「なんとかやっていく」のが当たり前だと思っていたら、実は貧しすぎてそれどころではなかった件  ーミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』ー  石川嵩紘

Twitterのタイムラインを眺めていたらNYで展開している日本の飲食チェーンレストランの価格が話題になっていた。日本で840円の焼き魚定食が、NYでは$28(約3,000円)なのだという。「日本の食事は安くてなんて素晴らしい」という能天気なツイートが多くてびっくりした。日本は世界から見ても群を抜いて住みやすい国であるが、デフレに陥っている。旅行者に物価が安いから観光したいと思われるような国となってしまった。バブル経済の崩壊から数十年かけてじわじわと、そして確実に日本は「貧しく」なっている。

さて、今回の書評ではフランスの哲学者、ミシェル・ド・セルトー(1925~86年)の代表的著作『日常的実践のポイエティーク』を取り上げる。「貧しさ」と本書の論旨は切り離せない部分があるため、冒頭でそのことに触れた。セルトーは美術より現代思想の分野で広く知られている。「レビューとレポート」読者にとっては、美術評論家の松井みどりが提唱したマイクロポップのネタ元として馴染みがあるかもしれない。長らく絶版であったがこの度文庫化された。


日常的実践のポイエティーク (ちくま学芸文庫)
著者:ミシェル・ド・セルトー
翻訳:山田登世子
出版 ‏ : ‎ 筑摩書房


マイクロポップについて簡単に説明をしておくと、1990年代以降の日本の現代美術を3つの世代に分け、第3世代とされる1960年代後半~70年代生まれの作家に見られる傾向を定義したものを指す。2007年に松井みどりがキュレーションした「夏への扉―マイクロポップの時代」(水戸芸術館)に参加した作家の顔ぶれを見れば、どのようなものか伺い知ることができるだろう。

島袋道浩、青木陵子、落合多武、野口里佳、杉戸洋、奈良美智、有馬かおる、タカノ綾、森千裕、泉太郎、國方真秀未、大木裕之、半田真規、田中功起、K.K.

この展覧会の続編として、半数程度作家を入れ換えた「ウィンター・ガーデン:日本現代美術におけるマイクロポップ的想像力の展開」(国際交流基金海外巡回展、2009~19)も開催された。図録『マイクロポップの時代: 夏への扉』は入手が難しいようだが、『ウィンター・ガーデン』 の方はまだ購入できるので、興味のある方はお読みいただければと思う。

マイクロポップの作家には「制度的な倫理や主要なイデオロギーに頼らず、様々なところから集めた断片を統合して、独自の生き方の道筋や美学をつくり出す姿勢」[1]があるという。また、マイクロポップは大きな変革がなくとも自ら環境に適応し、押し付けられた状況下で「なんとかやっていく」[2]ための方法論でもある。一見すると「とるにたらない」[3]ものや経験であっても、そこに新しい意味を発見し、潜在的な可能性を引き出すことができる。柔軟なマイクロポップの思想は、不連続な時代においても一種のメディウムとして作用する。

マイクロポップが宣言された当時は、フラジャイルでアドレッセントな要素を持つ美術家を集合体としてとらえた新鮮味も手伝い、美術手帖やインターネット上でしばしば紹介されていた。しかし、2011年に東日本大震災が発生したことで日本の現代美術シーンは「ポスト3.11」を強く意識せざるを得なくなった。そして2020年代になると、多様性が声高に叫ばれ、トランスバウンダリーな美術の在りかたが強く求められるようになる。約10年に及ぶ現実社会の無慈悲な荒波が、ナイーブな想像力を押し流してしまったのだろうか––近年マイクロポップは積極的に語られてはいない。他方で、1980~90年代に生まれた若い作家たちの中にもマイクロポップ的な感性が息づいていると感じるのは僕だけではないはずだ。彼らを仮にマイクロポップの第4世代とするならば、新しい傾向を認めることができると考えている。(機会があればこの「第4世代」についても論じてみたい。)

マイクロポップの成立背景にも目を向けてみよう。哲学者ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの「マイナー文学」の思想と、セルトーの主張した「日常性の実践の戦術」 に影響を受けたのだと松井は述べている。[4]

ドゥルーズとガタリの「マイナー文学」はモダニズム文学に立脚した考え方だ。フランツ・カフカ、ジェイムズ・ジョイス、サミュエル・ベケットといった小説家は母国語ではないドイツ語などで作品を書いた。それにより言語の非領域化が起こり、本来の用法とは異なった意味が生まれる。[5]「マイナー文学」は意味を限定する言葉の枷を外しながら、読者に埒外の想像力を喚起させる。文学と美術で異なる部分もあるが、マイクロポップの作品ともその性質は共鳴している。

もう一方のマイクロポップの源泉であるセルトーの経歴はとてもユニークだ。1925年にフランスのサヴォワで生まれたセルトーは、大学で古典文学や哲学を修め、さらに神学校で訓練を受けたのちにイエズス会の司祭となる。ジャック・ラカン「パリ・フロイト派」の設立メンバーでもあり、精神分析学にも大きな影響を受けている。このようにセルトーの関心は多岐に及ぶ。

