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展評「梅津庸一キュレーション展 フル・フロンタル 裸のサーキュレイター」川谷承子

 「梅津庸一キュレーション展 フル・フロンタル 裸のサーキュレイター」(以後、「フル・フロンタル」)は、新型コロナウイルス感染症による緊急事態宣言が解除されてまもない都内のMITSUKOSHI CONTEMPORARY GALLERYで6月10日~29日に開催された。MITSUKOSHI CONTEMPORARY GALLERYは、日本橋三越本店の本館6階の美術フロアに、今年の3月18日にオープンしたばかりの新しいスペースで、こけら落としの「日比野克彦展 Xデパートメント 2020」、「東海道 西野壮平展」に続くオープン第3弾として開かれた。

 梅津はこの展覧会で、39人の作家、計64点の作品を取り上げた。油彩画とドローイングに、近年はじめたという陶芸作品を合わせた14点(全出品作品の2割程度)が梅津本人の作品で、残りの50点は多様な出自を持つ作家の作品により構成されていた。出品作品は、造形やモチーフの特徴から引き出された「瘴気とフィルター」、「視線のエネルギー。見る・見られる。」、「ダークファンタジー」、「景色の良い部屋」、「不定形の炎症」の5つのテーマに振り分けられ、梅津が執筆したテキストとともに並べられた。
キュレーションの手法としては、2017年に愛知県美術館で開催された「未遂の花粉」展を想起させ、それをさらに発展させたもののように思われた。同展は学芸員の中村史子と共に企画されたもので、黒田清輝、ラファエル・コラン、フェルディナント・ホドラー、ポール・ゴーギャンの絵画に基づく梅津の自画像が4点と、愛知県美術館のコレクションから高橋由一、山本芳翠、青木繁、坂本繁二郎、瑛九、麻生三郎、鶴岡政男、上原欽二、織田廣喜の絵画9点が選び出され、同じ空間に並べられた。梅津が、黒田やコランの絵画の図像と関係づけて自画像を描いているのと同様に、美術館のコレクションと梅津の作品との関連性を示唆する(花粉が飛び合う様に)、梅津が選んだ5人の外部執筆者によるテキストが添えられていた。現代アーティストである梅津庸一の作品と、美術館の近現代コレクションとを、日本近代美術史の流れの中に落とし込み、関連付ける解釈を試みた公立美術館で行われる企画にふさわしい意欲的な展示であった[1]。

 「フル・フロンタル」においても、梅津は黒田清輝《智・感・情》(1899年)を参照した《フル・フロンタル》(2018年-)と、フェルディナント・ホドラーの《昼》(1899年頃)を下敷きにした《昼‐空虚な祝祭と内なる共同体について》(2015-2020年)の二つの裸体自画像シリーズを出品作品として取り上げたが、キュレーションの意図がとりわけ際立っていたのが、作家の出自へのこだわりである。公立美術館のコレクションから出品作品が選択されていた「未遂の花粉」展と比べて、セカンダリーマーケットで流通する売買可能な作品と個人所蔵の非売品の中からセレクトされた作家・作品は、企画者の思考の輪郭を一層際立たせていた。

本展はいわゆる「現代アート」の展覧会ではない。
日本における「造形」の変遷や「ありよう」を主軸としながら、「美術なるもの」にまつわる魔術性や禍々しさについて言及するものである[2]。

 確かに梅津が、展覧会ステイトメントで述べているように、この展覧会は「現代アート」の展覧会ではなく、日本における美術の現在を浮き上がらせる展覧会であったと言える。出品作家は、文化勲章を受章している美術家、重要無形文化財保持者に認定されている陶芸家、美術団体の会員、公募美術団体展に出品している画家、戦前戦後の前衛作家、現代アーティスト、美術市場で人気のある画家、梅津が主宰する「パープルーム予備校」の予備校生[3]、相模原市の絵画サークルに通うアマチュア画家[4]といった具合に、今の日本の美術を構成する地層を輪切りにしてその断面を提示しているかのような多種多様なカテゴリーの現存、または物故作家から構成されていた。公立美術館の購入や寄贈作品は、収集方針に基づいて選定され、その後、美術史の専門家による収集委員会での審査を経た上でコレクションに加えられており、一定の価値基準によりふるいにかけられたものの総体である。一方「フル・フロンタル」の出品作品は、作家が属する共同体や出自に関する美術業界のルールには則らず、梅津の関心の赴くままに選ばれていた。「フル・フロンタル」に出品された画家の何人かは、これまでにも「パープルーム」主催の展覧会に取り上げられており、また、青木繁、坂本繁二郎、瑛九、織田廣喜は「未遂の花粉」でも選ばれていた。梅津の過去の活動との一貫性が見られることは、「フル・フロンタル」のセレクションが、梅津のこれまでの活動の延長線上にあることを物語っている。梅津は、展覧会ステイトメントの中で、「「造形」を起点に作家の制作の現場における想像力や反射神経や動体視力がいかに行使されたのか、を展覧会に再構築する。」と語っているが、本展での作品選定の方法や、設定された基準、選ばれた作品は、日頃からの梅津の造形やモチーフの関心の在り様を教えてくれる。アーティストの出自を分けるカテゴリーを、「クラスタ」という語を用いて説明し、「クラスタ」間を軽やかに往還して、造形やモチーフを関連付け、独自の視点で作品を読み解いている。

