
[7] 椹木野衣「ネオ・ポップの展開」、美術評論家連盟編『美術批評と戦後美術』ブリュッケ、2007年、263頁。
[8] 「東京シミュレーショニズム」について以下参照。中ザワヒデキ「東京直接表現小史」『美術手帖』2000年8月号、90-91頁。中ザワヒデキ『現代美術史日本篇 1945-2014』、88頁。椹木は「ポップ/ネオ・ポップ」特集で、こうした日本の動向について「ポップ・アート」との明確な差別化を図る意味では、ネオ・ポップではなく「ロリ・ポップ」とでも呼ばれるべきもの」と記述している。椹木野衣「ロリ・ポップ その最小限の生命」『美術手帖』1992年3月号、86-98頁。「ロリ・ポップ」は「自己の批判すべきものに自己を重ね描くことによって獲得されるわずかばかりの悪意」で、それはアメリカやバブル期の日本のような消費生活の「反映」としてのポップではなく、バブル崩壊以後の日本におけるアナーキーな「還元」のポップへとつながる。椹木野衣『日本・現代・美術』新潮社、1998年、第3章を参照。また、「ロリ・ポップ」については以下でも言及されている。緒川コウ(インタビュー)「椹木野衣 ロリ・ポップ状態の日本の現状と現代美術」『JAPAMANIA 日本漫画が世界ですごい!』たちばな出版、1998年、152-163頁。
[9] 椹木野衣「追悼・三上晴子 彼女はメディア・アーティストだったのか」、馬定延+渡邉朋也編著『SEIKO MIKAMI 三上晴子 記録と記憶』NTT出版、2019年、132頁(ウェブ・マガジン『ART iT』に「美術と時評 47-52」として連載されたものの再掲)。
[10] 「筑紫哲也の若者探検18 新人類の旗手たち 三上晴子」『朝日ジャーナル』27(34)、1985年8月23日号、55-60頁。「三上晴子インタビュー 鉄は都市の骨」『WAVE』4号、1985-86年12-1月号、17-30頁。「BAD ART FOR BAD PEOPLE 三上晴子」『GS たのしい知識』Vol.4、1986年、529-532頁。
[11] 『シミュレーショニズム』についての発言は以下参照。谷崎テトラ(インタビュー・構成)「すばる今imagine人 椹木野衣」『すばる』1991年10月、165頁。「かっこわるい日本」は以下参照。椹木野衣「「レントゲン藝術研究所」という時代 マンですか? それともセブンですか?」、55頁。また三上晴子の作品が「カッコイイ」と判断される見解は次の座談会によるものである。椹木野衣+村上隆+池内務+中島浩「RUDE」『RADIUM EGG』1号、1991年、25頁。ちなみに、「かっこいい」は特に80年代の美学といえる。宮沢章夫『東京大学 「80年代地下文化論」講義』白夜書房、2006年、「第1回 「かっこいい」とはなにか」を参照。また、三上は90年代になるとニューヨークに渡り、ニューヨーク工科大学でコンピュータ・サイエンスを専攻しており、企業メセナのキヤノン・アートラボと共同制作した《モレキュラー・クリニック1.0 on the Internet》(1995年)や、NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)での展示等、生態情報学にまで作品世界を拡張させており、80年代の頃とはその作風を大きく変えている。馬定延『日本メディアアート史』アルテスパブリッシング、2014年、265頁。
[12] 成田亨が岡本太郎の「太陽の塔」内部にあった「生命の樹」のデザインを手がけていたことも重要である。椹木野衣監修『日本ゼロ年(水戸芸術館現代美術センター 展覧会資料第四十六号)』水戸芸術館現代美術センター、2000年、14-15頁。