1980年に書かれた『日常的実践のポイエティーク』はさまざまな観点から「弱者の戦術」を説いている。ここでいう弱者はマイノリティであり、支配者に対する消費者や移民を指す。弱者は環境を選択できず、「押し付けられた」[6]状況下で生活せざるを得ない。貧しい中でも生きていくための術として、身の回りにあるものを別の使い方で代用したり、そこに新しい用途を見出す。このブリコラージュは無意識的かつ戦略的でもあり、これを「日常的創造性」[7]という。

本書は文化人類学のほかに、都市論からキリスト教論まで幅広く言及しているため、例も豊富で、身近なものに置き換えて読み進めることができる。陳腐な例で恐縮だが「日常的性の実践の戦術」を100円ショップでの買い物になぞらえてみると理解しやすいかもしれない。100円ショップには多彩な商品が並んでいるが、消費者はその造形や機能に注目し、まったく別の使い方を発見したり、一種の遊びのようにいくつかを組み合わせて本来とは別の用途で役立てようとする。読者の方にもそのような経験がないだろうか。選択肢に限りがある100円ショップの商品の中から、消費者は生活に役立てる工夫を半ば無自覚的に考える。大げさに言えば、一人ひとりが名も無き創造者である。この発想を美術に応用したのがマイクロポップといえる。マイクロポップの作家はファウンド・オブジェ的手法を用いることも多く、このあたりもセルトーの論とシンクロしている。

『日常的実践のポイエティーク』はその題の通り、実践の手引き書である。人は突然の困難に見舞われたとしても生きていかなければならない。環境やシステムを変えることができる人間は強者であり、ごく一部でしかない。弱者には現状をやり過ごす術が必要なのだ。彼らの何気ない工夫や選択は創造的で、実は行為そのものが生存戦略であるともいえる。セルトーが語る「なんとかやっていく」とは、不利な境遇すらしたたかに利用し、日常の知恵をツールとして使いこなしサバイブすることを示している。

冒頭で触れたように、日本は「貧しさ」に直面している。貧困は生き延びることへの固執をもたらす。利益を分け合う仲間を集め、連帯するために村を作り、自身の生存繁栄を願う。そんな自己都合で解釈された「なんとかやっていく」が世の中に横行している……。「東京オリンピック」開会式の諸問題も、まさにこの構造によるところが大きい。そもそも、なぜ僕たちは貧しくなってしまったのか?  それは多くの分野で新しい価値提供ができなくなり、生産性が頭打ちになっているからに他ならない。根本的な課題解決を試みず、安易な「なんとかやっていく」が蔓延している弊害である。

よく考えてみれば、現代美術の世界もそんな「なんとかやっていく」だらけだ。現代美術の領土は、先行者の努力のおかげで広がり続けている。現代美術プレイヤーのポストも増え、表面的には豊かになった。それ自体は素晴らしいことであるのは間違いない。しかしながら、最近の現代美術の世界は椅子取りゲームの様相を呈しており、空いている椅子に地蔵よろしく座り込むのが「なんとかやっていく」ことにすり替わってしまったと感じる。もし椅子に座れないならば自分自身で作ればいいし、それが当たり前にならない社会が文化的に豊かとは到底思えない。まずは置かれている環境に向き合い、何をすべきかを必死に考えなければセルトーの説く意味で「なんとかやっていく」ことはできないだろう。

パンデミックによって、経済的・精神的な「貧しさ」を実感する機会は増えている。言葉だけでダイバーシティ&インクルージョンを標榜したところで豊かにはならない。本書の内容は2021年においても有効な部分があり、逆境を乗り越えるための手引きにもなり得る。その点でタイムリーな復刊だったと言えるだろう。とはいえ、環境へ素直に順応することや既得権益化を進めることが本書の伝えたいことではない。押し付けられた状況を変えることはもちろん容易くないが、その中でも知を武器にしながら、真剣に生き延びようとする努力こそが「なんとかやっていく」ことなのだ。


[1]松井みどり『マイクロポップの時代:夏への扉』PARCO出版、2007年、6頁
[2]ミシェル・ド・セルトー、山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫)筑摩書房、106-109頁
[3]松井みどり『マイクロポップの時代:夏への扉』PARCO出版、2007年、7頁
[4]松井みどり『マイクロポップの時代:夏への扉』PARCO出版、2007年、32-36頁
ミシェル・ド・セルトー、山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫)筑摩書房、19頁
[5]ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ、宇波彰/岩田行一訳『カフカ マイナー文学のために』法政大学出版局、27-50頁
[6]ミシェル・ド・セルトー、山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫)筑摩書房、19頁
[7]ミシェル・ド・セルトー、山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(ちくま学芸文庫)筑摩書房、21-23頁


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石川嵩紘(アートディレクター/オーガナイザー)
1985年生まれ。多摩美術大学卒業。大学で日本画を学んだ後、現代美術ギャラリー・爬虫類専門店・百貨店美術営業部の勤務を経て、株式会社ブルーアワーを設立。現在は展覧会の企画や法人のアートディレクションを行う。企画や制作に携わった展覧会として「梅津庸一キュレーション フル・フロンタル 裸のサーキュレイター」(三越コンテンポラリーギャラリー、2020年)、「絵画の見かた reprise」(√K Contemporary、2021年)、「梅沢和木 画像・アラウンドスケープ・粒子」(リコーアートギャラリー、2021年)などがある。


レビューとレポート第26号(2021年7月)