 こうした梅津の自由さとは裏腹に、展覧会場から感じたヒリヒリとした空気感や、会期中に展覧会で起こった一連の出来事[5]を含めて、この展覧会がすくなくとも筆者の目には過激(スキャンダラス)に映ったのは、ひとえに、会場が日本の近現代美術史の一翼を担ってきた日本橋三越本店のギャラリーであったからなのだろう。三越の前身の合名会社三井呉服店(1904年12月6日より株式会社三越呉服店)で最初の文化催事「光琳遺品展覧会」が開催されたのは、1904年10月1日[6]である。1907年9月には三越の大阪支店に新美術部が設置され、日本画、洋画の大家の作品を集めた特別陳列販売が行われている。続いて本店に新美術部が設置され、当代大家の絵画工芸品の展示販売が開始されたのが同年12月の事であった[7]。文部省が初めての官展として日本画、洋画、彫刻の三部門からなる文部省美術展覧会(文展)を創始したのが同じ1907年であったことを考えると、三越は、日本における制度としての美術が一般にも浸透していく過程で、その黎明期から美術作品や資料を鑑賞する場を提供する事に加えて、個人が美術品を買い求め収集することのできる場を提供してきたという点で重要な役割を担ってきた場所であったと言える[8]。その三越が、2020年に入り日本画、洋画、工芸、彫刻といった従来扱ってきたジャンルに加え、CONTEMPORARY GALLERYを新設して、取り扱いの対象を現代アートまで広げようとする背景には、明治以来の美術品マーケットを支えてきた美術制度や従来のアートマーケットとは異なるチャンネルを増やしたいという経営側の判断があってのことであろう。1980年代までの日本では、美術取引の多くは画廊とデパートが担い、画廊とデパートの催事、ギャラリストやデパートの販売員を通じて富裕層へと販売された。しかしながら2000年代以降、デパートは母体となる事業の売上減少に伴い、経費負担のかさむ展覧会事業から撤退し、デパートでの美術品の売れ行きも減少した[9]。日本でオークション会社を経営する倉田陽一郎によると、現在、日本の近代美術の価格は、バブルのピーク時に比べて単価が30分の1以下になっており、中でも、日本画の価格が暴落し、日本画の市場そのものが縮小してきているという。[10]従来、デパートの美術品部門で扱う商品のカテゴリーは、日本画、洋画、工芸、彫刻といった美術大学の学科とも重なっており、デパートの催し物会場や常設展覧会場で行われた展覧会は、新聞社やアカデミズムとの繋がりも深かった[11]。
 三越が、2020年に入って、CONTEMPORARY GALLERYを創設した背景には、先に述べた、デパート、新聞社、アカデミズムが三つ巴となって支えてきたマーケットや制度にほころびが生じ、限られた国内の富裕層を主な販売対象にしてきたこれまでのやり方に加えて、若年層や海外へと購買層を開いていく必然性があってのことと考えられる。美術品の情報を顧客にデジタル配信したり、若年層や外国人など新しい顧客層にアプローチするには、現代アートは相性がいい。