[13] 椹木野衣『美術になにが起こったのか 1992-2006』国書刊行会、 2006年、2頁。株式会社池内美術の現代美術部門としてオープンしたレントゲン藝術研究所については以下参照。池内務「レントゲン藝術研究所」『STUDIO VOICE』Vol.372、2006年12月号、56頁。「画商 池内務さん レントゲン藝術研究所」『美術手帖』1992年12月号、48-49頁。また、レントゲン藝術研究所について以下が詳しい。鈴木萌夏『レントゲン藝術研究所の研究 3331臨時増刊号』、2019年12月7日。特に「時事通信1991-1995」は、同時代の動向を踏まえつつ、レントゲンの展覧会一覧が記載されている。また、鈴木は「アーリー90’S」展レビューを執筆している。鈴木萌夏「「アーリー90’S トーキョーアートスクアッド」展 歴史としての90年代」『アートコレクターズ』2020年6月号、112-113頁。
[14] 椹木野衣『美術になにが起こったのか 1992-2006』、5頁。「アウトバーン」は音楽雑誌『REMIX』を1991年から発行する株式会社で、椹木のほか、音楽雑誌『MIX』(『REMIX』の前身で『フールズ・メイト』増刊の洋楽専門誌)の編集者だった小泉雅史や若野ラヴィン、パソコン雑誌『ログイン』の編集者だった伊藤ガビン、ペヨトル工房出身の木村重樹や中島浩、毛利嘉孝、川畑健一郎らがいた。小泉と中島は椹木と同郷。また、レントゲン藝術研究所が発行する美術雑誌『ラジウム・エッグ』(1-3号、1992-1993年)の制作も「アウトバーン」が手がけていた。
[15] 椹木野衣「追悼・三上晴子 彼女はメディア・アーティストだったのか」、前掲書、199頁。
[16] 椹木野衣(聞き手)「トータルスコープシアター  アノーマリーと大伴昌司 竹熊健太郎に聞く」『RADIUM EGG』3号、1993年1月、4頁。大伴昌司(1936〜1973年)は、『週刊少年マガジン』の編集に携わり、怪獣や未来社会等を図解した誌面を作成した。また、『図解怪獣図鑑』(1967年)など「怪獣」ブームを牽引し、「オタク」の源流ともされる人物である。福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』PLANETS、2018年、222-252頁。
[17] 小倉正史+今野裕一(聞き手)「村上隆インタビュー 芸術は瞑想だ」『ur』9号、1994年10月、80-97頁。
[18] 倉林靖「帰還不可能なシニカルさ 新世代のアートシーン」『日経イメージ気象観測』(季刊レポート)、vol.25、1993年7月号、43頁。
[19] 椹木野衣監修『日本ゼロ年(水戸芸術館現代美術センター 展覧会資料第四十六号)』、29頁。椹木野衣+村上隆+本橋康治「アートは近代オリンピックの競技だった」、椹木野衣『「爆心地」の芸術』晶文社、2002年、186-201頁。
[20] 「TAKASHI MURAKAMI 聖域から離れた強靭なアートへ」『アトリエ』1992年3月号、96-97頁。
[21] 美術手帖編『村上隆完全読本 美術手帖全記事1992-2012』美術出版社、2012年、11頁。
[22] 椹木野衣『美術になにが起こったのか 1992-2006』、6頁。
[23] 「909」展の会期は情報によっては2月4日〜4月2日と記載。山塚アイ、大友良英、灰野敬二、中原昌也はこの「909」展で美術シーンに接続されたが、1996年にLAアーティストの展覧会がP-HOUSEで開催された際に行われた、マイク・ケリー、ジム・ショウら「デストロイ・オール・モンスターズ」の20年振りのライブ(ラフォーレ原宿)で共演しており、むしろ日本のいかなる美術よりもLAアートシーンとの接点を持っていた。ちなみに「デストロイ・オール・モンスターズ」というバンド名は、日本映画ゴジラシリーズの『怪獣総進撃』に由来している。野々村文宏(取材・構成)「DESTROY ALL MONSTERS 1975-76年、Detroitについて話そう」『美術手帖』1997年2月号、56-63頁。
[24] 以下のプロフィールによれば、西原は東京女性財団の助成で前衛美術にかかわった女性アーティストの研究をしていた。西原珉+松井みどり「少女主義!?」『スタジオ・ボイス』1996年7月号、15頁。また西原は、92年にアートとフェミニズムの問題について論じている。西原珉「日本の現代美術におけるマドンナ方式について」『RADIUM EGG』2号、1992年6月、33-35頁。
