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二つの月、プラスティックトゥリーと梅津庸一 伏見瞬

 梅津庸一の個展『緑色の太陽とレンコン状の月』を観た。絵画と陶芸の色が多彩で艶やか、かつ抽象的な形(丸や三角、あるいはサボテン型の形状など)をそれぞれの作品が共有していて、「作品数が多いのに統一感があって楽しい展示だ~」と思ってみていたら、その場にいたみそにこみおでんさんから展評の依頼を受けた。直後、立ち話でプラスティックトゥリーの話をしていた梅津さんから「プラスティックトゥリーのことを書いてもいいですよ、むしろプラについて書いてください」と言われた。望むところである。私はプラスティックトゥリーのガチファンである。いくらでも書こうではないか。
 そもそも、梅津さんとプラスティックトゥリーの話になったのは、「展示がどこかプラっぽい」ということを私が言ったからだった。絵画や陶芸のモチーフになっている縦長の菱形や円、あるいは紫やオレンジや深い水色の色味が、どこかプラスティックトゥリーの楽曲やアートワークを想起させる。そんなことを伝えたら、今回の展示はバンドのボーカリスト・有村竜太朗氏と対談する前提で作られたとのこと(https://funpalace.jp/features/11)。拝読すると、両人が音楽・美術のどういうところに魅せられてきたか、今までどのような意識で制作に臨んできたかが率直に語られていて、とても興味深い対談だった。この率直さは、別分野の作家同士が語る時の面白さだと思う。ちなみに、ヴィジュアル系のハードコアなリスナーとしても知られている。
 
 まさかご存知ない方はいらっしゃらないと思いますが念のため説明しておくと、プラスティックトゥリーは1990年代中期から現在に至るまで活躍しつづける4人組のバンドです。一応、ヴィジュアル系の括りに入るバンドだが、それ以上に日本髄一のオルタナティブ・ロックバンドですね。ヴィジュアル系に興味がなくても、プラスティックトゥリーは好きだという人も多くいる。とはいえ、オルタナティブ系(1※)のバンドのファンが必ずしもプラを聴いているというわけでもないし(というかそんなにいないと思う)、ヴィジュアル系シーンのなかでは外れた場所にいる。微妙な立ち位置に居続けるのがプラスティックトゥリーというバンドだ。
 
1※ 「オルタナティブ」といっても定義は曖昧だが、ここでは90年代前半にアメリカ・イギリスで隆盛した「オルタナティブ・ロック」と近い関係のある日本のバンド、ということにしておきます。具体的には、ナンバーガール、くるり、アジアン・カンフー・ジェネレーション、アートスクールあたりを想定しています。プラスティックトゥリーのギターやドラムの音の感触は、こうしたバンドのそれに近い。
 
 
 今回の展示が月をひとつのモチーフにしていることもあり、私はプラスティックトゥリーの中でも「まひるの月」という曲を思い出した。プラスティックトゥリーの総論については以前に個人ブログで書いたことがある(https://iwasonlyjoking.hatenablog.com/entry/2019/03/18/235906?_ga=2.178284960.520611683.1672807604-1330677674.1664942903)ので、今回は「まひるの月」一曲についてひたすら語ってみようと思う。この曲について書くことで、展評の代わりとしたい。(以下、敬称略)



 「まひるの月」には二つの録音があるが、1997年のメジャーデビューアルバム『Hide and Seek』版ではなく、2001年の再録ベストアルバム『CUT』のヴァージョンを好んで繰り返し聴いた。初録に比べてシャープに録られた音像が素晴らしい。『CUT』の録音はどの曲も素晴らしいので、プラを最初に聴くならこのアルバムをお勧めします。なので今回は、『CUT』版を主な対象にします。
 