 日本美術史研究者の佐藤道信は、「美術」のあり方に強く影響したとして二つの戦後の価値転換を挙げている。一つは、国家主義から民主主義への転換、二つには、「日本」から“国際性”“現代性”への転換があり、一つ目の価値転換を代表するのが日展を中心とする”画壇系”で、いわゆる「現代美術」は二つ目の価値転換に深くつながっていた。批評やジャーナリズム・鑑賞層やマーケットもそれぞれに分立していった傾向が強い。戦後、幅広い社会的鑑賞層とマーケットを獲得したのは、圧倒的に前者で、画集や展覧会の集客力、文化勲章や日本芸術院のメンバーとしても、また高額納税者で上位になるのも、常に前者の方だった。「現代」の「美術」は、あくまでこの前者と、後者のいわゆる「現代美術」の総体として考えなければならない、と指摘している[12]。現在、我々が一般的に「現代アート」と呼んでいるのは、言わずもがな後者の方であり、「現代美術」の通史と呼ばれる針生一郎『戦後美術盛衰史』(1979年、東京書籍)、千葉成夫『現代美術逸脱史1945~1985』(1986年、晶文社)、椹木野衣『日本・現代・美術』(1998年、新潮社)、中ザワヒデキ『現代美術史日本篇1945-2014)』(2014年、アートダイバー)などは、いずれも後者に関する論考であった。梅津も、活動の初期から、後者の「現代アート」のフィールドで活動してきたアーティストである。これまでは画壇系と「現代アート」系とは、活動場所が大きく異なり、棲み分けができていた。しかし、オープンして間もないMITSUKOSHI CONTEMPORARY GALLERYの「フル・フロンタル」展の会場で、本来ならば容易に出くわすはずのない出自の作家が一つの空間の中で出会ってしまったことにより、利害を別にする両者の間に摩擦が生じてしまったのではないか。三越はMITSUKOSHI CONTEMPORARY GALLERYを立ち上げて間もないタイミングで、これまでにも美術の制度に言及してきた梅津庸一をキュレーターとして招聘して展覧会を開催することの意味にどの程度、意識的であったのだろう。また、この展覧会の成果をどのように受け止めているだろうか。

 展覧会タイトルの「フル・フロンタル」という言葉は、梅津の作品のタイトルでもあるが、辞書的な意味では「全裸の」、「痛烈な」という2種類の解釈が可能で、「サーキュレイター(circulator)」は、流布者、循環装置という意味をもつ。従来の美術業界のルールに則らないこの展覧会は、近代以降の美術の制度に支えられて成り立ってきた三越という場で行われることによって、今となっては表立って言及されることもない、日本の美術の多層構造を露わにし、制度疲労の蓄積による風通しの悪い場所に溜まった空気の澱み(梅津の言葉を使えば、「汚水」、「花粉」、「滞留」)を循環させようとする痛烈な批評装置になっていた。「フル・フロンタル」は、三越という歴史を持った場所で行われることにより、批評性が増すとともに、意味が際立つ展覧会であったと言える。

 ここで改めて「フル・フロンタル」の出品作家を見てみることにしよう。明治元年生まれの横山大観から平成7年生まれの岡本秀までと取り上げた作家の年齢層は広い。日本画家、洋画家、陶芸家に加えて、デジタル技術を用いた山形一生や、美術大学の絵画科版画コースで学んだ後、渡米後に紙を素材にした立体作品を制作するようになった播磨みどりもいる。現代の感覚で日本画の可能性を追求する岡本秀や、ロンドンで現代アートを学んだ後に、陶芸に行き着いた川井雄仁など、新しい解釈で日本画や工芸にアプローチする作家も含まれている[13]。制作活動だけでなくキュレーションも行い、仲間と共にギャラリーXYZcollectiveを運営するCOBRAは、梅津と同世代のアーティストである。また、女性が12人、男性が27人で、女性の作家が全体の3分の1弱を占めている点もジェンダー的な視点から見ると興味深い。[14]梅津が掲げる5つめのテーマ「不定形の炎症」では、今井俊満や堂本尚郎といったアンフォルメルの画家の1950年代の作品とともに、星川あさこ、わきもとさきの重層的な平面作品が並んでいた点は、注目に値する。

 「フル・フロンタル」では、「現代アート」の文脈では触れられてこなかった画壇系の作家、モダニストから周縁的存在と見なされてきた「工芸」や「日本画」、戦後美術が歴史化される中で周縁化されてきた女性の美術家の表現が組み込まれており、一元的な戦後美術史の解釈を乗り越えようとする意思が垣間見られることに加え、「絵画」「彫刻」「工芸」という従来のカテゴリーで括ることのできない新たなメディア、キュレーションやギャラリー運営も手がけるアーティスト、アマチュア画家も加えて、美術の現在の多層性を見事に浮き上がらせた。