[25] 岡崎京子「River’s Edge 第10回」『CUTiE』1993年12月号、49頁。 
[26] 西原珉「本展に関するノート」、「アーリー90’S トーキョーアートスクアッド」展ハンドアウト。
[27] Favell、前掲書、87頁。
[28] 長谷川新+西原珉「ART FOR EVERYONE あなたとアートの関係を示すために VOLUME.3」『Anglobal Community Mart』2019年。2020年5月15日閲覧(https://www.anglobalcommunitymart.com/read/20/)。また、ディレクターを務めるドクメンタ9を翌年に控えた91年にヤン・フートは来日し、「現代美術一日大学」なる日本のアーティストのオーディションがワタリウム美術館で行われた。朝5時半に一番乗りで臨んだ村上隆が、田宮模型のアメリカ兵を大量に表面に付着させた立体作品で合格した。以下の椹木の文章にそのエピソードが記載されている。そして、このオーディションは村上にとって「ヤン・フートIN鶴来」(石川、1991年)、「ヤン・フートの眼 日本アートへのメッセージ展」(三菱地所アルティアム、福岡、1991年)の参加へとつながる。椹木野衣「東京ドクメンタの一日。」『エスクァイア日本版』1991年9月号、190-195頁。
[29] ペンローズ・インスティチュート・オブ・コンテンポラリー・アート(PICA)は、ICA(ロンドン)の東京サテライトとして開館し、白石コンテンポラリーアート(SCAI)の白石正美が館長を務め、三木あき子がスタッフとして働いていた。「具体1955/56」展は開館記念展であった。1993年に開館したが、1年以内に閉館。また、ナカムラクニオ(「アーリー90’S」展にハエ模様の壁紙作品を出展)がかつてアルバイトをしていた。ナカムラクニオ『人が集まる「つなぎ場」のつくり方:都市型茶室「6次元」の発想とは』CCCメディアハウス、2013年。ちなみに白石は、フジテレビギャラリーから独立後、白石コンテンポラリーアートを設立するとともに、東高現代美術館副館長(1988〜91年)を務め、また92年に「国際コンテンポラリー・アートフェア NICAF YOKOHAMA’92」(パシフィコ横浜)を立ち上げている。
[30] 村上隆の年表によれば、「大学の先輩で東高現代美術館(東京・表参道)の学芸員だった小山登美夫を介して、椹木野衣と知り合う。椹木は当時、『美術手帖』の編集部員だった」とある。『芸術新潮』2012年5月号、47頁。および、美術手帖編『村上隆完全読本 美術手帖全記事1992-2012』美術出版社、2012年、年表頁。しかし、小山登美夫は、村上との出会いについて1991年1月に開催された東高現代美術館の「デビッド・リンチ」展においてと明記している。当時小山は白石コンテポラリーアートのスタッフで、白石正美が副館長を務める東高現代美術館で働いていた。小山登美夫『現代アートビジネス』アスキー新書、2008年、57頁。および「Front Interview vol.19 小山登美夫 第2話 現代美術の森へ」『ベンチャー座』2007年9月。2020年5月27日閲覧(http://www.ventureza.jp/interview/vol019/index3.php)。また、椹木は村上との出会いについて次のように記述している。「読者だというひとりの藝大生から電話をもらったのである。聞けば美術家の卵だというが、通常の売り込みと違って、自作ではなく、自分がキュレーションした展覧会の企画を見てほしいという。(…)そうした姿勢は新鮮で、その後もたびたび電話で話し込むようになった」。椹木野衣『美術になにが起こったのか 1992-2006』、2-3頁。椹木が『美術手帖』編集部に在籍していたのは1990年6月号までで、上記の電話のエピソードはそれ以前ということになる。さらに椹木は1991年1月の博士研究発表展(東京藝大陳列館)で村上の作品を初めて見ている。椹木野衣「プラスチック・マニアックス」『流行通信』1991年11月号、164頁。「「レントゲン藝術研究所」という時代」(52頁)に、椹木は雑誌『BRUTUS』編集者の桂真菜より情報をもらい、村上を誘って1991年6月6日のレントゲン藝術研究所のオープニング・パーティーに出かけ、そこで彼らは池内務と出会ったことが記されている。