 「まひるの月」は『CUT』の4曲目に収録されている。最初に聴いたときは、シングルにもなっている「絶望の丘」や「プラネタリウム」に比べて地味な曲だと思った。しかし、何度か聞くうちに、次第に彼らの曲の中でもベストの一つだと感じ始めた。それどころか、私が人生で聴いてきた曲の中でも格別に素晴らしいポップソングだと思うようになった。先に結論を述べておくと、音と言葉における「距離」の操作が、この曲の密やかな魅力となっている。
 順番に曲のなかで起きていることを記述してみる。再生ボタンを押すと、ベースが三連のリズムでメロディを刻むのが聞こえる。直後、ドラムのフィルが「ドコダカタト」と左チャンネルから右チャンネルへ転がって、曲が始まる。ハイハットとスネアが平坦で淡白なリズムを繰り返す中、ベースとキックは16分で跳ねる。休符による隙間が多い。沈黙の間を、ナカヤマアキラによる残響を含んだギターのアルペジオが三連のリズムですり抜けていく。裏拍で入る、一弦3フレットのF#音を強調するストロークが煌めいていて鮮やかだ(通常一弦の3フレットはG音だが、この曲はギターチューニングが半音下げに設定されている)。ギターのミックスは左側に寄せられていて、右側は隙間ができているように感じられる。4度(E)のメジャーセブンスと1度(B)のメジャーを繰り返すコードは浮遊感を伝えるが、そのふわふわ浮かんでいるような感覚は、ぼんやり「ほ〜わ〜わ〜」と右側から聞こえるギターの逆再生音によって強調される。淡白さ、隙間の多さ、浮遊感。この三つが、「まひるの月」の全体を包む印象だろう。浮遊感は、プラスティックトゥリーというバンド全体の特徴でもある。
 曲が次のパートに移る。歌が拍子の頭より前に、アウフタクトで入ってくる。


みんなキラキラして 嘘に見えて不安だから
7月の高すぎる青い空は嫌いなんだ


 コード進行はEmaj7→G#m7に変わっている。このパートの小節頭で左側のギターは「ポーン」と響くハーモニクスの3連のリズムを鳴らしており、倍音の拡がりが浮遊感の表現となっている。エイトビートのドラムは最初の小節で裏拍のスネアを抜いている。ギターもドラムも、隙間の広がりを演出していると言っていい。
 有村竜太郎の歌も、隙間と浮遊感を伴っている。「みんな」の「な」が裏声で広がり、「キラキラ」と歌う前に、1小節分の少し長い空白がある。「だから」と「なんだ」は、4度→3度→1度(E→C#→B)と穏やかに下降していくメロディとともに、鼻に息を通した声が柔らかい。アクセントは「な」や「だ」の「a」音に多く、それも「広さ」のイメージを与える。歌唱は、終始おおらかで柔らかい印象をもたらしている。
 にもかかわらず、「まひるの月」の詞は、孤独めいた嫌悪感を伝える。「キラキラ」が「不安」になる。「青い空」が「嫌い」になる。「キラキラ」も「青い空」も日本語の文脈のなかでは否定的に受け取られる言葉ではないから、ネガティブな嫌悪感の表出はポジティブな景色と強い対比を成している。ギターの音も声の調子も柔らかい拡がりをもっているのに、「不安」と「嫌い」によって歌われる感情だけは、狭い場所に閉じこもっているのだ。あたりの気配から切り離されているから余計に、孤独感が強く聴く者に迫ってくる。その後にくる間奏はイントロとほぼ同じだが、孤独感が後を引いている分だけ空虚な響きを持っている。


雨のあとにぬれた 細い道で忘れられた
うすい透明なビニール傘 僕みたいに風で飛んだ


 もう一度、ヴァース(Aメロ)に戻る。コード進行と演奏は最初のパートの繰り返しだが、描かれる景色は「雨」に彩られており、前半の「青い空」のイメージとは重ならない。ただ、「雨のあと」と歌っているから、「高すぎる青い空」は「雨のあと」に訪れた景色かもしれない。前半と後半の描写は時間軸で繋がっているのかもしれないし、まったく別の時間の描写かもしれない。確かなのは、「うすい透明なビニール傘」と「僕」を重ねて描いていることと、「忘れられた」、「透明な」「風で飛んだ」などの語尾が「a」で統一されていることだけだ。「a」を多く含む歌唱はここでも穏やかな拡がりを有しているが、ビニール傘が風で飛ばされるイメージは「僕」の脆弱さを示している(2※)。ドラム・ベース・ギターの演奏の空白の多さが、「僕」の存在の空虚さと呼応しており、穏やかさが持続する傍らで孤独な印象はより深まる。最初のパートでは「だーかーらー」、「しちがつーのー」と伸ばし気味で歌っていたのが、ここでは「ぬれた」や「うすい」を伸ばさずに切って発音している。声が繋がらずに、孤立してバラバラに落ちていく。そんな情感が浮かぶ。
 
2※ 歌詞に「ビニール傘」という日常で使用する物が登場するところに、他のヴィジュアル系バンドとプラスティックトゥリーの違いがある。ヴィジュアル系バンドの多くは、リアルな内面の苦痛を描く際にも幻想的・非日常的な描写を用いるのが常だが、プラスティックトゥリーのリリックは日常的な描写を多く含む。演奏者が非日常的な化粧をしていても、日常のリアルが消えない。半端な幻想感、半端な日常感が、ヴィジュアル系のバンドシーンから浮いているような存在感の原因となっている。