 岡﨑乾二郎が『抽象の力』の中で、よく知られている作家だけでなく、理解されてこなかった作家を取り上げ、作家や作品を前もって設定された括りでくくらずに、普遍的に扱い、一元的な美術史観をくつがえす振る舞いに通じるものを感じさせる。ただし、岡﨑による近現代美術史の読み直しは、いかにその作品が作られたのか、またその差異を生み出した制作過程についての分析が、岡﨑が呼ぶところの「設計思想」[15]によって貫かれているのに対し、梅津の「フル・フロンタル」におけるキュレーターとしての眼差しの先は、制作過程や、直感的な造形への関心とともに、作品の背後にある、美術教育や制度へと向けられている点で、岡﨑とは異なる。

 本展における「ある特定の作品群や事例によって紡がれてきた既存の美術史の問い直し」[16]は、梅津がかつて「優等生の蒙古斑」[17]で、同世代の作家の作品の中に、日本の美術大学で行われてきた近代以降の美術教育の残滓や、美大受験の予備校で習得した技術を応用した「ネオ受験絵画」としての作品性を見出そうとした試みや、2013年に結成した私塾「パープルーム」を通じて、美術の制度に揺らぎを与えようとしてきた活動とつながっている[18]。こうした一連の振る舞いは、1990年代末から2000年代にかけて中村政人が手がけた美術と教育プロジェクトや、村上隆が「GEISAI」で、日本の教育システムに批評的に言及してきた系譜に連なっているようでもあり、1980年代末から北澤憲昭らをはじめとする美術史研究者によって展開されてきた「制度―施設史」研究の流れを汲んだ行為として捉えることもできるだろう。また、フェミニズム理論の成果も聞き入れているのかもしれない。多重の声を反映させた美術史の読み直しによって、近代以降「美術」や「芸術」と呼ばれてきたものを、「大きな物語」の支配から解放し、アップデートしようとする北澤らの試みと[19]、実制作者である梅津による「小さな独立国家」の構想の企てとは、アプローチの方法こそ異なるが、モダニズム崩壊後の新たな「美術」や「芸術」の再構築のための、無数の試みの一つであると言えよう。現在30歳代後半の梅津は、この先の日本の美術の未来に、どのような可能性を切り開いてくれるのか。今後も梅津の活動から目を離すことはできない。

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 最後になったが「フル・フロンタル」に出品されていた個別の作品やテーマについて触れておきたい。「パープルーム」での活動を通して、絵画の可能性を追求しているシエニーチュアンの《最小環境単位》は、地塗りをしていない切れ端の布を支持体に、絵の具の染みや滲み、色彩の重なりなどが印象的な作品であった。梅津が設定した展覧会の中で見たという環境も手伝って、モーリス・ルイスや、ヘレン・フランケンサーラー、榎倉康二らの作品の記憶が思い起こされ、目の前の作品と響き合うような面白い体験をした。星川あさこ《存在の枠組み》、わきもとさき《わたしはおうちのお当番》の作品には、素材選びの自由さや、等身大の生活の中から紡ぎ出される表現に、この先の可能性を感じた。川井雄仁の中身がこぼれおちそうなカラフルな陶芸《新日曜美術館》には現代工芸の現在を、キョンシーのイメージが頭から離れない岡本秀の《幽霊の支度》に、日本画の今を見ることができた。3章の「ダークファンタジー」では、合田佐和子が1973年に描いた《マレーネ・デートリヒ》に、エリザベス・ペイトンが描いた肖像画や、梅津が2010年に描いた《ドナちゃん》を重ね合わせてみたり、山田優アントニのイメージに具体的には思い出すことができない既視感を感じたりもした。合田や山田と共に、有元利夫、高山辰雄、續橋仁子が描いた異国情緒を感じさせるイメージが、彼らの出自や属性と相まって同じ壁面に並んでいることの不思議を味わいつつ、具象のヒロイズム的なイメージにより紐づけられ並べられた絵画の手前に、梅津が、近年始めたという陶器が並ぶという、この展覧会でなければ見ることのない出会いに目を奪われた。一見、土産物の置物のようにも見える《パームツリー》や、《入江》、《戦艦加賀》、《象徴》といった陶器作品には、かつて《霞ヶ浦航空飛行基地》(2006年)でもモチーフとして取り上げられた、真珠湾攻撃で亡くなった大叔父の物語が召喚され、粘土との不自由な格闘の痕に痛ましさを感じた。