[31] 中ザワヒデキは、91年3月に「ハマルコン’91」(ギャラリー・アートワッズ)と「第5回東京イラストレータラーズソソサエアエティ展」(HBギャラリー)という美術展およびイラスト展のアプロプリエーション展覧会を「パロディ・贋作」と冠して同時開催(2会場をシャトルバスでつないだ)。その終了直後に村上隆が中ザワ宅を来訪した。中ザワヒデキ『現代美術史日本篇 1945-2014』、86-88頁。『近代美術史テキスト』は現在、アートダイバーから発行。また、中ザワの「バカCG」については以下参照。石井香絵『中ザワヒデキの美術』トムズボックス、2008年。
[32] 中ザワヒデキ『現代美術史日本篇 1945-2014』、88頁。
[33] ファベルも村上隆のハブとしての役割を指摘している。Favell、前掲書、91頁。
[34] さらに「立美」関係者には枀の木タクヤ、袴田京太朗、都築潤、中村哲也、中山ダイスケ、菊地敦己、笠原出らがいた。中村政人「美大系石膏デザインはだれのため?」『美術手帖』1999年5月号、39-40頁。石田倉庫については以下参照。「中村政人インタビュー アーティストの遊休建物利用遍歴」2020年5月16日閲覧(https://www.jutaku-sumai.jp/lifestyle/interview/30/vol_30_01.html)
[35] 中村政人「明るい絶望」『LUMINOUS DESPAIR 明るい絶望 SEOUL-TOKYO 1989-1994』3331BOOKS、2015年、688-689頁。
[36] 「MASATO NAKAMURA」『アトリエ』1992年7月号、91頁。
[37] 中村政人「明るい絶望」、696頁。
[38] 西原珉「無題」『中村と村上』公式パンフレット、オゾン&SCAI、7頁。中村政人「明るい絶望」、696頁に引用あり。
[39] 会田誠「最初にソウルに行った頃と今」『Wochi Kochi Magazine』2013年5月15日。2020年5月17日閲覧(https://www.wochikochi.jp/topstory/2013/05/request.php)
[40] とよだふみ編「小沢剛39歳(作家略歴)」『小沢剛:同時に答えろYESとNO!』森美術館、2004年、160頁。
[41] 会田誠『青春と変態』ちくま文庫、2013年、242頁。
[42] 金長隆子「『白黒』における小沢剛《地蔵建立》」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』2019年3月、853-871頁。小沢剛『地蔵建立 JIZOING』オオタファインアーツ、1999年。
[43] 崖鷲喜葉は村上隆が『スタジオ・ボイス』でアニメ評を執筆する際に使用したペンネーム。崖鷲喜葉(学生)「日本のエフェクト アニメ・シーンの畸型的発展に狂喜。」『スタジオ・ボイス』1992年3月号、33頁。『アート・サミット・メンバーズ』は1号のみの「伝説的な現代美術愛好誌」(中ザワヒデキ)で、編集人が西原、発行人が小山。小沢剛による《劇団ロマンチカに地蔵建立 1992年》が表紙を飾っている。またファベルによれば、西原と村上は『Art Sex』という雑誌も作成している。Favell、前掲書、91頁。
[44] 西原珉「KOREAN ARTの第三世代」『アトリエ』1992年12月号、107頁。また、西原は以下にも「中村と村上」展について執筆。西原珉「ソウル―東京―そして大阪で行われる「中村と村上」展」『スタジオ・ボイス』1993年1月号、75頁。

トップ画像:アーリー90’Sトーキョーアートスクアッドキービジュアルより 
写真提供:アーツ千代田3331


筒井宏樹(アートライター、現代美術研究)


レビューとレポート第14号(2020年7月)