 次のパート(ヴァース2、Bメロ)ではコード進行が変わり、右側からアコースティックギターのストロークが入ってくる。左側のギターは単音でフレーズを細かく弾き、ボーカルはシンコペーションを多用して躍動感を表す。音の詰まった、忙しない印象がせり上がってくる。
 


ずっとくりかえす 脆弱なうたごえの
蝉の声でくるいそうだ うるさくてたまらない!
まひるに出る 細く長い三日月の切っ先が
針のようにしずかにそっと僕に刺さってた
 


 先ほどのパートで、「脆弱さ」が「ビニール傘」と「僕」を繋げていることを明らかにしたが、ここで「脆弱さ」に「蝉」が加わる。「蝉」と「僕」は重なっているから、「うるさくてたまらない」蝉の声は、「僕」の内面から響く声の喩えでもあるだろう。「細く長い三日月の切っ先」には「k」の鋭い子音が5個含まれており、針のように刺さる感触を強調する。ここのリリックでは、「うるさくてたまらない!」と「しずかにそっと」との間に、騒々しさと静けさという引き裂かれが生じている。
 さらに「たまらない!」の五音は、歌詞カードに書かれたエクスクラメーションマーク「!」の爆発感とは裏腹に、5度のF#音からの1度B音の安定にむかって降りていく落ち着きの中で歌われている。「しずかにそっと」は高いF#音の八分音符の連続と「にー」のシンコペーションで疾走していて、音を聴く限りは「しずか」でも「そっと」でもない。引き裂かれは、言葉同士の関係と、言葉と音との関係とで二重化している。文法上「うるさくてたまらない!」は現在形で「僕に刺さってた」は過去形だから、時間軸の上でも引き裂かれが生じている。状況はより混沌としてくる。つまり、このパートでは多重の分裂によって、混沌を作り上げているのだ。音の流れ自体は抑制されているが、その中でひそかに、混沌が暴発している。
 楽曲の流れとしては次がコーラス(サビ)のパートにあたるが、「最高潮」と言えるような盛り上がりは起こらない。混沌が若干整理されており、ピークの過ぎた後の表現のように響く。
 


胸が痛くなりだして 息ができなくなるから
酸素が足らない僕は 泣きながらあえいで
胸が痛くなりだして 息ができなくなるから
酸素が足らない僕は 泣きながら喘ぎ続けていた
 


 「胸が痛い」、「酸素が足りない」と「僕」が強い苦難の中にいる状況が描かれるが、描写自体は整理されており、混乱は見られない。先ほどまで忙しなく動いていたボーカルとギターは音を伸ばす演奏に変わっており、8分音符の刻みをハイハットからシンバルへ変更したドラムとともに作る空気はおおらかだ。Emaj7→D#m7→G#m7→C#7というコード進行は少し寂し気なマイナー調で、「穏やかなさみしさ」とでもいうべき気配が全体から漂ってくる。最初聴いた時に「地味な曲」という印象を持ったのは、コーラスに感情の高揚や大きな盛り上がりが欠けているためだろう。一つ前のパートでのボーカルの最高音が裏声の高いB音なのに対し、ここではF#音から始まって低音に下がっていくのも、盛り上がりを持たない要因となっている。ただ、歌のリズムは心地よく躍動している。「胸が痛くなりだして」の「がいたくなりだし」の箇所では、aの音が交互にきており、リズミカルに響く。また、「なりだし」「なくなる」「足らない」「泣きながら」と、「な」の音も繰り返し現れており、細かい反復が柔らかい律動感を生んでいる。平板さの中に躍動感が潜む。それがこのパートの魅力だ(3※)
 
3※ 本稿での音韻分析では、「a」音がおおらかで広い、「k」音が鋭い、「な」(na)の音が柔らかいという価値判断を無条件に加えているが、この判断は音声学上の研究に基づいている。川原繫人『音とことばのふしぎな世界―メイド声から英語の達人まで』岩波書店〈岩波科学ライブラリー244〉、2015を参照。