[1]愛知県美術館は、2017年度に同展覧会に出品された梅津庸一《フロレアルー汚い光に混じった大きな花粉》(2012-2014)を購入しコレクションに加えている。
[2]梅津庸一「小さな独立国家の構想画」「フル・フロンタル 裸のサーキュレイター」ハンドアウト、2020年6月10日(水)-6月29日(月)
[3]シエニーチュアン(1994〜)とわきもとさき(1994~)は、当時「予備校生」で、会期途中から「パープルームのメンバー」に設定が変更された。
[4]宮崎洋子(1951〜)、内田一子(1947〜)、兼田なか(1935〜)、續橋仁子(1934〜)
[5]会期中にギャラリーを訪問した、東京藝術大学美術学部絵画科(日本画)教授で、日本美術院に所属する画家、吉村誠司の発言と行動と、それに対する梅津と美術家のHouxoQueからの応答を指す。詳しくは、梅津庸一「吉村誠司氏の問題発言と行動について」、https://twitter.com/parplume/status/1277757501052600320、HouxoQue「三越伊勢丹宛公開質問状」https://note.com/quehouxo/n/n29efc380ede2
[6]『株式会社 三越100年の記録』、株式会社三越、2005年、62-63頁
三井の事業を譲り受けて、三越呉服店が設立されたのは同年の12月の事で、10月の段階では、前身の三井呉服店での開催であった。この時の展覧会は「光琳遺品展覧会」と「光琳図案会」が同時開催された。以後、三越で開催された主要催事については、同書の、401-415頁。
[7]同上、69頁 
[8]森仁史「第3章「美術」の制度の拡張と表現主義の台頭―1900年代~10年代」『美術の日本近現代史―制度・言説・造形』、東京美術、2014年、170頁
[9]瀬木慎一『国際/日本 美術市場総観 バブルからデフレへ 1990-2009』、藤原書店、2010年、「主要百貨店の業績と今後」303頁、「小売業界の再編と百貨店の位置」535頁、「百貨店とオークションの曲がり角」535−537頁
[10]倉田陽一郎『日本のアートマーケットが一兆円になる日ー「日本美術市場再生プロジェクト」始動!』、学研プラス、2020年、「日本人の心である日本の近代美術」124−125頁
[11]太田智己「デパートの古美術展」『社会とつながる美術史学 近現代のアカデミズムとメディア・娯楽』、吉川弘文館、2015年、174-190頁
[12]佐藤道信『美術のアイデンティティー 誰のために、何のために』、吉川弘文館、2007年、140-141頁
[13]北澤憲昭は、「工芸」と「日本画」は、モダニストたちから周縁的存在と見なされてきたと述べ、1980年代から2000年代前半を「オルタナティヴの時代」と規定して、「工芸」と「日本画」はオルタナティブ志向の中で、その存在価値と存在理由とが見直されることになったことを指摘している。北澤憲昭「概説 オルタナティヴと制度」『美術の日本近現代史―制度・言説・造形』、657頁
[14]フェミニズム的な視点から近現代美術を研究する中嶋泉は、1980年頃から始まり、1990年代後半から2000年の20年間に日本の戦後美術の歴史が総合化、統一化されていくにつれて、女性の美術家がその物語から抜け落ちていったように見えると指摘している。また、アンフォルメルをはじめとする戦後の抽象絵画の中での女性美術家に対する批評について、「アクション」が男性的なものとして定義されるなかで、女性による表現は徐々に周縁化され、解読困難な作品として例外視されるようになったと述べている。中嶋泉『アンチ・アクションー日本戦後絵画と女性画家』、2019年、ブリュッケ、29-30頁、68頁
[15]岡﨑乾二郎『近代芸術の解析 抽象の力』、亜紀書房、2018年、414頁
[16]前掲、梅津
[17]梅津庸一「優等生の蒙古斑」『ラムからマトン』、アートダイバー、2015年、85-91頁
[18]「コレクティブの活動から生まれる表現とは?パープルーム」「SPECIAL FEATURE アート・コレクティブが時代を拓く」『美術手帖』vol.70 no.1066、2018年4・5月合併号、16-23頁
[19]北澤憲昭「総論―叙述と構成について」『美術の日本近現代史―制度・言説・造形』、30頁


川谷承子(静岡県立美術館上席学芸員)


画像 Photo by Fuyumi Murata 

レビューとレポート第17号(2020年10月)