 最初のコーラスが終わって間奏に入るところで、この曲一番の変化が訪れる。ギターが大きな音で入ってきて、音空間へ侵入するのだ。加えて、今までのコード進行が全て4度のEmaj7から始まっていたのに対し、ここでは1度のBから始まる。浮遊感のある4度のメジャーセブンスから、どっしりと安定した1度メジャーへ。伸びのよい5度の音を強調するギターソロは豊かな歪みを携えており、音の全体が力強い。いままでの曖昧な淋しさが吹き飛ぶような、安定した強さが全体に漲る。
 ここから、コード進行が再び4度のEmaj7へ戻る。ところが、音の印象はそれまでのぼんやりしたさみしさとは大きく異なる。ギターソロ以上の大きな音量で、歪んだギターのカッティングが飛びこんでくるからだ。ソロパートのギターは中心から聞こえてきたが、ここでのギターは左右の耳を包み込むように全体を埋め尽くす。弦の震えが直接耳で感じ取れるような直接的な接触感。耳元で目覚まし時計が急に鳴り出すような驚き。同時に、逆再生したサイケデリックな音が揺らいで聞こえる。淡い音像の中で、歪んだギターが鳴ったり止んだりしている分、その生々しさはダイナミックに響く。ボーカルはハミングし、ベースは休符を交えながらメロディを奏でているが、ギターだけは旋律感を排した音の壁として耳に届いている。だからこの箇所では、さみしい気配と暴力的な印象が、ぶつかって響く。そして、ギターがふっと消えると、ヴァース2のパートに戻る。ギターは左チャンネルの単音フレーズだけとなり、音量は一気に縮みこむ。隙間が多く、静けさの印象ばかりが後に残る。
 


水槽でおよぐ金魚 さっきから仰向けで
浮いてみたり沈んだりして まるで僕のまね?
まひるに出る 細く長い三日月の切っ先が
針のようにしずかにそっと僕に刺さってた
 


 最初のヴァース2にあった右側のアコースティックギターの音が聞こえず、半分を過ぎたところでようやく聞こえてくる。隙間がより大きくなり、空白は放置される。そんな中、歌は金魚の様子を描写する。「浮いてみたり沈んだりして」いるのは、おそらく死体だからだろう。前半には「ビニール傘」と「蝉」が「僕」に重ねられていたが、ここではさらに、「まるで僕のまね?」というフレーズによって「金魚」が重なる。目に見える、耳に聞こえるあらゆるものが「僕」で充満していくというのが、「まひるの月」を支配する運動規則だ。音の空白を埋めるように「僕」は満ちていき、やがて細く長い三日月に接触する。
 
 最後はコーラス(サビ)を繰り返していく。リリックは1度目のコーラスと同じ。「胸が痛くなりだして」から続くフレーズは、外側に充満した「僕」を内側へ送り返すものだ。「息ができなくなる」も「泣きながらあえいで」も、身体の内的反応に終始している。
 外と内の蝶番となっているのは、「三日月の切っ先が僕に刺さる」という比喩だ。遠いものが一気に接近する非現実的なイメージによって、「僕」の膨張が身体作用に変換される。その時、描写が整理された過去形になるのは、外の景色には客観的になれないのに自分の身体には客観的に反応してしまうという、一種の乖離の感覚を表しているように思う。壊れているが故の客観性とでもいうべきものが、ここから感受される。
 遠い風景が身体の近くで触知される運動に呼応しているのが、楽曲全体におけるギターの音色の変化である。隙間の多い、残響を含んだギターが突如大音量になり、耳に触れるような直接性を残す。遠いところから突如接近していく様は、「三日月」という遠い景色がゼロ距離で体に刺さる感覚と対応している。つまり、音の隙間を活かすことで距離の変化を演出しているのが、「まひるの月」という曲なのだ。ギターの音の変化は、リリックの世界に応答すると同時に、それ自体が官能の解放をもたらしている。
 孤独感や淋しさや空虚が静かに爆発し、「僕」の呼吸器官は失調をきたすというのが「まひるの月」の描く世界だ。静けさの中、精神不安の混乱にのたうち回る情景を、言葉と音の相互作用が表す。と同時に、ギターの録音における距離の操作が、解放感を導く。「まひるの月」は、混沌と解放を同時に生み出していく音と言葉の運動によって、聴く者の感性を刺激する。孤独な魂を、孤独のままに解放していく。
 コーラスの繰り返しのあとで、「そして目を閉じた」というつぶやきが聞こえる。「目を閉じる」という遮断行為は、それまでの「僕」の変化をすべて切り離すイメージとして触知される。「僕」の膨張する運動が身体反応に流れ込むのを止める行為として、「目を閉じる」が選ばれるのだ。同時に、運動の終わりは、楽曲自体の終わりも意味している。1小節目での唐突な終わりを迎え、逆回転の淡い音が微かに残る。
 



 『CUT』の「まひるの月」を聴き終えた後で『Hide and Seek』のヴァージョンを改めて聴いてみると、ギターが随分と平板に聞こえる。音の距離感が乏しく、近くも遠くもない。特に間奏部分では、ギターカッティングがコーラスのかかったクリーントーンになっており、大音量の歪みで耳に衝突する『CUT』版の大胆さとは相当に異なる。「まひるの月」は、再録によって強い魅惑を持つことになった曲であることがわかる。遠さと近さを行き来する、ぼやけた距離から強烈な接触を行き来する音、主にギターのナカヤマアキラによって作られる音は、プラスティックトゥリーというバンドの性格を決定づける特徴となった。
 『緑色の太陽とレンコン状の月』にも、距離に関わる力があったように思う。陶芸作品と絵画作品が形や色を共有しながら無数に並んでいる空間は、観る者の距離感覚を刺激するものだ。もちろん、録音作品と美術展示では「距離」の捉え方が異なる。そもそも録音作品の場合、再生機器から鳴る音は実際にはすべて等距離で響いているから、「距離」というのはあくまで感覚的なメタファーだ。物理学的には距離の違いがないからこそ、「遠さ」と「近さ」の感覚変化が貴重な体験となる。実際に作品と鑑賞者の間に距離の変化がある展示空間では、むしろ距離感の無化が貴重なものとなるだろう。『緑色の太陽とレンコン状の月』の展示には、色艶や形状が、深い群青色や縦長の菱形が距離の差を超えて同じ強度で迫ってくる感覚があった。梅津庸一とプラスティックトゥリーはほぼ真逆の方向から、似たような混沌と解放を生み出していたと思われる。
 そういえば、『緑色の太陽とレンコン状の月』というタイトルの「緑色の太陽」を、梅津庸一は高村光太郎のエッセイから取っている。日本の作家は、どうしたら「日本」から自由になれるのか。「日本の作家」ではなく、ただの「作家」として受け止められるにはどうすればいいのか。作品とナショナリズムの関係を問う高村の短い文章に梅津は反応したのだが、梅津が愛好するヴィジュアル系というジャンル自体が、ナショナリズムに根深く規定されている。欧米のゴスカルチャーから出発しながら、日本風土の影響を避けられずに受けたのがヴィジュアル系という文化だ。キュアーやバウハウスを模倣しても、別のいかがわしい何かに変わってしまうのがヴィジュアル系の音楽だ。その中でもプラスティックトゥリーは、ナショナリズムと日本語に対して意識的に振舞ってきたバンドであるように思う。高村光太郎と梅津庸一とプラスティックトゥリーは、おそらく一つのラインで繋がっている。
 そのラインに名前を与えるなら、磯田光一が言うところの「鹿鳴館の系譜」になるだろう(4※)。不平等な力関係の中で生き残るために欧米文化のコピーをせざるをえなかった近代日本。鹿鳴館は“欧化という伝統”を持つ近代日本の象徴的建造物である。どんなに遠ざかろうとしても、日本人の自意識に絡めとられるという経験としての「鹿鳴館」。近代以降の日本が抱える葛藤と、三者は格闘しているように思う。ちなみに、プラスティックトゥリーを含む多くのヴィジュアル系バンドを輩出したライヴハウスに、1980年から現在まで経営を続けている「目黒鹿鳴館」がある。
 
4※磯田光一『鹿鳴館の系譜―近代日本文芸史誌』 ,講談社文芸文庫,1991年を参照
 
 作品の独立性とナショナリズムの連続性との闘いの跡が、高村・梅津・プラスティックトゥリーには刻まれており、三者を通覧することで見えてくるものは小さくないはずだ。この問題を精緻に論じるのは詩文、美術、音楽それぞれの近現代史を研究しなければならないので、今ここに書き連ねる余裕がない。というか、試しに書いてみたのだが全然うまくいかなかった。私一人で行える作業ではないかもしれないが、ひとまずは今後の課題としたい。


緑色の太陽とレンコン状の月展示風景
Photo by Fuyumi Murata


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緑色の太陽とレンコン状の月展示風景
Photo by Fuyumi Murata




伏見瞬
「批評家/ライター。 音楽をはじめ、 表現文化全般に関する執筆を行いながら、 旅行誌を擬態する批評誌『LOCUST』の編集長を務める。2021年12月に初の単著となる『スピッツ論 「分裂」するポップ・ミュージック』をイーストプレスより刊行。「分裂」というキーワードを軸に、スピッツのあらゆる側面を語り切った骨太な一冊として注目を集める。」




梅津庸一 「緑色の太陽とレンコン状の月」
会期: 2022年9月10日(土) – 10月8日(土)(終了)
会場: タカ・イシイギャラリー(complex665)
https://www.takaishiigallery.com/jp/archives/27452/

「想像の世界の質感を探る」 梅津庸一 × 有村竜太朗 対談
FUN PALACE
https://funpalace.jp/features/11




レビューとレポート第47号